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プロローグ

「シッダールちゃーん!!」

「シッダールちゃーん!!」
プロローグ

冬の終わりのある昼下がり。空から落ちてきた女の人がいました。まるで雪か、梅の花びらでも散るように、ゆっくりゆっくりと。
その人は、「まやちゃん」といいました。
ひろい交差点の真ん中に、まやちゃんが落ちてきたその瞬間を、だれも見た人はいません。運よく、歩道の信号機は青。車道の信号機はすべて赤でした。

プロローグ

まやちゃんが目をひらくと、あっというまに信号が変わりました。左右から車がクラクションを鳴らして走ってきます。
幸い、そばをとおりかかった二人の男の子に体を支えられて、まやちゃんは交差点をわたりきりました。少年たちは礼儀正しく自己紹介します。
「わし、『せい太』ってゆうねん」
「ぼくは『がらん』だよ。よろしくね」
まやちゃんは、ぱっちりとした黒い瞳であたりを見回しますが、ここがどこだかよく分からないようすです。
「わたし、『まや』っていうの」

一章 人道

一章 人道

二人の少年は顔を見合わせました。
「どないしたん?」
播州弁を話す男の子は、せい太、と名のる少年です。
「どうしてあそこにいたのか、思い出せる?」
標準語を話す男の子は、がらん、と名のっていました。
心配した少年たちが、口々にたずねます。
「わたし、息子に会いにいくところだったのよ」
「へぇ。その子この町に住んどん?」
ところが、まやちゃんは息子がどこに住んでいるのか、どんな姿をしているのか、まったく思い出せません。
「う~ん、記憶喪失(きおくそうしつ)かいな」
と、せい太くん。
「それなら、いろんな人に会ってみたら?」
と、がらんくんが言いました。

一章 人道

親切な少年たちにつきそわれ、まやちゃんは、近くの病院をたずねることになりました。
「赤ちゃんに、お年寄り……」
「子どもに、大人……」
三人が病院に入ると、ロビーでは、たくさんの人が順番を待っていました。
「ほんとね。いろいろな人がいるわ……」
熱と咳(せき)で苦しそうな人たち、包帯やギプスを当てた人たち、点滴(てんてき)をうけながら歩くパジャマ姿の人もいます。
遠くでサイレンが鳴っていました。
近づいてきたサイレン音がはたと止むと、急患(きゅうかん)が廊下を運ばれていきました。
「それにしても、ここは……?苦しそうな人ばかりよ……」
と、まやちゃん。
「ここ?ここは病院やで」
「まぁ、苦しいのは『病苦(びょうく)』のせいかな?」
「ビョーク?」
「病気の苦しみって意味や」

一章 人道

外では桜がほころび、並木道にうす紅色のドームをつくっています。まやちゃんは小さくため息をつきました。
「人が苦しむのは、『四苦(しく)』があるせいだよ」と、がらんくんが説明しました。
「シク?」
「『四苦』ってのは、人が生きとるあいだに、どーしても生じる『苦しみ』のことやな」
「とくに『生老病死(しょうろうびょうし)』っていってね、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病いの苦しみ、死ぬ苦しみ……、あわせて四つの苦しみだね。これを『四苦』っていうんだ」
「これに愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)をくわえて八つの苦しみ、つまり『八苦(はっく)』やな」
「人にはこの『四苦八苦』がつきまとっているんだよ」
少年たちは、まやちゃんの知らないことをたくさん知っているようでした。
「だけど、わたしの子は苦しんでいない気がするのよ」
まやちゃんは、この場所に息子がいない事を確信したようでした。
「もしかしたらこの世界にはいないのかもしれないね?」
「この世界?」
がらんくんの言葉をまやちゃんは理解できていません。
「六つの世界の一つは消えたということやな」
せい太くんがぽつりとつぶやきました。

第二章 畜生道
(ちくしょうどう)

第二章 畜生道(ちくしょうどう)

