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明石城は別名喜春(きしゅん)城とも言う。1617(元和3)年に明石へ入部した小笠原忠政(おがさわらただまさ)により築城された。松平直明が城主となって以後は明治維新まで親藩松平氏が藩主であった。明石は西国の守りの要であるため、重厚な造りとなっている。台地の先端部に築かれた平山城で、本丸・二の丸・三の丸の主郭(しゅくるわ)を中央に、西郭などが取り囲んでいた。築城の際、西の坤(ひつじさる)櫓は伏見城から、東の巽(たつみ)櫓は船上(ふなげ)城から移したといわれるが、現在の櫓は寛永大火後の再建と考えられている。両櫓は1957(昭和32)年に国の重要文化財に指定された。また、明石の城下町の町割りや城内の庭は宮本武蔵が設計したと言われている。

1826(文政9)年3月11日にシーボルトが明石の町を訪れ、『江戸参府紀行』(斎藤信訳)で、「2時頃明石に着いた。かなり大きな町で松平公の城下である。(中略)秩序や規律のみられない、取るに足らない土地である。」との感想を残している。全般的に日本に対して好意的なシーボルトであるが、この地を訪れた際に、かつての日本人とどのように交流したのか、興味深いところである。

所在地 : 明石市大明石町

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