行基

行基(ぎょうき)は大仏建立にも尽力した、奈良時代の高僧である。単に高い位についたということではなく、行基自身が生涯の多くを民衆の間に置き、人々のために尽くしたことが、彼が「菩薩(ぼさつ)」とまでたたえられ、敬愛される理由である。行基の高徳は広く語り継がれて、いろいろな伝説を生んだ。その中には、死んだ魚が泳ぎだすといった超自然的な部分もあるけれど、どちらかというと、人の病や暮らしに関わるようなものが目につくように思う。

実際に民衆の間で生き、人を救った行基なればこそ、こうした伝説が数多く生まれたのだろう。人が身近にすがれる存在。それこそが行基伝説の姿なのである。

行基伝説の地は多い。この伝説紀行でもどれを選ぶか、ずいぶんと迷った。ここに挙げるものだけでは到底足りないとは思うけれど、自分自身の行基を探してみるというのも面白いのではないだろうか。

用語解説

昆陽池

昆陽池の景観
昆陽池の景観
昆陽池の景観
昆陽池の景観

昆陽池(こやいけ)は行基が天平3年に築造したという、農業用のため池である。伊丹市(いたみし)から池田市にかけての台地は、古くから「猪名の笹原(いなのささはら)」と呼ばれ、農業用水の不足する地域であったようだ。行基はこの地に昆陽施院(こやせいん)を建てて農民を救済し、また自ら水田を開墾したという。

現在の昆陽池は、かなりの部分が埋め立てられて、かつての半分ほどになったというが、それでもおよそ28haもの面積がある。周囲のかなりの部分は、人工林とはいえ高さ10m近くに育った林に覆われて、住宅が集まる市街地に大きな潤いを与えている。

昆陽池を何より有名にしているのは、渡り鳥であろう。冬場はガン・カモ類を中心に、5000羽を超えるということで、写真を撮影に来る人も多い。池の中に造られた日本列島は、鳥たちのよい休み場となっているらしい。

1300年前に造られた池が、長い時間をかけてよい環境をつくりだし、それが現代の都市に住む人も救っている。池の役割は変わっても、行基の心はみごとに活かされているのではないだろうか。子孫に財産を残すということはこういうことなのだと、水面を眺めながら思わずにはいられなかった。

用語解説

昆陽寺

昆陽寺
(摂播記)
昆陽寺(摂播記)
昆陽池と昆陽寺(摂津名所図会)
昆陽池と昆陽寺(摂津名所図会)

昆陽寺(こんようじ)は、行基が作った昆陽施院をもとに聖武天皇(しょうむてんのう)が建てた寺で、昆陽池の南1km半ほどの所にある。少し遠回りになるが、池からは「行基上池溝道」をたどるのも良いだろう。わずかではあるが、古い道の雰囲気をとどめる場所も残っている。

国道171号線に面した、朱塗りの堂々とした山門を入ると、落ち着いた境内である。もともとあった伽藍(がらん)は、織田信長(おだのぶなが)が荒木村重(あらきむらしげ)を攻めた際に焼け落ち、現在の建物はいずれも江戸時代に再建されたものだが、山門と観音堂、以前の山門に置かれていたという広目天(こうもくてん)、多聞天像(たもんてんぞう)が県の文化財に指定されている。また寺の本尊は、行基自らが彫ったという薬師如来像(やくしにょらいぞう)である。

昆陽寺の門
昆陽寺の門
本堂
本堂
観音堂
観音堂

昆陽寺の周りには、行基が開いたという井戸や、昆陽の宿跡などもある。西国街道に沿った旧跡を歩くのも、楽しいだろう。

用語解説

有馬温泉と温泉寺

有馬温泉
(摂津名所図会)
有馬温泉
(摂津名所図会)
有馬温泉の入り初め
(摂津名所図会)
有馬温泉の入り初め
(摂津名所図会)
温泉風景
(摂津名所図会)
温泉風景
(摂津名所図会)

有馬温泉は、『日本書紀(にほんしょき)』の舒明紀(じょめいき、7世紀)にも登場するほど、古くから知られた温泉地であったが、その後は衰微していた。その再興につくしたのが行基である。伝説にもあったように行基はここを訪れて、温泉寺を建てた。以来、平安時代末の僧仁西(にんさい)、羽柴秀吉(はしばひでよし)などの尽力によって数度の天災や戦災を越え、現在に至っている。

温泉寺
温泉寺
有馬の町
有馬の町
古い温泉街の風景
古い温泉街の風景
潤沢な湯量の温泉源
潤沢な湯量の温泉源

温泉寺も、この興亡を経験しながら継続して明治を迎えたが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって堂塔のほとんどが取り壊され、わずかに残された薬師堂を引き継いだのが、現在の寺となったそうである。

用語解説

東播磨の行基

江井ヶ島

江井ヶ島港
江井ヶ島港
江井ヶ島港
江井ヶ島港

行基の足跡は播磨(はりま)にも多い。明石市(あかしし)には、行基が造った魚住泊(うおずみのとまり)を元に発展した、江井ヶ島港(えいがしまこう)があり、周辺にもゆかりの寺院がある。

江井ヶ島港は、山陽電車江井ヶ島駅の南にある。駅から出て海に向かうと、黒い焼き板の壁の古い酒蔵わきを通り、ほどなく潮の音が聞こえて海岸沿いの道に出会う。その右手が江井ヶ島港である。

海沿いの道は浜の散歩道。海岸沿いに藤江川(ふじえがわ)を渡り、明石川の河口まで続く道である。途中には、「明石原人」発見の地や、ウミガメが産卵する浜などもあり、車は通れないから、散歩やサイクリングの人も多い。この付近は、海から見ると切り立ったがけが続くので、それを見立てて屏風ヶ浦(びょうぶがうら)海岸とも呼ばれている。

その散歩道から少し海岸へ降りた場所に、江井ヶ島の由来を書いた碑が立っている。朝日、夕日を撮影する名所にもなっていて、休日の夕方など、カメラがずらりと並ぶ。

長楽寺

長楽寺
長楽寺
説明板
説明板

港を見下ろす高台に村がある。古くからあった村の中の道は、細く入りくんでいて、ちょっとした迷路のようだ。その路地を、地元の人に尋ねながら長楽寺(ちょうらくじ)へたどりついた。

この寺は、行基が刻んだ地蔵尊を祭ったのが始まりと されている。長楽寺の近くには、やはり行基が開基の定善寺(じょうぜんじ)もあって、こちらは行基作の薬師如来が本尊である。

そこから西へ、海岸沿いの道を行くと赤根川(あかねがわ)を渡る。その少し奥まった場所には、三木合戦の際、秀吉に落とされた魚住城跡がある。その先には江井ヶ島の酒蔵が建ち、住吉神社と魚住漁港(うおずみぎょこう)で道は終わる。このあたりの海岸が、『万葉集』にも歌われた名寸隅(なぎすみ)の浜である。

名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに
藻塩焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの
心はなしに たわや女の 思ひたわみて ためぐり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ


玉藻刈る 海人娘子ども 身に行かむ 舟かぢもがも 波高くとも
行きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅の 舟瀬の浜に しきる白波

白波笠金村(かさのかなむら) 巻6 935~937

用語解説