「ねぇ、さっきの話。六つの世界ってどういうこと?」
まやちゃんが尋ねると、少年たちは自信をもって、こう答えました。
「この世には、人間界のほかに、地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、阿修羅(あしゅら)、天(てん)という世界があんねん。これが六つの世界や。『六道(ろくどう)』と呼ばれとる」と、せい太くん。
「人間の世界、つまり人道(にんどう)っていうのは、まだましな世界なんだよ。阿修羅のいる阿修羅道、動物や鳥たちの畜生道、餓鬼たちの餓鬼道、生前の罪を受ける地獄道……。むしろ悪い世界ばっかりなんだ」と、がらんくん。
「そうか!苦しんでいないわたしの子は、人間の世界じゃなくてほかの世界にいるかもしれないのね!」
ひらめいたまやちゃんは、少しだけ息子に近づいたような気がしました。

第二章 畜生道(ちくしょうどう)

「それなら、いろんな世界をみたら、なにか思い出せるかもしれないよ!」
「せやな。まずは畜生道から、人間界じゃない世界をのぞいてみっか!」
三人はそばにあった動物園に入っていきました。
園内ではアジサイが咲き、子育て中のツバメが飛びかっています。檻のなかにはゾウやペンギン、ライオンやキリンなど、世界中の動物がいました。
「動物や鳥、魚、虫たちの世界のことを、畜生道っていうんだよ」
まやちゃんは、のんびりと暮らす動物たちをながめているうちに、なにか思い出せそうな気がしました。

第二章 畜生道(ちくしょうどう)

ふと、まやちゃんは胸元にとまっている赤いテントウ虫に気づきました。手を伸ばすと、テントウ虫は小さな羽をはばたかせて逃げていきました。
「あ……」

第二章 畜生道(ちくしょうどう)


テントウ虫は、こずえ近くまで飛んだところで、スズメのくちばしに捕えられました。親スズメは、巣で待っているヒナ鳥のもとに向かいました。
「動物たちの世界は、『弱肉強食』なんやな」
「え?」
「自然の中で、弱いものが強いものに食べられてしまう掟のことだよ」
まやちゃんは、自分が鳥に食べられた気がして、悲しくなりました。
「動物たちにも苦しみがいっぱいね……。わたしの子どもは、動物の世界にはいないかも」
「畜生道にはいないってことだね……」
「ほな、どこにおんねんやろ?」

第三章 阿修羅道
(あしゅらどう)

第三章 阿修羅道(あしゅらどう)

日がかげり、上空を軍用機が飛んでいきました。
「ねえ、六道には、あとどんな世界があったかしら。どこかに苦しみのない世界があって、息子はそこにいるんでしょう?」
少年たちが答えようとしたとき、雷鳴がとどろきました。雨が降りだしたので三人は木の下で雨宿りをしました。雨脚が強く、まわりは白くかすんでいます。

第三章 阿修羅道(あしゅらどう)

「あそこ!」
まやちゃんが空を指さしました。空には、雲のうえでたくさんの人かげが武器をかまえていました。空にまぶしい稲妻が走ると、ふたつの集団は戦いをはじめました。
「まやちゃん、あれは阿修羅たちが戦いをしかけているんだよ」
「アシュラ……?」
「せや。戦いの神さまや。反対側が帝釈天(たいしゃくてん)……、雷の神さまの軍勢やねん」
阿修羅と帝釈天の一族は、激しくしのぎを削りあい、互いに敵の刃に倒れてゆきました。
「これがまさしく阿修羅道だね」
「ここでは戦うことばかり……。戦いは苦しみ以外のなんでもないわ」

第三章 阿修羅道(あしゅらどう)

まやちゃんの両頬を涙がつたうと、阿修羅と帝釈天たちは、かき消えていきました。
「まぼろし……!?」
空は晴れあがり、虹がかかりました。
「それとも、時空をとびこしてしまったか……?」
「まやちゃんの、子どもに会いたいと願う強い気持ちが、神さま仏さまに伝わったか……?」
不思議がる少年たちを、まやちゃんはうるんだ瞳で見つめました。
「……わたし、どうしても、息子に会いたいの」
がらんくんとせい太くんは顔を見合わせ、つばを飲み込みました。二人は意を決しました。

第四章 餓鬼道
(がきどう)

第四章 餓鬼道(がきどう)

