「伊和大神」の名前
『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の中には、伊和大神(いわのおおかみ)の記述がいくつかある。記述にはややばらつきがあって、「伊和大神」と記述される場合、「大汝命(おおなむちのみこと)」あるいは「葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)」と記述される場合がある。また「大汝命」は、記紀では「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と同じとされているので、同じ神が三つか四つの名で呼ばれていることになる。
この神様の名前についていくつかの説があるのは承知しているが、混乱を避けるため、『播磨国風土記』でほかの名前が用いられている場合でも、伝説紀行の中では「伊和大神」で統一しておきたい。
用語解説
伊和大神とアメノヒボコ
『播磨国風土記』の讃用(佐用)郡(さよぐん)の項では、伊和大神は「賛用比賣命(さよひめのみこと)」との国占めに負けて立ち去っているから、大神自身、もともと播磨(はりま)にいた神ではなかったのかもしれない。普通は、『播磨国風土記』にも登場する、伊和君(いわのきみ)の一族が奉じた神であったとされている。
一方のアメノヒボコも、新羅(しらぎ)から渡来した人である。ここで取り上げる余裕がないのは残念だが、アメノヒボコ自身の出自についても、『古事記(こじき)』には不思議な話が伝わっている。つまり播磨にとっては、どちらも外来の人(神)であったということだろう。
風土記の記述からは、伊和大神のほうが先に播磨にいたように読めるが、後からやって来たアメノヒボコとの国占め争いは、相当激しいものとして描かれている。結局その争いをおさめたのは、山頂から黒葛(つづら)を投げるという一種の神占であったようで、これも古代におこなわれた「争いをおさめる方法」を象徴しているのかもしれない。
この二人の足跡は、摂・播国境に近い神戸市西区から、宍粟郡(しそうぐん)・神崎郡(かんざきぐん)を中心とした播磨、但馬(たじま)の出石郡(いずしぐん)、という広い範囲に散らばっていて、一度に巡るのは難しそうである。播磨、但馬と地域を決めて訪ねてみてはどうだろうか。
この二人の足跡は、摂・播国境に近い神戸市西区から、宍粟郡(しそうぐん)・神崎郡(かんざきぐん)を中心とした播磨、但馬(たじま)の出石郡(いずしぐん)、という広い範囲に散らばっていて、一度に巡るのは難しそうである。播磨、但馬と地域を決めて訪ねてみてはどうだろうか。
用語解説
アメノヒボコと出石神社
アメノヒボコは但馬国を得た後、豊岡(とよおか)周辺を中心とした円山川(まるやまがわ)流域を開拓したらしい。そして亡くなった後は、出石神社(いずしじんじゃ)の祭神として祭られることになった。
但馬一宮の出石神社は、出石町宮内にある。この場所は出石町の中心部よりも少し北にあたり、此隅山(このすみやま)からのびる尾根が出石川の右岸に至り、左岸にも山が迫って、懐のような地形になっている。神社はその奥の一段高い場所に建っている。
このあたりから下流は、たいへん洪水が多い場所である。2004年におきた豊岡市の大水害は記憶に新しいところだが、出石神社のあたりを発掘してみると、低湿地にたまる粘土や腐植物層と、洪水でたまった砂の層が厚く積み重なっている所が多い。
そんな場所であるから、古代、この地を開拓した人々は、非常な苦労を強いられたことだろう。『出石神社由来記』には、アメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いて、湖だった豊岡周辺を耕地にしたと記されているという。そのアメノヒボコは、神となって今も自分が開拓した平野をにらんでいるのだ。
この出石神社から1kmほど北へ行った所に、出石古代体験館がある。出石町内で発掘されたさまざまな資料が展示され、体験もできるから、古代史に関心がある人は訪ねてみるとよいだろう。
用語解説
出石城
但馬の小京都とも呼ばれる出石には、ほかにも訪ねたい文化財が少なくない。
町の南にある有子山(ありこやま)の裾には、出石城がある。江戸時代初期に築かれた城で、それ以前は背後の山頂に城があった。
城の下を流れる川にかかった橋を渡り、山腹に設けられた階段を登って本丸跡に立つと、出石の城下町と、その傍を流れる出石川までの素晴らしい景観を一望できる。左右からゆるやかにのびる尾根が、瓦屋根の並ぶ小さな町並みを箱庭のように縁取っている。
御出石神社
御出石神社(みいずしじんじゃ)を訪ねたのは、もう夕暮れに近い時間だった。但東町(たんとうちょう)に近い桐野(きりの)の集落に、杉の巨樹に囲まれてひっそりとたたずむ宮がある。この神社には『古事記』の神話に語られた出石乙女が祭られている。兄弟二人の神から求婚されたという乙女は、アメノヒボコとも無縁ではないようだ。
うら若い乙女には、少し寂しすぎるような場所だけれど、通る人もいない参道から、夕空に浮かぶ影絵のような宮を眺めていると、はるかな時の流れがいっそう身に迫って感じられた。
用語解説
藤無山
播・但国境にある藤無山(ふじなしやま)は、標高1139.2m。今回はいくつかある登山路のうち、北の大屋町(おおやちょう)側を選択した。若杉峠(わかすとうげ)東の大屋スキー場奥から車で入れるため、登坂距離が短くてすむからである。林道(2006年の取材時は建設中)の途中に車を停めて、尾根筋までのスギやヒノキが植林された急坂を、息を切らせながら20分ほど登ることになる。
そこから先は、ゆるやかに起伏する尾根筋を歩く。左右は植林地がほとんどだが、所々にブナやミズナラが残る道である。植林された木はどれも、根元のあたりで大きく曲がっていて、積雪の厳しさがわかる。
尾根筋からの眺望は、思いのほか開けなかった。天候のせいもあったろうが、南側は北播磨の盆地が山間からかすかに望める程度である。北の但馬側も、蘇武岳(そふだけ)、妙見山(みょうけんさん)、鉢伏山(はちぶせやま)など「兵庫の屋根」と呼ばれる山々が連なり、伝説にあるように出石までを見通すことはできない。伝説の神様たちは、いったいどんな景色を見たのだろうか。