【大輪田泊】おおわだのとまり

 奈良時代に、僧行基が築いたと伝えられる摂播五泊(河尻・大輪田・名寸隅(なぎすみ)・韓・室津)のひとつ。平安時代末に、平清盛が港の前面に経ヶ島を築造して、風波にも安全な港とした。中世以降は兵庫津と称される。古代から続く瀬戸内航路の重要な港であり、現在の神戸港の原型といえる。

 
【平清盛】たいらのきよもり

 平安時代の武将(1118~1181)。保元の乱(1156)で後白河天皇の信頼を得、平治の乱(1159)では源義朝を討って平氏の権力を確立した。1167年には武士として初めて太政大臣に任ぜられ、娘徳子を高倉天皇の中宮とした。

 やがて後白河法皇と対立すると、1179年には法皇を鳥羽に幽閉して、院政を停止させるに至る。清盛はさらに高倉天皇を退位させて、自らの孫である3歳の安徳天皇(1178~1185)を即位させた。これにより、清盛の完全独裁化による平氏政権が成立。平氏の知行国は全国の半分を超え、一門の公卿(くぎょう)16人、殿上人30人余。「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる全盛時代となった。

 しかし平氏への権力集中は、旧勢力との対立や地方武士の離反を招く要因となり、1180年には、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)を奉じた源頼政の反乱が発生した。この反乱は鎮圧され、以仁王と頼政は敗死したが、以仁王の令旨(りょうじ、皇子による命令文)は全国へ飛び火し、同年夏には、源頼朝が北条氏と結んで挙兵した。平氏軍が頼朝軍の鎮圧に失敗(富士川の戦)すると、近畿でも寺社勢力を中心に反平氏の動きが強まった。このため清盛は、興福寺などを中心とした南都を焼き討ちしたほか、近江、美濃などに派兵して源氏勢力を鎮圧した。しかし反平氏勢力の蜂起はおさまらず、1181年には平氏の基盤である西国でも諸豪族が挙兵。また平氏方であった東国の豪族が頼朝によって討たれるなど、反乱が深刻化することになった。清盛はこうした危機のさ中、熱病(マラリアともいわれる)にかかり、京都で没した。

 清盛の墓は、京都、神戸など数か所にその伝承があるが、確定されていない。

 
【来迎寺(築島寺)】らいこうじ(つきしまでら)

 神戸市兵庫区島上町にある浄土宗の寺院。経島山(きょうとうざん)と号する。大輪田泊築港との関連から、築島寺と呼ばれている。大輪田泊修築に際し、人柱となった松王丸の菩提を弔うため、平清盛が建立したと伝えられる。創建時の所在地は、兵庫区三川口町付近という説がある。創建時には七堂伽藍(がらん)を誇ったとされるが、1335年の湊川の戦で兵火に遭ったのをはじめ、幾度かの火災を受けて現在地に移転したという。さらには1945年の神戸空襲で、堂宇一切を焼失し、戦後再建されて現在に至った。

 境内に松王丸の供養塔、平清盛の愛妾(あいしょう)であったという妓王、妓女の墓が祭られている。

 
【平野祇園遺跡】ひらのぎおんいせき

 神戸市兵庫区の平野交差点付近に広がる遺跡。1993年に発掘調査がおこなわれ、貴族の庭園と考えられる石組みの池跡がみつかった。周辺からは大量の土器をはじめ、瓦、中国産陶磁器類も出土したが、建物跡はまだ確認されていない。福原京の一部を形成していた、平氏一門の邸宅などと関連が深いと思われる。

 
【福原京】ふくはらきょう

 平安時代末のわずかな期間、現在の神戸市兵庫区に置かれていた都。平清盛は、1180年6月にこの地へ遷都したが、実質的な都の造営はおこなわれず、同年11月に再び京都へ戻った。1183年に平氏が都落ちした際、福原は焼き払われた。

 
【北野天満神社】きたのてんまんじんじゃ

 神戸市中央区北野町にある天満神社。福原遷都に際して平清盛の命により、新都の鬼門鎮護のために京都の北野天満宮を勧請(かんじょう)して、社殿を造営したのがはじまりとされる。

 中世にはしばしば戦乱に巻き込まれ、湊川の戦いや、応仁の乱の際の兵庫津焼き打ちなどでも被害を受けたという。また織田信長による中国攻略の際には、毛利氏と結んだ荒木村重配下の花隈城に近かったため激戦に巻きこまれた。

 江戸時代以降は北野村の鎮守として崇敬された。明治時代になり、神戸港周辺の外国人居留地が返還されると、神戸在住の外国人が北野町付近に館を構えるようになり、現在の異人館街が形成された。

 
【清盛塚】きよもりづか

 神戸市兵庫区にある、「平清盛の墓」と考えられてきた石製十三重の塔。弘安9(1286)年の年号が刻まれており、鎌倉時代、北条貞時が諸国を巡行した際に建てたと伝えられている。塔は、かつて現在よりも11m南にあり、古くから清盛の墓として信仰の対象となってきた。1923年に道路拡張のため現在地に移転した際、塔周辺の発掘調査が実施されたが、墓の跡は発見されなかったため、供養のための石塔であったと考えられている。

 
【平頼盛】たいらのよりもり

 平安時代の武将(1131~1186)。平忠盛の五男。清盛の弟。通称は池殿、池大納言。平治の乱の時、生母の池禅尼が少年だった源頼朝の助命を清盛に嘆願した事により、平家滅亡後も本領を安堵(あんど)された。また、後白河法皇の信頼が厚く、法皇の処遇を巡って頼朝挙兵以前から兄・清盛とは不仲だったという。

 高倉上皇(安徳天皇の父)の『厳島御幸記』に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらたの誤りと思われる)という頼盛の家にて、笠懸流鏑馬(かさがけやぶさめ=馬上で駆けながら矢で笠を的にしたものを射ること)など仕つらせ御覧ぜられる。」と記しているので、荒田町にあった頼盛の山荘は、相当広い邸内であったろう。

 
【平敦盛】たいらのあつもり

 平安時代の武将(1169~1184)。平経盛(つねもり)の子。一ノ谷の戦いで、源氏の熊谷直実に討たれた。横笛の名手といわれる。若くして悲劇的な死をとげたため、謡曲や歌舞伎などの題材となり著名である。敦盛にまつわる伝承は多く、「首塚」とされるものは須磨寺境内のものが代表的。

 
【絵島・大和島】えしま・やまとしま

 絵島は、岩屋港の東に浮かぶ島である。『枕草子』にも、「島は」と記されているほど、古くから知られた名勝であったようだ。砂岩が浸食されてできた奇観であるが、この岩盤はおよそ1500万年前に、砂や礫(れき)が水中に堆積してできたものである。

 その奇観のためか、国産み神話の「おのころ島」を、この絵島にあてようとする説もある。古来より名勝として人々に親しまれており、月見の名所として『平家物語』に出てくるなど、風光明美な場所として多くの文学にとりあげられている。

 絵島の頂上には、平清盛が大輪田泊を修築した時に、人柱にされようとした人たちを助け、自らが人柱になった松王丸の供養塔といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っている。近年は、毎年、中秋の名月の夕べに、「絵島の月を愛でる会」がおこなわれてにぎわう。

 絵島の南には、陸続きの小島があり、大和島と呼ばれている。山上にはイブキ群落があり、兵庫県の天然記念物に指定されている。