弁慶(べんけい)といえば、源義経(みなもとのよしつね)の家来で、剛勇無双(ごうゆうむそう)の人として有名です。一方で、義経と運命を共にした悲運も、多くの人におしまれ、愛された理由かもしれません。弁慶の伝説は全国各地に残されていますが、とてつもない武勇伝がたくさんあります。そして兵庫県にも、弁慶の伝説は数多く伝えられています。

弁慶は青年時代一時期を、書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)で過ごしました。もとは比叡山(ひえいざん)にいたのですが、どうやらいたずらや悪行が過ぎて、山を追い出されたらしいのです。

書写山にやって来た弁慶は、しばらくの間、修行者として心静かに仏に仕えました。そんなある夏のことです。
説法を聞きにやってきた若い僧が、いたずらをしてやろうと、弁慶に酒をすすめました。弁慶はしたたかに飲み、酔いつぶれてねむりこんでしまいます。僧はさっそく、弁慶の顔に墨(すみ)でいたずら書きをしました。

まず右のほおに暴れ馬の絵をかいて、
「武蔵坊荒れたる駒(こま)にさも似たり拍子をはけてつなぎ止めはや」
左のほおには、平げたの絵をかいて、
「弁慶は平げたにこそ似たりけれ目より鼻緒(はなお)をすけてはかはや」

まわりの僧たちは、これを見て大笑いしました。
その声でようやく目を覚ました弁慶を見て、あたりの者はいっそう笑います。不審に思った弁慶は、食堂から走り出て、となりにあった井戸の水に顔を映して見ました。

いたずらされたのを知った弁慶は烈火(れっか)のように怒り、僧たちと大げんかになりました。心恩坊妙俊(しんおんぼうみょうしゅん)という僧がかけつけて、長刀(なぎなた)できりつけましたが、たちまちうばわれて大講堂の屋根へ投げあげられてしまいます。次に太刀(たち)できりかかりますがこれも同じ。ならばとばかり、そばにあった火のついた木の棒で打ちかかりましたが、弁慶はこれも軽々とうばい取って講堂の屋根に放りあげました。

ついには、取り囲んだ僧たちがどっと打ちかかりましたが、もちろん弁慶の敵ではありません。きりつける者を次から次へとなぎたおし、とうとう五十人余りをきり捨ててしまいます。弁慶のあまりの強さに、残った者はくもの子を散らすようににげてしまいました。
折からの風に、棒に残っていた火はたちまち燃え広がって、またたく間に、大講堂(だいこうどう)、多宝塔(たほうとう)、文殊堂(もんじゅどう)、五重の塔(ごじゅうのとう)などへ広がって、全山は炎に包まれてしまったといいます。

弁慶は、「仏や伽藍(がらん)にはうらみはない。必ず再建しよう」と言い残して去ってゆきました。

その後、朝廷(ちょうてい)の命令で円教寺が再建されたとき、弁慶はふたたび書写山を訪れて、「新しい伽藍ができたのは、儂(わし)のご奉公によるものだ。儂は悪行を好むから、平家の太刀を千本うばって、比叡山に供えよう」と仏にちかったということです。
それが後に京の都での、義経との出会いにつながることになろうとは、この時、弁慶自身夢にも思っていなかったにちがいありません。