「わかった。まやちゃんの気持ちはよ~分かったで!」
「そうだよ。ぼくたち実は、ただの子どもじゃないんだ……」
どこからか、せい太くんは樫の木の枝をとりだし、がらんくんは蓮の花をたずさえて、笑顔を向けます。
「あなたたち、何者なの?」
「いいから。まやちゃん、六道のうち行きたい世界を思い浮かべて!」
「残るは天道、餓鬼道、地獄道や」
まやちゃんは目を閉じました。がらんくんとせい太くんが、そろって呪文を唱えます。
すると不思議な光が、三人を包みました。

第四章 餓鬼道(がきどう)

目を開けると、まわりは灼熱の砂漠に変わっていました。

第四章 餓鬼道(がきどう)

背後から僧侶が呼びかけました。すぐにふりかえったまやちゃんは、ちらりと黒い影が、僧侶の足もとで動いたような気がしました。
「これ悟空(ごくう)。八戒(はっかい)に、悟浄(ごじょう)も……。オアシスは見つかったのですか?
のどがからからで干からびてしまいそうです」
せい太くんとがらんくんは、ぴんときました。
「あの、お坊さん。もしかして名前は……?」
「いかにも。わたしが三蔵法師(さんぞうほうし)こと、玄奘(げんじょう)です」
「ってことは……、ここは西暦七世紀のシルクロード!」

三蔵法師はうんざりするように、雲一つない青空を見上げました。
「それにしても雨がまったく降らないとは」
「ねぇ、あっちのほうから水の流れる音が聞こえてこない?」
まやちゃんの指さす方向に歩いていくと、水の音が、しだいにだれの耳にもはっきりと聞こえるようになりました。

第四章 餓鬼道(がきどう)

目の前に、雪解け水の早瀬が現れました。三蔵法師は川の水をおいしそうに飲みほします。そのとなりでは、不思議ないきものが物欲しそうにしていました。がりがりにやせ、口が針のように細くとがっています。
「なにかいるわ」
「あれが餓鬼やな」
「六道の一つ、餓鬼道に堕ちているんだよ」
目をこらすと、川岸にはたくさんの餓鬼がいました。餓鬼は川の水をすくい口元まで運ぶのですが、そのとたん水は炎となって消えてしまいます。
「餓鬼はいつも飢えているんだ」
「餓鬼の世界も苦しみばかりね……」

第四章 餓鬼道(がきどう)

にわかに風が吹き、砂塵が舞い上がりました。ざばん、と激しい水音がしました。
がらんくんとせい太くんが目をあけると、川の中でおぼれているのはまやちゃんでした。
幾つもの光が、まやちゃんを濁流に沈めないよう守っていました。そのひとつひとつに、仏さまの姿がありました。
「がらんくん!せい太くん!」
「まやちゃん!」
「いまいくで!」
少年たちは川のなかに飛び込みました。ところが川の流れは速く、三人ともどこまでも深い川底にむかって吸い込まれてゆきました。

第五章 地獄道
(じごくどう)

川底に引きずり込まれ、無限に落ちていくと思われた瞬間、どしん、と三人は地面に尻もちをつきました。そこは大広間の真ん中で、立派な身なりをした十人の王たちが、三人を取り巻いていました。その中央でひときわ肩をいからせ、しかめ面をした王が口を開きました。
「おぬしら、死者ではないな。何者じゃ!」
「へっ。おっちゃんこそ、だれやねん?」
「ちょ、ちょっと、せい太。閻魔(えんま)さまだよ。一目で分かるでしょ」
閻魔大王のすぐそばに立てられていた杖が、火を噴きました。さすがの少年たちもふるえてしまいました。

第五章 地獄道(じごくどう)

「わ、わ……わたし、まやといいます」
「おお! なんと……」
閻魔大王は、近くにいた冥官(みょうかん)に目くばせをします。すると、大きな鏡が虹のように光り、三人のこれまでの行いを映しだしました。
「あの。わたし、自分がだれだったのか、どこにいたのか、忘れてしまったんです……」
まやちゃんは、息子に会いたいと願う気持ちを、閻魔大王に訴えました。
「ううむ。冥府(めいふ)は地獄の裁判所。ここを離れるわけには……」
閻魔大王は、部下の牛頭(ごず)・馬頭(めず)に道案内をたのむと、亡者(もうじゃ)たちの裁きに戻りました。

