【行基】ぎょうき

 奈良時代の僧(668~749)。河内国(かわちのくに)出身。父は百済系の渡来人であった。はじめ官大寺で修行したが、後に民間布教をおこなったため律令政府の弾圧を受ける。ため池や水路などのかんがい施設を整備しながら説教をおこない、広く民衆の支持を集めた。東大寺の大仏造営にも協力し、745年には大僧正となった。墓は奈良県生駒市の竹林寺にあり、1235年に金銅製の骨蔵器が発掘されたが、現在はその断片が残されるのみである。

 
【昆陽池】こやいけ

 伊丹市昆陽にあるため池。奈良時代の高僧行基の指導で築造された、「昆陽の大池」である。1972年から都市公園として整備され、現在に至る。面積28.5haの池は、特に冬季の渡り鳥の渡来地として有名である。

 
【昆陽寺】こんようじ

 「こやでら」は通称。

 伊丹市にある真言宗の寺院。山号は崑崙山(こんろんさん)。一般には「行基さん」の名で親しまれている。行基が建てた昆陽院(昆陽施院)が元になり、天平5(733)年、聖武天皇の勅願によって建立された。織田信長の兵火にあって16世紀後半に焼失したが、後に再建された。本尊の薬師如来は行基作と伝えられる。

 観音堂と朱塗りの山門は県指定文化財。また、山門内に安置されていた持国天、多聞天の像は、平安時代中期の様式をもち、ともに県指定文化財となっている。

 
【有馬温泉】ありまおんせん

   神戸市北区にある温泉。『日本書紀』にもその記録があり、日本最古の温泉のひとつである。

 有馬温泉の最古の記録は『日本書紀』で、631年9月に舒明天皇(じょめいてんのう)が行幸して入浴したとある。その後衰微したが、行基が724年に再興。平安時代には白河法皇・後白河法皇も行幸し、『枕草子』にも三名泉としてあげられている。

 承徳年間(1097~1099)に山津波の被害を受けるが、建久2(1191)年に大和国吉野河上高原寺(かわかみこうげんじ)の住職仁西上人が再修、薬師如来を守る十二神将になぞらえ12の坊舎を建てた。豊臣秀吉はこの湯が気に入り、夫人を連れてたびたび訪れたという。江戸時代には貝原益軒(かいばらえきけん)が『有馬湯山記(ありまとうざんき)』を記し、湯治場として繁栄した。県内では但馬国の湯嶋(城崎温泉)とともに江戸時代一、二を競う名湯とされた。都から近い事、設備が整っている事、名所やみやげが多い事、湯の種類が多い事などの数々の魅力で、江戸時代から現在まで変わらず観光客をひきつけている。

 有馬は、地質学的には活断層「有馬高槻構造線」の西端にあり、断層の亀裂を通って地下深くから温泉水が噴出している構造だとされる。泉源によって泉質が異なり、塩分と鉄分を多く含み褐色を呈する含鉄強食塩泉、ラジウムを含むラジウム泉(ラドン泉)、炭酸を多く含む炭酸泉がある。空気に触れると着色する含鉄強食塩泉を「金泉」、それ以外の透明な温泉を「銀泉」と呼んでいる。温泉の熱源については定説がない。

 
【温泉寺】おんせんじ

 兵庫県神戸市北区にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。有馬山と号する。本尊は薬師如来。縁起によれば、724年、行基によって開かれたとされ、仁西を中興の祖とする。

 1576年に火災で全山焼失したが北政所によって再建された。その後再び火災にあい、現在の薬師堂は1582年に建立されたものである。明治時代初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、豊臣秀吉が有馬大茶会を開催したとされる阿弥陀堂も含め、薬師堂以外の堂塔は全て取り壊された。その後、廃寺となった旧温泉寺の奥の院であった黄檗宗清涼院が寺籍を継いで現代に至る。

 
【廃仏毀釈】はいぶつきしゃく

 排仏毀釈とも書く。明治の初年、政府による神仏分離、神道国教化政策によっておこった、仏教に対する弾圧・排斥運動。1868年の神仏分離令によって、全国各地で神官や国学者などが中心となり、寺院、仏像、仏具などを破壊し、多数の寺院が廃寺となった。1875年に信教の自由が通達されて鎮静化。

 
【明石原人】あかしげんじん

 1931年に古生物学者・考古学者の直良信夫(なおらのぶお)によって、明石市西八木海岸で発見された、ヒトの左寛骨(腰骨)の呼称。実物は1945年に空襲によって焼失した。石膏(せっこう)模型と写真が残されており、戦後、これを研究した東京大学の長谷部言人(はせべことんど)が、北京原人に近い人類と考えて「ニッポナントロプス・アカシエンシス」の名を与えたことから、明石原人と呼ばれるようになった。近年の研究では、現生人類(ホモ=サピエンス)と同じ特徴をもつとされ、原人説は否定されたため、単に明石人骨と呼ぶことが多い。

 
【屏風ヶ浦】びょうぶがうら

 明石市八木から江井ヶ島に至る約1.4kmの海岸線。海に面して、高さ10mほどのがけ面が続くため、この名がある。

 
【長楽寺】ちょうらくじ

 明石市大久保町江井ヶ島にある寺院。行基の開基とされる。行基の位牌(いはい)、座像や、魚住泊(うおずみのとまり)を築造中に行基が彫ったという地蔵像などを伝えている。なお江井ヶ島周辺には、行基が開基と伝える寺院が多く、長楽寺から西の二見港までの間に、定善寺(じょうぜんじ)、薬師院(ボタン寺)、観音寺(行基作という観世音菩薩像)、威徳院などがある。

 
【江井ヶ島の酒蔵群】えいがしまのさかぐらぐん

 江井ヶ島周辺は、17世紀ころから「西灘」とも呼ばれ、酒どころとして知られてきた。これは、東播平野の酒米と、良質の地下水に恵まれたためとされる。現在も、黒い焼き板壁の酒蔵が残り、レンガ造りのウイスキー蒸留所もある。

 
【魚住城】うおずみじょう

 明石市魚住にある、中世の城跡。南北朝時代、赤松長範によって築かれた。天正6(1578)年には、魚住頼治が毛利氏に味方し、別所氏が篭城(ろうじょう)する三木城へ兵糧を運ぶための基地となったが、羽柴秀吉によって妨げられ、成功しなかった。三木城の落城とともに廃絶。1998年の発掘調査によって、堀割(ほりわり)の一部がみつかっている。

 
【名寸隅】なぎすみ

 万葉集で笠金村(かさのかなむら)が詠んだ浜。明石市大久保町江井ヶ島から、明石市魚住町の住吉神社付近とされている。