大輪田泊と清盛の夢

平氏(へいし)一門が隆盛を極めたころ―平氏にあらずんば人にあらずと言われたころ―、平清盛(たいらのきよもり)は、大輪田泊(おおわだのとまり)の大規模な修築を計画した。そのねらいは宋(そう)との貿易にあったのだろうが、同時に港に近い福原(ふくはら)への遷都まで企てたということは、今風に言うなら、港を中心とした国際貿易都市の建設こそが、清盛の夢だったのだろう。

摂津名所図会
摂津名所図会
六甲山から兵庫津を望む
六甲山から兵庫津を望む

その夢を実現させるのに必要だったのが、人柱としての松王丸(まつおうまる)だった。この伝説は、事実を映しているのだろうか。だとすると、あまりにも悲しすぎるけれど、この話を聞かされたなら、人々は少年の魂に報いるため懸命に働いただろう。泊の修築は、それほどまでに想像を絶する難工事だった。松王丸の伝説が事実なのかどうかは知るすべもないが、伝説が清盛の偉業とともに、神戸港の歴史を縁取っていることは間違いない。

用語解説

築島寺と松王丸の供養塔

築島寺(つきしまでら)とは通称で、正式には経島山来迎寺(きょうとうざんらいこうじ)という寺号をもつ。縁起によると、寺院建立の目的が人柱となった松王丸の菩提(ぼだい)を弔うためであったことから、二条天皇の勅命によって、特に寺院建立の前にその号が与えられたのだという。

摂播記
摂播記
神戸覧古
神戸覧古
築島寺
築島寺

有馬街道(ありまかいどう、国道428号線)を下りてくると、JR線の下をくぐって国道2号線と交差する。さらにそのまま海へ向かうと、東はハーバーランド、西側には造船などの重工業の工場が建ち並んでいる。このあたりは、海へ向かって三角形に突き出した、半島のような地形になっている。その半島の西側の付け根に近い神戸市兵庫区の島上町(しまがみちょう)に築島寺がある。

境内に建つ石塔
境内に建つ石塔

阪神淡路大震災では大きな被害を受け、現在は鉄筋コンクリート造りの本堂に建て替えられているが、門を入ってすぐ右の境内には、松王丸を供養する石の塔が残っていた。白らかに明るい境内にひっそりと建つ古い塔は、まるで時の流れに取り残されたかのようであるが、今でも時折、この塔を訪れて熱心にお経をよんでゆく人がいる。その傍には、清盛の愛妾(あいしょう)だった妓王(ぎおう)、妓女(ぎじょ)という姉妹の小さな五輪塔が、ひっそりとたっている。

妓王妓女の墓
妓王妓女の墓
松王丸供養塔
松王丸供養塔

考えてみれば松王丸は、その後の平氏没落や、湊川(みなとがわ)の戦い、開国の激動、神戸大空襲、そして阪神淡路大震災など、この地で起きた災いや事件をことごとく見てきたのだ。そして今も港のどこかで、神戸の平安を念じているはずである。

用語解説

夢幻の福原京

清盛の都は、彼の死とともに幻のように消え去って、かつての栄華を示すものは何一つ残っていない。住宅やビルが建ち並ぶ現在の神戸に残るのは、華やかだった過去をひっそりと伝える故地だけである。

荒田八幡神社

荒田八幡神社
荒田八幡神社
荒田八幡神社
荒田八幡神社

神戸大学病院の正面あたりで有馬道から西へ折れると、荒田八幡神社(あらたはちまんじんじゃ)がある。神社の境内だけが、まわりの家々より3mばかり高く、周囲は石垣に囲まれている。ここが平清盛の異母弟、平頼盛(たいらのよりもり)の山荘があったとされる場所である。神社の横は公園になっていて、山荘をうかがわせるものは何もないけれど、かつてはこのあたりで笠懸流鏑馬(かさがけやぶさめ)がおこなわれたと記されているから、相当広い屋敷であったことだろう。

平野祇園神社

平野祇園神社から
海を望む
平野祇園神社から
海を望む

荒田八幡神社から有馬道を北へたどると、間もなく六甲山の山すそである。ここが平野(ひらの)の交差点で、そこからさらに登ったところに、平野祇園神社(ひらのぎおんじんじゃ)がある。社伝によるとこの神社は、9世紀に姫路の広峰神社(ひろみねじんじゃ)から、京都の八坂神社(やさかじんじゃ)へ分霊する途中、その神輿(みこし)が泊まった場所に建てられたという。

急な階段を上り詰めた境内からは、尾根の間に切り取られた町並みと、その先の海が見える。平清盛は大和田泊を修築する前、この神社の裏山にあった潮音山上伽寺(ちょうおんざんじょうがじ)で、潮騒を聞きながら構想を練ったというが、今はその跡すら見ることはできない。

平野祇園神社
平野祇園神社
平野祇園神社
平野祇園神社
平野祇園神社
平野祇園神社

平野の交差点付近は、ちょうど清盛の時代の遺跡である。平成5(1993)年に、平野祇園遺跡が発掘されて、貴族の館の庭園だったということがわかった。

ここでみつかったのは、石組みの池跡である。傍には広壮な貴族の館があったのだろう。発掘調査では、大量のかわらけ(土師器の皿)や中国産の高級な陶磁器が出土したが、建物跡はまだ確認されていない。ことによるとこの場所で、清盛も曲水の宴(きょくすいのうたげ)を楽しんだかもしれない。

