新年明けましておめでとうございます。いつも通り、穏やかに迎えた令和6年正月元旦。いつも通り屠蘇をいただき、年賀状を確認して、昼過ぎから恒例の新年家族会で飲食し、歓談していた最中、マンション5階の我が家が突如、ユラユラと揺れた。すわ!地震だと玄関のドアを開け、逃げ口を確保するとほどなく、TVに能登半島地震の速報が入ってきた。

 夜になると輪島市街の火災が映し出されたが、それは29年前の1995(平成7)年1月17日早朝の阪神・淡路大震災をたちどころに思い出させた。「朝市の通りが焼失した」との報道を受けたのは、鎮火後のことであるが、さすがに一度しか現地を見ていない人間に、被災前後を比べられるはずはない。でも、その場所をたしかにわたしたちは訪ねた。

 パレスチナのガザ地区での悲惨な状況を見ても、情報としてのみ受け取るばかりで、痛覚への刺激が薄い。感性が鈍いと非難されても、それは誤魔化せない。しかし一度、そこに身を置いたことがある土地なら、情報は、過去にフィードバックして人の記憶を刺激する。その結果、被害に寄り添うことができる。能登半島に赴いたという体験は、地震を深く受け止める力となる。わたしはそう思う。

 訪ねたのは2021(令和3)年11月初め。最大の目的は、日本海に突き出した棚田の景観、白米(しらよね)の千枚田(重要文化的景観)を見ること。したがって七尾でレンタカーに乗り、能登金剛を経て輪島へ。宿泊した翌朝、かの朝市通りを歩いた。猫の大好物マタタビが売られていたので、妻は大喜びして買い求めた。

 マタタビは夏に白い花を咲かせる落葉樹で、ご主人が山に入って果実を採ってきたと出店の婦人が説明してくれた(その後、網干の不徹寺の愛猫オリベの土産となった)。朝市は、周囲の山や海と繋がっている。朝市通りが再興されることを願わずにはいられない。

 ついで念願の千枚田へ。駐車場に停車して海に向かってあるくこと数分、突如眼下に、刈り取った後の棚田がある。アッという間もなく、小さくて不整形な田圃(たんぼ)が寄り集まって、海に落ちていく絶景に出会う。よくぞここまで手を入れた、と感激すること請け合い。現在はオーナー制度が設けられ、全国から応募があるそうだ。文化庁によって重要文化的景観として指定されてからブームになったというが、それ以前に、愛知県のある高校がボランティアとして定期的に田植え前の草刈りに駆けつけてくれた、と記した記念碑が建っていた。来てみなければ分からない。

 その後、曽々木海岸を通過している途中、北前船の船主(かど)()家住宅(伝統的建造物群の一つ)があるとの案内を見て、向かう。海辺に面して建つその家に入ると説明に、2007(平成19)年3月25日の地震(震度6)で損傷し、2011年8月に復元されたとあった。輪島市のHPによると、平成19年の地震からの復興10年計画が立てられ、その象徴として位置づけられている。この時、能登半島地震の跡にすでに出会っていたのである。

 つぎに重要文化財の時国家に向かう。再訪である。初回の年次は覚えていないが、路線バスで降り、テクテク歩いて到着し、下時国・上時国の両家屋敷を見学したと記憶する。ところが今は、上時国家のみの公開とある(下時国家は令和2年11月末で公開を停止)。

 能登に流された平時忠の末裔と伝えるが、それにしても築200年という入母屋造りの家構えには圧倒される。ところが北國新聞デジタル版によると、昨年11月末に一般公開を終了したそうである。来訪者の激減で、採算が合わないのが理由という。

 新聞紙面では2020(令和2)年12月以降の地震活動が報じられているが、それ以前にも2007(平成19)年3月25日の地震があった。その傷跡は、七尾から輪島・珠洲と廻るなかで否応にも気付いた。その上で、この度の地震である。

 ぜひ復興して欲しい。そのためには人びとの絆が必要だ。輪島市のキリコ会館は輪島湾のすぐ傍に立っているので津波被害が心配だが、そこで目にした能登のキリコ灯籠からは、能登の人びとの絆と賑わいが強烈に伝わってくる。輪島頑張れ、能登半島頑張れ。