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解説!源平合戦図屏風屏風はどこまで本当なの?
武士のいでたちぶしのいでたち
武士の甲冑(かっちゅう)姿は、基本的には平安・鎌倉時代の大鎧(おおよろい)を着用した姿で描かれています。しかし、細かく見ると、烏帽子(えぼし)の形をしている兜(かぶと)、毛の付いた兜(変わり兜)や、綴り紐がまばらな甲冑(素懸威胴具足=すがけおどしどうぐそく)など、戦国時代以降の甲冑姿も入りまじっています。
騎馬武者の武器きばむしゃのぶき
屏風では、長刀(なぎなた)で戦う騎馬武者(きばむしゃ)が多数描かれています。しかし、騎馬武者の武器として長刀が主流になるのは南北朝(なんぼくちょう)時代以降のことで、源平のころは弓を射て戦い、接近戦になってから太刀(たち)を抜くのが普通でした。
城郭じょうかく
平家方の城郭として描かれている石垣や四角い矢狭間(やざま)のあけられた白壁は、源平合戦のころの城郭にあったとは考えられません。『平家物語』では、城郭の構造物として、矢倉(やぐら)・垣楯(かいだて)・柵(さく)・逆茂木(さかもぎ)・堀などが記されています。この屏風には、これらも合わせて描かれています。
また、平家方が福原周辺まで進出してきたのは寿永3(1184)年正月上旬と見られています。合戦はこの年の2月7日でしたので、屏風に描かれているような重厚な城郭を建設する時間的余裕はなかったと考えられます。
船ふね
平家方が乗る船は、船底に丸木船の部分がない構造船(こうぞうせん)と呼ばれるもので、室町時代以降に現れたものです。源平合戦の頃は、丸木船の上に舷側板(げんそくばん)を取り付けた準構造船(じゅんこうぞうせん)が大型船の主流でした。
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