第四章 餓鬼道(がきどう)

地獄の門が開くと、中ではあちこちから火柱があがっていました。人間の姿をした亡者たちが、大きなまな板の上で刻まれたり、すり鉢でひかれたり、串刺しで焼かれたりしています。
「まるで巨大なキッチンみたいやな」
「ひどい悪臭と熱気です!」
「みて! 人間たちがスープにされてるわ!」

第四章 餓鬼道(がきどう)

炎につつまれた大釜の中には、ぐらぐらと湯が煮えたぎり、大勢の亡者たちがゆでられていました。みんな争って、顔や身体を出そうとします。すると獄卒(ごくそつ)たちが、串や熊手のような道具で、その亡者たちを下の方に沈めてしまうのです。

第四章 餓鬼道(がきどう)

まやちゃんは泣き出してしまいました。
「ここでは、みんなわれ先にと逃げて、……助け合ったり、愛し合ったりはしていない。ほんとうに、苦しみでいっぱいだわ」
しかも、地獄の料理には終わりがありません。ばらばらになった亡者の身体は、獄卒が大きなざるでふるうと、たちまちもとの身体に戻りました。蘇った亡者にはふたたび責め苦がつづくのです。
「いったい、ここはなんの世界なの?」
「まさに地獄道や」
「生前に犯した悪事と同じだけの刑罰を、死後に受けるところですよ」
亡者たちのうめきや叫びが三人の耳をつんざきました。

「母上~! は~は~う~え~!」
まやちゃんたちが引き返して行くと、大衣を着た異国の僧侶が呼びかけました。 まやちゃんはその僧侶をしげしげとながめ、首をふりました。
「あれれ……。わたくしはモッガラーナと申すマガダ国の僧。神通力があって、亡くなった母上が地獄にいるのが、見えたのですが……」
モッガラーナ尊者(そんしゃ)ははずかしそうに頭をかきました。 そのとき、ずしん、ずしん、と大地がゆれ、野太い声がひびきました。
「尊者の母親はここだ……」
巨大な獄卒が、大きなフォークのような道具で大釜のなかを一突きし、ゆであがった女の亡者を引き揚げました。
「母上! ああ、母上~!」モッガラーナ尊者は泣き崩れました。
「お気の毒に……。そうだ。閻魔さまに、わたしかけあってみるわ」
三人は地獄の門を出て、冥府へと向かいました。

第四章 餓鬼道(がきどう)

第六章 賽の河原
(さいのかわら)

第六章 賽の河原(さいのかわら)

影のない乾いた大地には、かつて大河の流れていたあとがあり、小さな水たまりができていました。
「あれ、……どこかで子どもたちの泣き声がするよ」
「ほんとだわ。子どもたちが泣いてる……。この河の先みたい」
そのまま河にそって歩いていくと、徐々に水量が増え、両岸には石の河原がつづいていました。そこでは大勢の子どもたちが、丸い小石を積みかさねていました。

第六章 賽の河原(さいのかわら)

「賽(さい)の河原のようやで」
「さい……?」
「亡くなった子どもたちの魂が訪れる場所だよ」と、がらんくんが説明します。
あたりには風もないのに、たくさんの風車が回っていました。
大地が揺れると、あちこちで子どもたちが泣きじゃくります。まやちゃんたちが見まわすと、恐ろしい鬼たちが金棒をふりまわし、小石の塔を崩していました。
「子どもたちが、死んでからも苦しむなんて!」

そこにふわりと袖をなびかせて、色白のお坊さんが現れました。お坊さんは手にした錫杖(しゃくじょう)で、かるがると鬼の行く手をさえぎりました。鬼たちが退散してゆきます。
「摩耶(まや)さま……。わたくしは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)です」
地蔵菩薩は、子どもたちをやさしく抱きよせました。
「地蔵菩薩さん……。わたし、息子を探しているの。わたしの子は、きっと苦しみのない世界にいるはずなんです」
「ここは、亡くなった子どもの魂が、みほとけとの縁をむすぶ場所……。ご子息さまが直接来られるところではありません」

