ひょうご歴史研究室共同研究員

  伊藤 宏幸

 私は、ひょうご歴史研究室と淡路島日本遺産委員会との連携が始まった、平成29年度から参画させていただいています。

 淡路島の日本遺産は、『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」~古代国家を支えた海人の営み~をタイトルとするストーリーで、平成28年に認定されました。このタイトルにある「国生みの島」は、『古事記』の最初に登場する「国生み神話」で最初に生まれる島として描かれた淡路島の姿を指しています。淡路島日本遺産委員会では、この神話が誕生した背景に存在する歴史を知ることが、島の歴史文化の大切さとおもしろさを知ることにつながると考え、そこに深く関わるとされる「海人」を対象とした調査研究を進めてきました。

 淡路島日本遺産のストーリーの本質的な意味を理解し、より魅力あるものとするためには、歴史資料としての『古事記』や「国生み神話」の研究が欠かせないものでした。ひょうご歴史研究室との連携は、考古学からのアプローチが中心であった研究に、文献史学からの調査研究を加えることとなり、ストーリーに磨きをかけ、より深く理解することに大きな力となっています。

 毎年、研究成果を公開する場として開催してきたシンポジウムは、今年は新型コロナウイルス感染症の影響で開催を見送らざるを得ませんでした。魅力ある島の歴史を知っていただく機会として、次回の開催に期待していただければと思います。

 なお、個人的には、海人の生業ともいわれる淡路島の土器製塩研究に長らく取り組んできました。日本遺産の構成文化財でもある引野遺跡(古墳時代前期~中期)では、底に脚台とよばれる突起のついた製塩土器の形が、丸底でコップ型のものに変化する様子が確認され、それに伴い使用された土器の量も急増することが明らかになりました。脚台部が徐々に小さくなっていき、最後には丸底の土器が成立する型式変化は、底から受ける熱を効率よく土器の中に伝えることにつながり、土器の製作に要する時間も短縮できたものと考えられます。熱効率が向上した薄手で丸底形の土器の使用は、一回当たりの生産に要する時間を短縮し、操業回数を増加させることで、塩の大量生産を可能にしたことが想定できます。製塩土器にみられるこの技術革新は、淡路島における塩の大量生産の始まりを示しており、淡路島の塩が本格的に島外に供給され始めることを想像させる重要な遺跡でもあります。

▲引野遺跡出土の脚台式製塩土器と丸底式製塩土器
▲製塩土器底部の形式変化

 また、貴船神社遺跡では、兵庫県下で初めてとなる製塩炉の発見に携わることができました。そこでは、砂浜に石を敷き詰めた古墳時代後期の石敷炉が発見されています。石敷炉の採用は、炉の構造面からの熱効率の向上を意味しており、それは同時に認められる製塩土器の大型化にもつながった可能性があります。この時期は、淡路島の製塩遺跡の規模が大規模化する時期にも合致しており、さらなる量産化に向けた技術革新であったとみることができます。なお、「野島」の地に位置するこの遺跡は、『日本書紀』に登場する「野島の海人」との関係も想定される遺跡でもあります。このように、様々な技術革新を経て量産された淡路島の塩は、都にも供給されることとなり、「御食国」としての島の歴史を形づくる重要なものであったと考えられるのです。

▲砂浜を直接炉床とした引野遺跡の製塩炉
▲貴船神社遺跡の石敷製塩炉

 最後に、私ごとで恐縮ですが、本年3月末に淡路市教育委員会を定年退職することになりました。当研究室には、淡路島日本遺産委員会の一員として参加させていただいただき、多くのことを学ばせていただきました。藪田室長をはじめ、坂江研究コーディネーター、研究室の皆様には大変お世話になりました。この場をお借りして、お礼申し上げます。これからは、淡路島の土器製塩研究をとおして、微力ながら海人の研究のお役に立てればと考えています。お世話になりました皆様、本当にありがとうございました。