研究員のブログ
2022年3月2日
研究員のリレートーク
研究員のリレートーク 第24回 書写山円教寺の文献資料調査
ひょうご歴史研究室共同研究員 田村 正孝
こんにちは。共同研究員の田村正孝と申します。2017年度から「赤松氏と山城研究班」で活動しています。
今回は、私が所属する大手前大学史学研究所の調査研究を紹介します。史学研究所では、書写山円教寺(姫路市)の歴史文化遺産の総合調査を行っています。円教寺は康保3年(966)創建の由緒を持つ天台宗の古刹です。中世には国衙が主催する仏事において、鎮護国家や五穀豊穣の祈祷を担った播磨六箇寺の筆頭寺院です(※播磨六箇寺はいずれも天台宗寺院で、円教寺の他に、増位山随願寺、八徳山八葉寺、蓬莱山普光寺、法華山一乗寺、妙徳山神積寺があります)。
2007年度から実施した境内地調査では、3次元航空レーザーを活用して寺院空間を復元したり、建造物・出土遺物・石造物・棟札類の悉皆調査を行ったりしました。その成果は、大手前大学史学研究所研究報告『播磨六箇寺の研究Ⅰ・Ⅱ』(2013年・2015年)にて公表しています。
そして、2015年度からは文献資料調査に取り組んでいます。本調査では、「書写山円教寺資料」「書写山十妙院資料」「書写山仙岳院資料」など円教寺所蔵の文献資料の現状を把握し、目録化する作業を進めました。この調査によって、円教寺に伝来する文献資料の多くが明らかとなり、2021年には目録を掲載した『播磨六箇寺の研究Ⅲ』を発刊しました。引き続いて現在は、膨大な数量に及ぶ大蔵経の調査を実施しています。
現代に古文書など文献資料が伝来することは大変貴重なことです。文書を相伝する者がいなくなったり、焼失したりしたことで、散逸や消失することが多々ありました。寺誌をみると、円教寺でも度々火災が起こったり、武士らによる争乱の影響で被害を受けたりしていたことがわかります。
例えば、天正6年(1578)3月、羽柴(豊臣)秀吉は別所氏が籠もる三木城攻めをした際、書写山に陣を置きました。円教寺僧の快倫が著した『播州書写山円教寺古今略記』には、秀吉の在陣によって老若上下は方々へ散らばり、坊舎や仏閣がたちまち破損し、顕密の聖教や仏像も地に落ち、魚肉が山に満ちる有り様となったと記されています。
食堂に展示されている旧摩尼殿の柱には「羽柴小一郎」「天正六年」「近江浅井郡」と、秀吉軍の兵が彫ったとみられる落書きがあります。また、滋賀県長浜市の舎那院に安置される木造薬師如来坐像は、もともと円教寺に安置されていた本尊で、秀吉が本拠地長浜に持ち去ったものといわれます。円教寺にとってこの秀吉在陣は衝撃的な出来事で、寺誌や聖教類には「当山一乱」と表れます。
さて、円教寺境内には姫路藩主となった本多家、榊原家、松平家の廟所・墓所があります。今回の文献資料調査では、これらの家に関するものも確認できました。
そのなかに明暦4年(1658)5月7日の本多忠刻の33回忌に用いられた「合曼法則」があります。藩主忠政の嫡男であった忠刻は、姫路城部屋住で10万石を宛行われました。しかし、藩を継承することなく寛永3年(1626)5月7日に死去しました(享年31歳)。この「合曼法則」を読み解くと、ある人物が仏事に関わっていたことがわかります。「東関ノ御城下(江戸城下)」より使者1人が円教寺に遣わされ、香煙の奉物として黄金3枚と白銀20枚が送られています。この送り主は一体誰なのでしょうか。それは、2代将軍徳川秀忠の娘千姫(天樹院)とみられます。千姫は前夫豊臣秀頼と死別後、忠刻と結婚し姫路に住みました(なので忠刻は部屋住にもかかわらず10万石を与えられたのでしょう)。姫路城には千姫のための化粧櫓がありますね。千姫が亡き夫の33回忌法要に関わっていた可能性があります。忠刻の死後、千姫は本多家を離れて江戸に住み、幕府を支えました。
大手前大学史学研究所による書写山円教寺の歴史文化遺産の総合調査は、未紹介の資料も多数発掘し、円教寺の歴史に新たな知見を提供するものとなっているかと思われます。円教寺は播磨の中核寺院であり、寺院と地域社会に関して様々な“発見”があります。今後も調査研究に努め、円教寺の歴史はもちろん、広く地域史・宗教史研究の進展に尽力していきます。
※『播磨六箇寺の研究Ⅰ・Ⅱ』は六一書房で一般販売しております。