4月には、「それぞれの戦争体験」と題してロシアのウクライナ侵攻を取り上げ、その不当性を自分なりに整理して記した。2カ月余が経ち、いまだに終戦の兆しが見えない苛立ちから、この月はブログの更新を止めようと考えていた。そんなところに、沖縄の本土復帰50年という大きな節目がやってき、さらにNHK朝のドラマで開始された「ちむどんどん」を連日、見ているともうたまらない。オープニングの並木が備瀬のフクギだと分かると、身体の中の沖縄熱が高まって「ちむどんどん」する。そこで遅ればせながら、沖縄への想いを・・・・

 万座毛に立つ祖国復帰闘争碑(2015年3月)

 昨年の5月15日(本土復帰の日)は、那覇にいた。「まん延防止等重点措置」に指定されているが、ぜひ首里城正殿復元の様子を見てほしい、と古い友人に誘われ、13日から出かけたのである。梅雨にもかかわらず、三日間とも青空が広がり、充実した旅であった。その後の新型コロナ感染の爆発が信じられないほど、穏やかな時期でもあった。

 初日、焼失後の正殿復元工事の進む首里城跡を見学したあと、モノレールで「おもろまち」に出た。米軍の通信基地が返還され、開発されたのが新都心で、琉球の古謡オモロの名が付けられた街である。その中心に沖縄県立博物館・美術館がある。首里城の近く龍潭地に面してあった旧博物館が移転し、新装の美術館を持つ博物館となったのである。

遊歩道から見える沖縄県立博物館・美術館(グスクのイメージ)

 そこの館長を勤める田名真之さんを、勤務終了後に呼び出して、久しぶりに歓談しようーということで、おもろまちの一郭にある食堂を予約してくれたのは琉球大学の名誉教授高良倉吉さん。この度の首里城正殿復元プロジェクトの座長を勤めている、50年来のわたしの友人である。田名さんとは初めて会うが、現職の沖縄県立博物館・美術館の館長で、しかも兵庫県と沖縄県は、復帰の年に友愛協定を結び、交流を続けている。その両県の博物館長に、出会いの場を創ってくれたのである。

 食堂の離れ座敷に席を占め、久しぶりの歓談は大いに盛り上がったが、その理由は、70歳を超えた三人の間に、学生時代に迎えた沖縄の本土復帰の体験と、沖縄=琉球を起点に「大いなる歴史像を」求めようとした若い歴史学徒の夢が共有されていたからである。

 高良は1947年伊是名、田名は1950年那覇の生まれで、わたしは1948年大阪の生まれ。したがって、ウチナンチュウとヤマトンチュウである。大学入学は1972年の本土復帰以前であるから、高良と田名は、琉球政府発行のビザを持ってヤマトの大学に留学していた。高良は愛知教育大学で、田名は神戸大学。当日の話で知ったが、国費の留学生は自分で大学を選べず、全体の留学希望者の中での選考に因ったという。専攻は二人とも歴史、故郷の「琉球史」を学ぶという目的であったが、当時、琉球史は中国史(東洋史)に属していたので、東洋史専攻。わたしは日本史専攻であったので、フツーに行けばスレ違い。琉球史の立場から日本史を学びたいと考えた高良が、愛知教育大学卒業後、京都大学文学部国史研究室に研究生として所属したことで、わたしと接点が生まれた。わたしにも、日本史学徒として琉球史を学びたいという強い想いがあった。いまも書棚に、琉球史の大家比嘉春潮の『新稿沖縄の歴史』(1970年発行)が焼けた箱入りで立っている。

 沖縄の本土復帰は、その前の返還運動を含め、わたしたち若い歴史学徒に「琉球史と日本史」という問いを生んだのである。その問いは、返還後、本土・沖縄の双方で大きなうねりとなり、たくさんの成果を生んだが、そこには、二つの要因があると思う。

 一つは、復帰した沖縄に戻って以降、各地での調査と真摯な思索を経て、高良が1980年に著した著書『琉球の時代』(ちくまぶっくす)に副題として掲げた標語「大いなる歴史像を求めて」に象徴される。日本史と琉球史を超えた、「大いなる歴史像」という構想の魅力である。世界遺産となった首里城正殿の復元は、そのシンボルである。

焼失前の首里城正殿(2016年3月)

 いま一つは、高良の沖縄史料編集所、田名の那覇市史編集所勤務という経歴が示すように、沖縄県内での史料編さん作業の持続的な展開である。ヤマトの大学を出て、郷里に帰った彼らに生活の糧を与えたのが、それであった。30歳代の彼らが、中心となって沖縄・琉球の資料収集を進めた。その結果、沖縄の各地で資料収集が進み、1995年には南風原町に沖縄県公文書館が誕生した。

 「おもろまち」での一夜の歓談には、50年という歳月を超えて、「琉球史と日本史」について語り合ってきた絆がある。復帰50年を期として、兵庫と沖縄の二つの県立博物館の間に、そして学芸員の間に、あらたな交流が生まれることを願う。