今から1200年以上も昔のことです。現在の姫路市安富町(ひめじしやすとみちょう)の山のおくに、一頭の巨大な鹿(しか)が住んでいました。体の長さが六メートル、大きな角は七つに枝分かれしていて、背中にはササが生え、足には水かきがあるという怪物だったそうです。
もう何百年生きているかわかりません。いつも数千頭もの鹿を従えた大鹿は、山を荒らし、里の人までおそうのでした。人々は、この大鹿を「伊佐々王(いざさおう)」と呼び、名前を聞いただけでふるえあがるほど恐れていました。

伊佐々王の暴れ方は、年を経るにつれてひどくなり、とうとう村の中でも大暴れするようになりましたので、里の人たちは散り散りににげるといったありさまになってしまいました。

この話を聞いた天皇は、播磨(はりま)の国中から兵士を集め、伊佐々王を退治するように命令しました。

伊佐々王と兵士たちの戦いがはじまりました。兵士たちは勇敢(ゆうかん)に戦いましたが、伊佐々王はこれまでにもまして暴れまわって、なかなかたおすことができません。それでも、兵士たちは木を切り、山を焼いてせめ立てたので、ついに伊佐々王も傷つき、つかれ果てて、谷のおくまで追いつめられました。

たくさんの兵士に囲まれた伊佐々王は、最後の力をふりしぼって大暴れに荒れくるいます。そのために、谷の大岩には次々と深い穴ができました。そしてとうとう、力つきると、「このあと、消ゆるなかれ!」とさけんで、岩の上に深く、自分の姿を残して死んでいったのでした。

伊佐々王が退治されたと聞いて、人々は安心して里へもどってきました。そしてそれ以来、この地を「安志(あんじ)」と呼ぶようになったそうです。

大鹿が横たわった姿に見える岩の穴は、いつのころからか、人々に「鹿が壺(つぼ)」と呼ばれるようになりました。
岩場にあるたくさんの穴のうち、いちばん深いのが「底なしの壺」です。大きな丸い穴の中には、谷川のきれいな水がたまっているのですが、あまりに深いので底は暗くて見えません。それで「底なし」と呼ばれているのです。この「底なしの壺」に石を投げこむと、竜神の怒りにふれて、大嵐になるとも伝えられています。ある人が唐傘(からかさ)に石をくくりつけて放りこんだ時には、とつぜん大嵐になり、川があふれて大洪水(こうずい)がおこったそうです。そして「底なしの壺」に放りこんだはずの唐傘が、のちに網干(あぼし)の海底からぽっかり浮かび上がったので、「底なしの壺」は、網干の海につながっているのだという人もいます。