菅原道真(すがわらのみちざね)は、今から一一五〇年ほど昔、平安時代の人です。学問にたいへんすぐれた人で、「天神様(てんじんさま)」といえば知っている人も多いでしょう。道真は、その学問を認められて右大臣という高い位につきましたが、それをこころよく思わなかった藤原氏の陰謀(いんぼう)にあい、九州の大宰府(だざいふ)へ送られて、その地で亡くなってしまいました。
道真が亡くなった後で、人々はそのたたりを恐れて、神様として祭るようになりました。これが現在の天神様なのです。「学問の神様」として、天神様は全国各地でまつられています。

道真は、山陽道(さんようどう)で大宰府に下ったそうですが、摂津(せっつ)には道真が船で旅をしたというお話が残っています。そのころの船は、櫂(かい)でこぐか、帆(ほ)に風を受けて進むしかありませんでした。ですから一度に長い航海をすることがむずかしく、所々の港に立ち寄りながらの旅だったようです。

『ねぎ作らず・鶏飼わず』

道真が大宰府に下るとちゅう、長洲(ながす)というところで潮待ちをすることになりました。長洲は、現在の尼崎市(あまがさきし)内にあたります。道真が、「ここはどこか」と村人にたずねたので、村人が「ここは長洲と申します」と申し上げたところ、「大宰府に流される身が、しばらくとどまる場所もやはり『ながす』というのか」となげいて、次のような歌をよみました。

人知れずおつる涙(なみだ)は津の国の長洲と見えて袖(そで)ぞ朽(く)ちぬる

これを聞いた村人たちは、心から道真を気の毒に思いました。あたりに育っていた木や草までもがしおれてしまって、道真の悲運に同情したのですが、川上から流れてきたねぎだけはしおれずにしゃんとしていましたので、村の人はにくらしく思って、それ以来、長洲の村ではねぎを作らなくなったということです。

いよいよ道真が出航する日が明日に迫り、一番鶏(いちばんどり)の声を合図に出航と決まりました。その夜、道真をよく思っていない者が、鶏小屋のとまり木になっている竹に、熱い湯を流しました。鶏(にわとり)は、足をあたためられ、もう夜が明けたのかとかんちがいして、高く鳴いたのです。
夜明けにはまだ早かったのですが、一番鶏が時を告げたので、道真たちの船はしかたなく出航してゆきました。
後になって、村人たちは鶏がかんちがいして鳴いたことを知り、その後、鶏を飼うことをやめてしまったということです。

『板宿の飛び松』

長洲を出発した道真たちは、よい風を待つために和田岬(わだみさき)に立ち寄りました。上陸してみると、どこからともなく花の香りがただよってきます。
「これは、なんとすばらしい梅の香りだ。いったいどこにさいているのだろう。」
花の香りにさそわれるように、道真が歩いてゆくと、苅藻川(かるもがわ)が海に注ぐあたりにかかる真野の継橋(つぎはし)のたもとに、一本の梅がたくさんの花をつけているのでした。

風寒み雪にまがへて咲く花の袖にぞうつれ匂(にお)ふ梅が香

道真はさらに西へと道をたどります。そのうちふっと、都の屋敷に残してきた木々のことを思い出しました。道真は、庭の木々の中でも、梅、桜と松をとりわけかわいがっていたのです。道真が九州へ流されると決まったとき、桜の木は悲しんでかれてしまいました。また、梅の木は、西へと旅する道真のところへ、東風に乗せてよい香りを送り、なぐさめてくれました。

ところが松の木からは、何も音沙汰(おとさた)がありません。
「梅や桜が、わたしの運命を悲しんでくれているのに、あの松は何とつれないことか。」
道真が思わずなげくと、その言葉が聞こえたかのように、松の木は、京の都から空を飛んで、あっという間に道真のところへやって来たということです。
道真がこの地を去った後も、松の木は残り、やがて天にそびえる大きな木になりました。その姿ははるか遠く、現在の大阪湾のあたりからも望まれ、長い間、船乗りたちのよい目印になったといいます。

現在、苅藻川の梅の木があったあたりは梅ヶ香町(うめがかちょう)、道真が休むために板で仮の小屋を作った所は板宿町(いたやどちょう)、松が飛んできた所は飛松町(とびまつちょう)と呼ばれています。