今からおよそ800年前のこと、平家一門を今の山口県(やまぐちけん)にある壇ノ浦(だんのうら)でほろぼした源義経(みなもとのよしつね)は、兄の頼朝(よりとも)と仲たがいしてしまい、とうとう兄と戦う決心をかためました。しかし、都にいては従う軍勢も少なく、とても兄には勝てません。そこで義経は、九州・四国へ下り、その地の武士たちを味方につけて戦おうと考え、京の都を落ちることにしました。

途中で頼朝に味方をする武士たちが攻めかかってきましたが、義経たちはなんとかこれを追いはらい、今の尼崎(あまがさき)にあった大物浦(だいもつうら)から船出しました。今も三宮(さんのみや)にある生田神社(いくたじんじゃ)の森や、今は大きな工場がある和田岬(わだみさき)を見ながら進んでいくと、明石(あかし)の海峡(かいきょう)が近づいてきました。このあたりは、かつて義経たちが平家をさんざんに打ち破った一ノ谷の戦場の沖合(おきあい)です。

源義経のイラスト画像

しかしそのころから、遠い西の山の奥に真っ黒な雲がわき上がってきました。そして、見る見るうちにあたりをおおうと、横なぐりの雨と風が吹きつける大嵐(おおあらし)になりました。義経たちの乗った船は、木の葉のように波にもまれていきます。そんな中、真っ黒い雲の彼方(かなた)に武者の姿がうかび上がってきました。

「あれは、壇ノ浦で海にしずんだ平知盛(たいらのとももり)だ。」
だれかがさけびました。みな息をのんで見つめていると、今度は海の中からたくさんの武者たちの手があらわれ、はい上がろうと船べりにつぎつぎと手をかけてきました。義経たちは、必死で刀をふるって、はらいのけようと戦いはじめました。

「弁慶(べんけい)、これはどうしたことか。」
「義経様、平家一門は、海に身を投げるとき、口々にこう言ったそうです。『われわれが負けたのは天運がなかったまでのこと。やむをえない。しかし、われわれはどこまでも怨霊(おんりょう)となって源氏をたたってやる。』いま、その怨霊たちがあらわれたのです。ここは私におまかせください。」

弁慶はそう言うと白木(しらき)の弓を持ち、船のへさきに仁王立ち(におうだち)になると、神仏の加護(かご)を祈りながらつぎつぎと黒雲に向けて矢を射かけました。すると、海の中の怨霊たちの勢いもしだいに弱まっていき、やがて消えてしまいました。

しかし、その後も嵐はやむことはありませんでした。義経たちの乗った船は、とうとう西へ向かうことはできず、今の大阪の海辺に流れ着きました。その後、義経は吉野(よしの=現在の奈良県吉野町)の山にかくれ、さらに奥州平泉(おうしゅうひらいずみ=現在の岩手県平泉町)へと落ちのびていくことになったのです。

(『義経記』をもとに作成)