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コラム2 本当の一の谷合戦福原の都
生田森・一の谷合戦の舞台となった現在の神戸市街地には、平清盛(たいらのきよもり)が別荘を構えた福原(ふくはら=神戸市兵庫区)がありました。清盛はその権力が絶頂を極めた治承4(1180)年6月、高倉上皇(たかくらじょうこう)・安徳天皇(あんとくてんのう)を福原に移し、福原を新しい都にする計画を進めました。しかし、時を同じくして全国で源氏方の挙兵が相次ぐ非常事態となり、11月になって清盛は計画を断念して都を京都に戻したのでした。
近年の発掘調査によって、このころの福原の一部と見られる二本の溝の遺構が検出された邸宅(ていたく)跡、宴会に用いられた大量の素焼きの杯(さかずき)が出土した遺跡などが見つかっています。
清盛は朝廷で勢力を強めた後、仁安4(1169)年春ごろからこの福原に住むようになり、それ以後10年ほどの間は重要問題が発生した時だけ都に上り、普段は福原から都の政治ににらみをきかせていました。このため、福原には清盛をはじめとする平家一門の別荘群が軒を並べるようになっていたようです。
福原近くの海岸部には、瀬戸内海水運の要衝である大輪田泊(おおわだのとまり、後の兵庫津)がありました。清盛はこの港に防波堤としての役割を担う経島(きょうがしま)を築くなど改修に力を注ぎ、ここを拠点として中国の南宋(なんそう)との貿易にも精力的に取り組みました。このように、生田森・一の谷合戦の舞台となった現在の神戸市街地は、平家一門にとっては清盛以来の重要拠点だったのです。
なお、清盛らが建設した福原の邸宅群は、『平家物語』では寿永2(1183)年7月、平家が西国へ都落ちをする際に一旦焼かれたとされています。これを事実と見れば、生田森・一の谷合戦はこの半年後ですので、この時には邸宅群はすでになかったことになります。
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