令和6年3月17日(日曜日)、当館、ひょうご歴史研究室、淡路島日本遺産委員会が主催する、令和5年度ひょうご歴史文化フォーラム「瀬戸内海の海人と水軍 -古代・中世の淡路・阿波・紀伊-」が、淡路市立サンシャインホールにて開催されました。このフォーラムは、ひょうご歴史研究室と淡路島日本遺産委員会との共同研究の成果、また兵庫・徳島「鳴門の渦潮」世界遺産登録推進協議会との連携事業の成果を発表する場として位置づけ、以下の内容でおこないました。

   講演①  古市晃・ひょうご歴史研究室客員研究員(神戸大学教授)

        「海人の地域間交流と倭王権」

   講演②  大村拓生・ひょうご歴史研究室客員研究員(関西大学非常勤講師)

        「源平内乱期と中世の海域的世界」

   コメント 伊藤宏幸・ひょうご歴史研究室共同研究員(淡路市教育委員会職員)

        「弥生時代の鉄器生産遺跡と海の民」

   パネルディスカッション

        パネリスト:古市晃、大村拓生、伊藤宏幸

        司会:坂江渉、定松佳重(南あわじ市教育委員会埋蔵文化財事務所主任)

 討論では会場からの質問用紙を交えながら、①各時代の海人・海の民、水軍とは、一般の民と区別して、どのように位置づけられる存在なのか(その定義)、②弥生時代~古代~中世の海洋ネットワークのあり方は、一本の線で結ばれる広域的なものだったのか、あるいは地域間をつなぐ「分節的」なものだったのか、③各時代の権力と海の民との関係をどう見るか、④淡路島の北半(津名郡)と南半(三原郡)を基軸とする海洋ネットワークの違い(とくに弥生時代の鉄文化と青銅器文化など)、⑤海の民にとって「鳴門の渦潮」は難所として位置づけられていたのか、などが主な論点になった。

 このうち最も議論になった②に関して、バネリストの大村客員研究員は、中世の海の民や水軍領主たちは、それぞれのテリトリー(縄張り)を持つ独自性の強い存在で、ネットワークのあり方は分節的、分権的であったと答えた。⑤については、3氏とも「鳴門の渦潮」は海の難所であったのは確かだが、渦潮の「潮止まり」の時間帯、月齢にもとづく潮の干満等の情報に通じていた海人・水軍領主たちは、比較的たやすく海峡を渡っていたと考えられる、などと答えました。

 会場で回収したアンケート用紙の結果によると、「淡路に密着した話だったので、大変興味深かった」「紀伊・淡路の関係性について、とくに中世の成果が分かりやすくまとまっていた」「パネルディスカッションが良かった」「講演は多岐に亘っていたが、もう少しゆっくりと話してほしかった」などの意見が寄せられてました。

 


合わせて113名の方々が参加した