9月9日土曜日の夜9時50分、ルフトハンザ航空LH0743が関西国際空港を離陸した。

 6年前は、ルフトハンザもKLMも午前の出発であったが、この度は、夜行便に変わっている。その結果、機内食を食べ終えるとすぐに消灯され、昼行便のように食後、コーヒーを味わいながら本を読む、という暇がない。前の座席に張り付いた小さな画面で、映画を一人静かに見るほかない。復路も夜10時10分ミュンヘン発なので、これまた消灯。結局、持参した新書は序文を読むだけで終わった。6年ぶりの欧州行きの第一印象は、それである。

 つぎに感じたのは、ヨーロッパの遠いこと。LH0743便は、翌10日の午前6時過ぎにミュンヘンに着いたが、日本時間にすると午後1時。前夜10時から翌日午後1時まで実に15時間、空の上にいたことになる。この飛行時間は、6年前の12時間をはるかに超えている。その理由は、いうまでもなく、ロシア上空を飛べないからである。

 小さな画面に映し出されるフライトレコードは、その距離を10900キロと表示し、航路は北京を経て、モンゴル・カザフスタンから黒海・カスピ海と、ロシアの南縁に沿うようにして西に進んでいる。ロシアのウクライナ侵攻が、こういう形で跳ね返っている。その結果が15時間である。

 現地であった日本人の中には、フィンエアーや成田からブリュッセル行のANA直行便で来た人もいたが、その場合は、アンカレッジを経由し、北極圏を超えるルートであったというが、これも飛行時間の延長は間違いない。ユーラシア大陸の東西を長く占めるロシアの地政学的位置は、日本と欧州の航路を左右している。

(写真1)ミュンヘン空港のターミナル

 さて翌10日、中継地のミュンヘン空港で朝を迎えた。午前7時、朝の陽光が、人気のまばらな待合室を射抜く(写真1)。トランジットの時間は大好きだ。異国の地で、乗り継ぎのために集まってくる人々の人種も国籍もさまざま。日本人は少数で、出発地関空の雰囲気と大違い。日本語の聞こえない、この異国感が好きである。だから乗り継ぎには必ず、3~4時間を確保する。

 胃袋を異国感で満たすのもこの時で、ミュンヘンでは到着後の朝6時に、ミュンヘン名物の白いソーセージとビールで朝食代わり。欧州旅行を重ねている間に、友人のドイツ語学者から「ミュンヘンならば」と教えられた逸品である(写真2)。

(写真2)白ソーセージ

 その後、ミュンヘンからブリュッセル空港まではほんの2時間。ブリュッセル航空の小さな飛行機が、小さな国ベルギーの首都ブリュッセル空港に着く。飛行機の小さな分、荷物の出るのも早い。そこからは勝手知ったるルーベンへ鉄道便を使う。走ること30分、街の中央に立つ尖塔が見えてくると、15世紀からの大学都市ルーベンのルーベン駅に到着である。この尖塔、実はKUルーベン大学図書館に聳えるもので、楽器カリヨンが据えられ、時報の音を奏でている(写真3)。中心部には聖ピーター教会やロマネスク様式の市庁舎という比較的高い建物もあるが、第2次世界大戦後に立ったこの尖塔が、いまでは一番のノッポ。

(写真3)ルーベン大学 図書館

 それほどにこの街は、1425年にローマ教皇の勅許によって生まれたKUルーベン(カトリックの大学ルーベンという意味)大学と一体としてある。創立550年にはビールの智慧を頭に注ぐフォンスケ(写真4)が建てられ、街中に立っている。同心円状の都市全体が、姫路城と同じく世界遺産に登録されているが、この地を訪れる日本人観光客は少ない。日本の旅行情報は偏っている、と思う。

 この大学を会場に、EAJRS(欧州日本資料専門家協会)年次大会が開催され、初日の基調講演者に招かれたのである。

(写真4)フォンスケ像と私

 KUルーベンには阪神・淡路大震災があった1995年の9月に二か月滞在したことを皮切りに、何度となく滞在しており、わたしたち夫婦には一つの故郷でもある。ホテルを出て街を歩くと、地図は一切いらない(写真5)。道筋を身体が覚えているのである。そんな懐かしい地での学会に基調講演者として呼ばれたことから、1週間の予定で、6年ぶりにベルギーに来た。(つづく)


(写真5)ルーベン駅から市庁舎に向かう大通り