胴丸どうまる
「胴丸(どうまる)」は、中・下級の徒歩(かち)武者の甲冑として発達したものです。基本形式は、草摺が8間にわかれ、右脇から体を入れて引合緒(ひきあわせのお)で結びつけるものとなります。また、当初は両肩には杏葉(ぎょうよう)と呼ばれる鉄板に絵韋をはった部品をつけ、大袖の代わりの防具としていました。しかし、のちに胴丸を上級武者も着用するようになると、大袖の着用が一般化していきます。このように大袖を着けた場合は、杏葉は両胸にぶらさげられるようになります。
胴丸は、大鎧と比べると軽量でより軽快な動きが可能というところから、南北朝時代以降は次第に上級の武者も着用するようになっていきました。これは、このころ以降、騎馬武者の弓射戦から、徒歩武者の打物戦が主流となっていったことに対応した現象と考えられています。馬から降りての打物戦では、甲冑もより動きやすいことが重視されたと考えられているのです。
また、こうした動きやすさが重視されるようになったため、胴丸も時代が新しくなるにつれて、裾広がりの姿から腰がややくびれた姿へと変化していきました。さらに、喉元や大腿部の防御を強化するために、南北朝時代ごろから喉輪(のどわ)や佩楯(はいだて)も用いられるようになっていきました。
なお、今日胴丸と呼んでいる甲冑は、中世には腹巻と呼ばれており、逆に今日の腹巻を中世には胴丸と呼んでいました。これは、戦国時代末期以降、後述する当世具足が発展して甲冑の主流となっていく中で、古い甲冑の本来の呼び名がよくわからなくなり、名称が逆転してしまったためと考えられています。