天下布武の朱印
この文書には信長の「天下布武」印が、朱色の印肉で押されています。こうした朱色の印章が押された文書を、当時の人々は「朱印状」、と呼んでいました。ですので、この古文書の名前は「織田信長朱印状」とつけられているのです。この「天下布武」印によって、この文書が信長の意志によって作成され、それを伝えるものであることが示されています。
ただし、この文書の文字自体を書いた人物は信長本人ではありません。かつての上流階級の人物は、みな右筆(ゆうひつ)という書記役の家来を抱えており、ほとんどの場合、文書の執筆はこの右筆が行いました。信長の右筆については、これまでの研究で3名ほどが判明しています。この朱印状の場合は、筆跡から楠長諳(くすのきちょうあん)という右筆が執筆したと考えられます。
さて、信長のこの「天下布武」印は、岐阜城を攻略した永禄10(1567)年から使用がはじまったことがわかっています。「天下布武」という文面は、武力によって天下に号令するとの意志を示しています。この翌年、信長は足利義昭を奉じて京都に進出しますが、この印章の使用は、すでに岐阜を手に入れた段階で、天下を治める構想を練っていたことを示しているのだろうとされています。
こうした印章を使った古文書は、戦国時代から多くの大名が用いるようになっていました。次の写真は関東の戦国大名後北条氏の文書です。枠の上に虎が寝ている印なので、虎の印判状とも呼ばれています。また、その次の写真は甲斐武田氏の文書です。龍の図柄が描かれた朱印が押されていますので龍朱印状とも呼ばれています。
さて、印章が使われる以前は、花押(かおう)というサインの一種が用いられていました。 例にあげたのは、足利義詮(よしあきら)、赤松義則(よしのり)のものです。足利義詮は室町幕府の二代目の将軍、赤松義則は、室町時代の播磨守護赤松氏の四代目です。
このように、当時の上流階級の人々は、それぞれ自分で形を決めた花押を持っていました。こうした花押を文書に書き込むことで、その文書がその人の意志で出された真正なものであることを示したのです。
今でも、重要な書類にはみなさん印章を押されると思います。印章の役割と花押の役割は、よく似ていると思われませんか。昔の花押は、今の印章の役目を果たしていたのです。そして、花押に代わって今のように印章を使うことが多くなっていったのが、この戦国時代から江戸時代の初めにかけてでした。印章の使用は、主に東日本の戦国大名から始まったことがわかっています。信長の朱印状は、こうした時代の流れの中に位置づけられるものなのです。
なお、印章の使用がはじまっても、江戸時代までは花押も並行して使われ続けました。信長、武田氏、後北条氏の文書も、印章を押したものとともに、花押を据えたものも多数残されています。左の写真は後北条氏四代目当主の北条氏政の花押です。