今から1500年ほど昔、大和国(やまとのくに=現在の奈良県)では、天皇のあとつぎをめぐって争いが起こりました。政治をにぎった雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、競争相手だった市辺王(いちべおう)を殺してしまいます。市辺王の二人の子どもは、播磨国(はりまのくに)までのがれて、現在の三木市(みきし)にあった志染村(しじみむら)の窟屋(いわや)に、かくれ住むことになったのです。
二人の名は、兄が「億計皇子(をけおうじ)」、弟が「弘計皇子(おけおうじ)」といいました。そしてふたりは身分をかくし、志染村の長であった細目(いとみ)の屋敷で、働くようになりました。

そんなある日、皇子たちは、ひとりの娘にめぐり会いました。娘の名は根日女(ねひめ)といいました。一目見るなり、二人は、美しくてやさしい根日女を好きになりました。けれどもおたがいにゆずりあって、なかなか言い出せません。根日女は、二人が皇子だなどとは夢にも思いませんでしたが、りりしい皇子たちを好ましく思いました。けれども二人ともすばらしい男性です。どちらかを選ぶこともできないまま、日々は過ぎていったのでした。
やがて雄略天皇が亡くなり、その後を清寧天皇(せいねいてんのう)がつぎました。
そんなある年、細目の家では、新しく建てた館を祝う宴(うたげ)がもよおされることになりました。そこには、播磨国にある朝廷(ちょうてい)の領地を見回りに来ていた、山部連小楯(やまべのむらじおだて)も来合わせていました。
やがて宴が始まると、細目はふたりの皇子に命じて、神様をお祭りする灯火(ともしび)をつけさせ、さらに、新築のお祝いの歌を歌うように命じたのです。こういうことは、身分の低い者の仕事でした。二人はしばらくの間ゆずりあっていましたが、やがて弟の弘計皇子がつと立ち上がると、高らかに祝いの歌を歌い始めました。

そしてお祝いの歌が終わると、皇子は勇気をふりしぼってさらに歌を続けたのです。

「たらちし、吉備(きび)のまがねの、狭鍬(さぐわ)持ち、田打つなす。手打て子ら、吾(あ)れは舞(ま)いせむ(吉備の国の鉄で作った鍬(くわ)をもって、田を耕すように、さあみんな手を打て、私はおどろう)。」

そしてさらに続けた歌に、人々はとび上がるほどおどろきました。
「淡海(おうみ)は水たまる国、倭(やまと)は青垣、山投(やまと)にましし、市辺の天皇が、御足末(みあなすえ)、奴(やっこ)らま(近江は水の豊かな国、大和は山に囲まれた国、私たちは、その大和におられた市辺の天皇の子なのですよ)。」

あまりのおどろきに、人々は屋敷を走り出て地面にひれふしました。大和から来ていた山部連小楯は、この歌を聞いて大いに喜びました。
「母君は食事もめし上がらず、夜も寝られないほどなげき悲しんで、この皇子たちの行方(ゆくえ)をさがしていらっしゃったのです。」
こうして二人の皇子は、晴れて都へ戻ることができました。

都へ戻ってからも、二人は根日女のことを忘れませんでした。けれども都で大切なまつりごとをしなければならない二人には、根日女を訪ねる時間はなかったのです。
そうして時は流れ、年が経ち、とうとう根日女は亡くなってしまいました。それを聞いた二人の皇子は深く悲しみ、使者をつかわしてこんなふうに命令しました。
「一日中、日がよく当たる場所にお墓をつくってください。根日女のなきがらを納めたら、そのお墓をきれいな玉でかざりましょう。」

やがて大きな墓がつくられ、根日女はほうむられました。村人たちは、玉でかざられて美しくかがやく墓を「玉丘(たまおか)」と呼んで、いつまでも根日女のことを語り伝えたということです。

その後二人の皇子は、天皇の位を継ぐことになりました。その時、兄の皇子は、「おまえが勇気を出して歌ってくれたから、都へ戻れたのだよ」と、弟に位をゆずり、3年後、弟が病気で亡くなってからその座につきました。
若い日々を苦労のうちにすごした二人は、ともに立派な政治をおこなったので、その時代には争い事などひとつも起きなかったそうです。