奈良時代が終わろうとしていた延暦(えんりゃく)2(783)年。今の宍粟市千種町(しそうしちくさちょう)のあたりが、宍粟郡千草村(しそうぐんちくさむら)と呼ばれていたころのことです。
千草の大山(おおやま)という人里はなれた山の中に、そまつな小屋をかけて、体のとても大きな老人が住んでいました。その老人がいつからそこに住んでいるのか、千草の人々の中にも知るものはだれもいません。ただ、この老人は大変な長生きであるといううわさばかりが流れていました。

千草の老人のイメージ画像

この年三月、そのうわさを聞いた宍粟郡の長官である春日部羽振(かすかべのはぶり)が、この老人を役所へ呼び出しました。
「おまえは、なぜあのような山奥に一人で住んでいるのだ。」
長官は問いました。そのころはふつうの人であれば、郡の長官に呼び出されれば庭に平伏(へいふく)してふるえながら答えるものでしたが、老人はどっかりとこしをおろし、大きな背中をピンとのばして、役所の外まで聞こえるような大きな声で答えました。

「わしは十三歳の時に天狗(てんぐ)にさらわれ、そのあと今住んでいる山に捨てられたのじゃ。わしを捨てるとき、天狗は自分に仕えてくれた礼だと言って、ひとつの団扇(うちわ)をくれた。この団扇を持っていれば、長生きができるというのじゃよ。」
「ではおまえはその団扇を持っているから長生きなのじゃな。」
長官がそう問いかけると、老人は天を見上げて大笑いをしながら答えました。
「いやいや、それがのぅ、そのあとしばらくしてから、天狗はまた団扇を持って帰ってしまったのじゃよ。惜しくなったのかのぅ。じゃが、わしはこうして長生きをしておる。不思議なものじゃわい。ハッハッハッ。」
老人は楽しそうに笑いました。長官をはじめ、その場にいるものたちはさっぱりわけがわかりませんでした。

老人は、千草に住んでいた山伏(やまぶし)の次男で、さらわれたときの名前を小春(こはる)といったと伝えられています。

老人は、三百八十歳のとき、ついにそれまで住んでいた大山を降り、同じ千草の千町ヶ原(せんちょうがはら)に出て、毎日いろいろなお経を読んで暮らしました。老人は日ごろ食べるものは松の葉ばかりでしたが、水は毎日三十六リットルも飲んでいたと言います。そして大変な大男で、背丈は二メートル二十センチメートル以上、片手には三メートル六十センチメートルもある長い鉄の棒を持ち、背中には柄(え)の長さが二メートル七十センチメートルもある大きなまさかりを背負って歩いていたそうです。

それから二百年以上がたった正暦(しょうりゃく)3(992)年、今の佐用町(さようちょう)にあった宇野山(うのやま)というところに、鬼神(きじん)があらわれて暴れまわっているとの知らせが届きました。国中の神々に対して、鬼神が退散(たいさん)するように祈りがささげられ、姫路(ひめじ)や龍野(たつの)あたりに領地を持っていた播磨国(はりまのくに)の役人たちが、軍勢をひきいて討伐(とうばつ)に向かいました。

やがて、暴れまわっていたものたちは無事に退治されましたが、その正体は鬼神ではなく、鬼の面をつけたならずものの一味でした。その首領の不動麻呂(ふどうまろ)という人物は、この千草の老人の子孫だったと伝えられています。不動麻呂一味を退治した国の役人たちは、主だった五人の首を取り、二度とこういうものたちがあらわれないようにと、かつて老人が住んでいた宍粟の千草ヶ原の林の中にさらしたということです。

(『播州府中記』、『播州巡行聞書』をもとに作成)