第五章 地獄道(じごくどう)

地蔵菩薩は、ほほえみながら河を指さしました。
「さぁ、摩耶さまはこの河をこのままくだって下さい。いまならばそのお方に、きっとお目にかかれるでしょう」
まやちゃんはこくんとうなずきました。
「ところで、がらんくん、せい太くん、あのお方が心配しておられるのではないですか?」
地蔵菩薩はそう言うと、子どもたちとともに遠くへいってしまいました。
「そ、そうだよ……、せい太。ぼくたち、仕事中だったじゃないか」
「お、お、親方の話はせんとゆうたはずやで。それに、まやちゃんがまだ……」
唐突に話をふられて、まやちゃんはきょとんとしました。
「わたし、……だいじょうぶよ」

第六章 賽の河原(さいのかわら)

そのとき、空をおおっていた雲の一部が割れ、マッチョな強面の顔がのぞきました。それを見たせい太くんとがらんくんは、平謝りします。
「人間界で人助けをする、と言いだしたのは、おまえたちのほうだぞ。どこの世界まで行っておる! 矜羯羅童子(こんがらどうじ)! 制咤迦童子(せいたかどうじ)もだ!」
「はっ、はい! フドウの親方!」
「こら! 親方ではなく、『フドウミョウオウ』だ、といっただろう」
不動明王(ふどうみょうおう)が眉をつり上げると、背中から炎がめらめらと燃え上がりました。
「すみませーん、親方!」
「『親方』ではなーい!」
まやちゃんは、
「ありがとう」と小さく告げてから、歩き出しました。

第七章 来迎
(らいごう)

第七章 来迎(らいごう)

まやちゃんは、地蔵菩薩におそわったとおりに、その河をくだっていきました。この河沿いに歩けば、はなればなれになった我が子に会えるはず、そう心のなかで想いえがくと、しずかな力が湧いてきました。一人きりでどれくらい歩いたでしょう。いつのまにか日が傾いていました。

第七章 来迎(らいごう)

こざっぱりと手入れされた木々のむこうから、人の声が聞こえてきました。まやちゃんは、すこしだけようすをのぞいてみることにしました。小さな木の建物のなかで、年老いた尼が、お経かなにかを唱えているようでした。秋草の中でこおろぎや鈴虫たちも、仲よく合奏しています。しばらくすると尼の声はやみ、茜色の西日がさしこみました。

第七章 来迎(らいごう)

美しい楽器の音色が聞こえ、虹色の雲が近づいてきました。虹色の雲の上からひとかげが現れ、やさしく尼君(あまぎみ)に話しかけました。
「たくさんのよい行いをされましたね」
「わたくしたちとともに、極楽浄土(ごくらくじょうど)へまいりましょう」
雲の上のひとかげは、尊い修行をつんだ菩薩さまたちでした。と、一人の菩薩さまが、まやちゃんに気づきました。
「おや……? 観音(かんのん)さん、あそこ」
「ええ。あれは」

第七章 来迎(らいごう)

ぱぁっと、あたりがまぶしい光に包まれました。黄金色の輝きがますます強くなり、ひとかげが現れました。
「わたし、息子をさがしているの」
まやちゃんは、どぎまぎとしました。色づいた楓が一斉に風に散りました。光のなかから現れたのは、完全な悟りをひらいた如来(にょらい)さまでした。
「わたくしは阿弥陀如来(あみだにょらい)。ご子息さまは、わたくしたちの世界には来ておりませんよ。さぁ、もういちどこの河にそって歩いてみてください……」

第八章 涅槃
(ねはん)

第八章 涅槃(ねはん)

そこでふたたび、まやちゃんはこの不思議な河にそって歩きだしました。月の出ている明るい晩でした。ときどき、ふわりふわりと雪がまいました。しばらくすると、泣いている動物に出会いました。まやちゃんは、動物をなでました。
「あたたかい……」

第八章 涅槃(ねはん)

動物たちはみな、悲しそうに花や実をくわえて、林に向かって歩いていました。まやちゃんは、少しだけついていってみることにしました。沙羅双樹(さらそうじゅ)の木々の奥から、言葉にならない人々の慟哭(どうこく)が聞こえます。

