夏の楽しみとして毎年、アサガオを植えている。花屋で選んだ双葉を買って帰り、ベランダのポットに植えるという、至って安直な栽培であるが、時期が来れば必ず咲き、毎朝の楽しみを提供してくれるという律儀さが気に入って長年、続けている。

 今年も異なった三株を選び、5月29日に植えた。それぞれに蔓を伸ばしていたが、6月29日早朝、一番花が咲いた。左端の「暁の海」だった。そして7月3日、真ん中に植えた大輪のアサガオが咲いた。白い花弁の中央に小さくピンク色の丸が入っており、その名「日の丸」にふさわしい。その後、右端の紺色の小さなアサガオ「弥七」も続けて咲いたが、どうしたわけか「暁の海」と「弥七」は、咲いたり咲かなかったりと気まぐれ。それに反して「日の丸」は律義に咲き続け、8月15日の終戦記念日にも花を付けた。その意味で、今年のアサガオの思い出は、「日の丸」とともにある。

あさがお「日の丸」

 今年1月末に妻の母が亡くなったことから、知覧と靖国に行く機会があった。義母の死を通して、祖父が日本帝国海軍将校として昭和18年(1943)11月、タラワ諸島で戦死している事実が話題となった。母の遺品の中に、父に抱かれた幼子―義母である―の写真があったからである。それは今、妻の手で我が家の本棚に飾られているが、戦後生まれの遺族に、あの(・・)戦争を呼び起こさせることとなったのである。

 妻の祖父は、南太平洋に出撃する前、南九州の甑島に駐屯していたそうだが、それならば、ということで2月、知覧に赴いた。特攻の基地として知られる知覧だが、初めて訪問したそこは、慰霊の地として美しく整備され、知覧特攻平和会館の展示も充実していた。目玉の零式戦闘機は、あまりの小ささに驚くほかない。高倉健主演の映画「ホタル」には、飛行シーンが再現されていたが、知覧から沖縄まで約2時間の飛行途中に、故障で引き返して生き残った将校が主人公であった。

 その小ささは、敵国アメリカの戦艦ミズーリ号記念館が提供した当時の映像に写されていた。小さな物体が、一条の飛行機雲を残して大きな戦艦めがけて落下していくシーンであった。臨場感を抱くには余りにあっけなく、あの戦争は最後に、こういう戦闘シーンで終わったのかと認識するのがやっとであった。

 その一方、展示室に開陳されていた資料、なかでも出撃を前にした少年兵士たちの肉筆は、肖像写真とともに真に迫るモノであった。書かれた文字、使われた紙や残された手紙・日記、そして父や母、妻などの宛名は、そこに一人ひとりの人生があったこと、その人生が、その瞬間に終わったことを告げて、80年前にあった戦争という体験を強烈に訴える。無言である分、饒舌に伝わってくる。死者が語るとは不思議な感覚だが、そうとしか言えない感覚であった。

 そして5月、出張の機会を捉えて靖国神社参拝となった。展示室の遊就館を訪ねたが、そこでは近代国家日本の歴史として、いわば大文字で紹介されていた。それに対し展示資料、とくに出征兵士の遺品などからは、知覧を訪ねた時と同じ感慨を催した。個人の死や悲劇という小文字の世界は、大文字のストーリーに回収されないことを悟ったのである。

 そうした展示品の中に思いがけないものを見つけた。終戦時の陸軍参謀総長梅津美治郎の手紙である。A級戦犯として巣鴨に収監されていた時期に、知人に宛てて出した手紙であったが、予想した通り達筆であった。
 戦艦ミズーリ号上での降伏文書に軍を代表して署名する時、彼が使った万年筆と矢立が寄贈されて当館の収蔵品となっている。巡回展「“ひょうご五国”歴史文化キャラバン」の陳列品として、各地を回った逸品である。それを眺めて、降伏文書には万年筆でサインしているので、矢立を使ったならどんな字を書いたのか知りたいと常々、思っていたからである。

 猛暑の夏、日本のあちこちで、あの戦争が、語り継がれていることであろう。