加古川市(かこがわし)の天下原(あまがはら)に、「こけ地蔵」というお地蔵様があります。前へかたむいて、今にも倒れそうなこのお地蔵様には、こんな話が伝わっていました。

1200年ほど昔にさかのぼります。平安時代の中ごろ、都の貴族たちは呪(のろ)いや怨霊(おんりょう)、たたりなどを、心から恐れていました。藤原氏(ふじわらし)の陰謀(いんぼう)で、はるか大宰府(だざいふ)に流されて亡くなった、菅原道真(すがわらのみちざね)のたたりはことに有名です。そんな時代に、陰陽師(おんみょうじ)は、天文や暦(こよみ)を見きわめ、吉凶を占い、神仏にいのって病気を治し、怨霊を祓(はら)うことなどを仕事にしていました。
しかし時には人を呪い、時には呪殺(じゅさつ)する――それができると信じられていましたから――ことさえおこなう陰陽師もいたのです。
数多い陰陽師たちの中でも、特に有名なのが阿倍晴明(あべのせいめい)と、その競争相手だった芦屋道満(あしやどうまん)でした。

道満は、現在の加古川市の岸のあたりに生まれました。その一生はなぞに包まれていますが、陰陽師として一流の術を身につけていたことは確かなようです。道満の屋敷にある井戸からは、毎夜式神(しきがみ)の火の玉が飛び出し、田畑や野をこえて飛んでゆくのが見られたといいます。村人たちはそれを「道満さんの一つ火」と呼びました。一つ火は、天下原までやってくると、そこの地蔵にぶつかって消えるのでした。そのたびにたおれたお地蔵様を村人たちが起こしていましたので、いつしか「こけ地蔵」と呼ばれるようになったのでした。
やがて道満は、そのうでを見こまれて、京の都で貴族たちのために術を使うようになりました。それがやがて、大事件をまき起こします。

御堂関白道長(みどうかんぱくみちなが)は、都の中に建てた法成寺(ほうじょうじ)に、毎日のように参拝していました。あるとき、いつものように牛車(ぎっしゃ)から降りて、寺の門をくぐろうとすると、いつもかわいがって連れている犬が道長の前に立ちふさがり、どうしても退こうとしません。無理に入ろうとすると、衣(ころも)のすそをくわえて、ぐいぐいと引っ張ります。
「これはどうしたことだろう。」
道長は、さっそく名高い陰陽師、阿部晴明を呼びにやりました。
やってきた晴明は、占いを立てると静かに言いました。
「だれかが道長様を呪い殺そうとして、道の下に呪いの品をうめています。もし、この上を通っていたら、大変なことになるところでした。犬は不思議な力を持っていますから、道長様にお知らせしようとしたのでしょう。」
「いったいどこにうめられているかわかるか。」
「もちろん、たやすいことです。」
晴明が示した場所をほらせてみると、二枚の皿を合わせて、黄色いこよりで十文字にしばったものが出てきました。開けてみると、中には何も入っていません。ただ、真っ赤な呪いの文字がひとつ、書かれていただけでした。

「私以外にこの術を知っているのは、道満法師だけです。問いただしてみましょう。」
晴明は一枚の紙を取り出すと、鳥の姿に折って呪文(じゅもん)をとなえました。紙はたちまち白い鷺(さぎ)となって空へまいあがります。鷺はひとすじに飛んで、一軒の古い家へと飛び込みました。
家の中にいた道満法師はとらえられて、道長の前へ引き出されました。

「いったいだれにたのまれたのだ。」
道長の問いに、道満はごう然と答えました。
「左大臣の藤原顕光(ふじわらのあきみつ)様に頼まれたのですよ。」
左大臣顕光は同じ藤原氏の一族ですが、道長の競争相手です。道長は烈火(れっか)のように怒りましたが、道満法師ほどの術を心得た陰陽師を殺せば、どれほどのたたりがあるかわかりません。道満法師は死罪をまぬかれました。二度とこのような術を使わないよう命ぜられて、道満は、生まれ故郷の播磨(はりま)へ追放されました。

その後の道満がどうなったのか、くわしいことはわかりません。佐用郡(さようぐん)に移り住み、そこで亡くなったと『峰相記(みねあいき)』は伝えています。そしてその子孫は播磨一円に散らばって、占いや薬作りをしたともいいます。