だれかがベッドの上に横たわっていました。ベッドの上の人は、とりかこんでいるおおぜいの人びとや動物たちに向かって、話しかけていました。
「さあ、修行者たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものなのです。怠ることなく、修行を完成なさい』」
「『怠ることなく』……?」
まやちゃんは、その声に聞きおぼえがありました。はっきりとなつかしく感じました。
「わたくしのさしあげた『キノコご飯』のせいなのです」
近くにいた人が説明してくれました。鍛冶工(かじこう)の子チュンダと名のるその男は、おいおいと泣きながら、告白しました。ブッダは自分のせいで亡くなろうとしているのだと。

第八章 涅槃(ねはん)

「もうお薬のほどこしようもありません」
「ブッダがお腹をこわして亡くなるなんて」
そう話しているのは、立派な身なりをした大臣や王様でした。ベッドの上の声の主は、ゆっくりと眼をとじるところでした。もはや、まやちゃんは確信しました。すべて思い出したのです。まやちゃんは若くして亡くなりました。その後、忉利天(とうりてん)に転生し、天界から息子の成長を見守ってきたのです。ブッダとなった息子にも寿命がありました。臨終(りんじゅう)が迫ると、その死に立ち会うため下界に降りようとしたのですが、途中で雲から落ちたのでした。
「シッダールちゃん! わたしの子、シッダールタ……。うわぁーん! 死なないで!!」
悲しみのあまり、まやちゃんは、近くにあった錫杖を投げつけました。金属とかたい地面が大きな音をたててひびきました。

第八章 涅槃(ねはん)

そのとき、ブッダの体が金色に光りかがやきました。ブッダは起きあがり手のひらをあわせ、まやちゃんに向かいあいました。
「シッダールちゃ~ん!!」
「母上。その呼び名はやめてください。わたしはもはやゴータマ・シッダールタではなく、『さとった人』、すなわちブッダとなったのですから。そしていま精神だけでなく肉体も、完全な『さとり』に到達するところなのです」
まやちゃんは首をふりました。
「シッダールちゃん死なないで……」

「母上……。王子でも、お金持ちでも、年寄りでも若者でも、人間である限り苦しみからは逃れられません。人間界よりひどい世界ならなおさら……。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅……、この四つの世界には絶えず苦しみがあるのです」
「ええ。ここにたどり着くまでに、たくさんの苦しみをみてきたわ」
「そして、人間界よりもよい、天人たちの世界でも、やはり老いや死はあり、苦しむのです。命あるものはすべてうつろい、苦しみからは逃れられないのです」
まやちゃんは、こくんとうなずきました。
「すべてのものごとはうつろうのです。だから、うつろうことを悲しむのではなく、自らをよりどころにして励むのです」
ブッダの枕もとに、沙羅双樹の花が、はらり、と散りかかりました。

第八章 涅槃(ねはん)

ブッダはそのまま目をとじ、呼吸が止まりました。すると大地が揺れ、雷が鳴りました。信者や仏弟子たちはもちろん、修行中の菩薩たちさえ声をあげて泣きました。空には大きな満月がかかり、光りとともに天女たちが降りてきます。
「摩耶さま。童子たちからきいたとおり、やはりこちらにおいででしたか」
「ささ。わたくしたちと、忉利天へかえりましょう」
お付きの天女たちは、せい太くんとがらんくんから、まやちゃんのことを聞き、忉利天から迎えにきたのでした。
まやちゃんは天女たちとともに雲にのり、空高くのぼっていきました。

第八章 涅槃(ねはん)

「わたし、息子に、ブッダに会えてよかったわ」

エピローグ

「さよなら、シッダールちゃん!」
まやちゃんは雲から身を乗りだして、下界に手をふりました。
「摩耶さま、あぶのうございますよ」
「まだまだ忉利天までとおうございますゆえ」
まやちゃんが何度目かにふりかえった時、ぐらり、とバランスを崩してしまいました。
「え……? シッダールちゃん!」

エピローグ

「シッダールちゃーん!!」

「シッダールちゃーん!!」

ここまでが本文です。