雪の御所

雪見の御所石碑
雪見の御所石碑

平野の交差点から西へ200mほど、商店が並ぶ通りを歩くと湊山小学校(みなとやましょうがっこう)がある。その一角に、「雪の御所」という石碑が建つ。かつてこの付近では瓦などが見つかっていて、清盛が住んだ雪の御所があった場所だと言われているが、ここにも往時をしのばせるものはない。

北野天満神社

北野天満神社参道
北野天満神社参道
北野天満神社
北野天満神社

観光客でにぎわう、中央区北野町の異人館街を抜け、急な坂と階段を上り詰めたところに北野天満神社(きたのてんまんじんじゃ)がある。この神社は、清盛が福原に都を移した際に、その鬼門方向を鎮護するため、京都の北野天満宮から勧請(かんじょう)した。神戸の中心街から、港までを一望できる眺望は素晴らしい。すぐ前には異人館の風見鶏が見え、神社の歴史と異国風の町並みが、不思議に調和した空間になっている。

北野天満神社から神戸市の中心街を見る
北野天満神社から神戸市の中心街を見る

清盛塚

清盛塔
清盛塔
説明板
説明板

築島寺から、新川運河(しんかわうんが)に沿って500~600mほど西へ行った場所に、清盛塚がある。塚と呼ばれてはいるが、残されているのは高さが8.5mほどの13重の石塔である。清盛の死後、鎌倉時代に建てたものとされ、江戸時代の絵図にも登場している。

塔は、もとあった場所から10mほど北へ移動させられており、移動の際に地下部分も発掘されたが、墓ではないことが確認された。

本当に不思議なことだが、実は清盛の墓の場所はわかっていない。1181年に京で亡くなった清盛の遺骨は、福原へ持ち帰られたという。兵庫区の能福寺(のうふくじ)にはその廟所(びょうしょ)があるが、墓がどこ造られたのかはわからないのだ。夢幻に終わった福原京と同じく、清盛もまた幻のように消えたのである。

清盛塔
清盛塔

用語解説

須磨の平氏

須磨(すま)は、平氏が再起をかけて戦った、一ノ谷の合戦がおこなわれた場所である。平敦盛(たいらのあつもり)と熊谷直実(くまがいなおざね)の一騎打ちは、『平家物語』の名場面のひとつとして知られているが、須磨のあたりには平氏にゆかりの場所が多い。

須磨寺敦盛塚

須磨寺の門
須磨寺の門

須磨寺には、敦盛の首塚がある。本堂前から書院の北を通って奥の院へと続く道の傍らにある、堂の中に祭られた小さな五輪塔がそれである。笛の名手であった敦盛にちなんで、かつてはここに笛を納めて、子供の健康を祈る風習もあったということだ。また、本堂の前には、敦盛の首を洗ったという池、そのわきには、その時義経が腰掛けたという松の枯れた株が残されている。

敦盛首塚堂
敦盛首塚堂
敦盛首塚の
五輪塔
敦盛首塚の
五輪塔
敦盛首洗いの池
敦盛首洗いの池
義経腰掛の松
義経腰掛の松
梵鐘の銘
梵鐘の銘

腕塚

腕塚堂への路地
腕塚堂への路地
腕塚堂道標
腕塚堂道標
十三重の塔
十三重の塔

長田区の新長田駅から、国道2号線を越えた所が腕塚町(うでづかちょう)である。一ノ谷の合戦で敗れた平忠度(たいらのただのり)が、源氏の武者に討たれたとき、切り落とされた腕を葬った場所だという。その腕塚は、駒ヶ林町(こまがばやしちょう)4丁目の住宅街にあった。人ひとり通れるだけの、細い路地の中ほどに、「腕塚堂」と記された堂と、十三重の石塔がある。また500mほど南西の野田町8丁目には、忠度の胴塚があって、やはり十三重の石塔が祭られている。

平氏に関する旧跡や伝承地は、神戸市内には他にいくつも残されている。「おごる平氏」などと、悪評が流布されたこともある平氏だが、地元の人たちにとっては神戸のいしずえを築いた敬愛すべき一族であり、大切な歴史の一部として守り伝えられている。

用語解説

絵島と煙島

福原を失い、戦いにも敗れた平氏は、四国目指して落ちてゆくことになる。その途上ということになるのだろうか、淡路(あわじ)にも平氏に関係する古跡が残っている。

福良湾と煙島
福良湾と煙島
煙島
煙島

淡路の北端、岩屋(いわや)の絵島(えじま)には、松王丸の供養塔が建てられている。そして南端の福良湾(ふくらわん)に浮かぶ煙島(けむりじま)には、敦盛の首塚がある。

福良漁港から、湾に沿って1kmほど南西へ向かうと、深緑の木々に覆われた、小さな島が見える。これが煙島である。岸からはほんの100mほどだろうか。島の周囲には粗い岩肌が見える。平氏一門が阿波に渡る前、福良湾で休んでいるときに、敦盛の首がもたらされたので荼毘(だび)に付した。その時に煙が立ち上ったことから、島の名がついたという。島の頂上には、敦盛の首塚がある。若くして散った敦盛は、落日の平氏の中でひときわ光彩を放ち、敵味方なく惜しまれたのだろう。

煙島曙光
煙島曙光

用語解説