学芸員コラム
2011年6月15日
第15回:沖本克己他編『新アジア仏教史09 チベット 須弥山の仏教世界』佼成出版社
昨年の4月に刊行された書籍なので、新刊レヴューというには遅いタイミングではある。だが、折しもダライ・ラマ十四世に代わり、チベット亡命政府の次期首相に就任予定のロブサン・センゲ氏と中国政府との対話をめぐり、世界的な注目が集まっている。そうしたなか、チベットの歴史・文化・宗教・美術、そして現在を知るための包括的な書籍として、改めて手にとる読者も少なくないのではないだろうか。
まずは、本書の構成にふれたい。
第1章 古代王朝時代の諸相(岩尾一史)
第2章 後伝仏教の諸相(石濱裕美子/松川節)
第3章 宗派概説(福田洋一/伏見俊英)
第4章 チベット仏教の現在(小野田俊蔵)
第5章 チベットの美術(森雅秀)
第6章 文化 現代チベット仏教の諸相(野村正次郎/平岡宏一/三宅伸一郎)
特論 ダライ・ラマ十四世(石濱裕美子)
このうち第3章「宗派概説」にもっともページが割かれ、これにチベット仏教の現状を論じる第4章「チベット仏教の現在」と第6章「文化 現代チベット仏教の諸相」、特論「ダライ・ラマ十四世」を加えると、相当なボリュームで、つまり本書の半分にいたる分量がチベット仏教の「今」を扱っていることになる。もとよりコラム担当者に限って言えば、職務としての中世日本の仏教絵画史との関わりにより、第1章・第2章・第5章へと一層関心がひかれることから、言及もこれらの章にとどめたい。
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第1章「古代王朝時代の諸相」では、チベット高原における7世紀初めから9世紀半ばまでの歴史が概観され、政治と仏教との関わりやその変遷に焦点があてられている。以下、本書の内容に即してまとめると、この時代は、チベット史上最も有名なソンツェンガムポ(617頃-49)の父・ナムリロンツェンたちにより、ラサを中心とする中央チベットが統一されたことにはじまり、842年にウィドゥムテン(ダルマとも呼ばれる)が暗殺されたことで終焉を迎える。
この時期、領土は拡大の一途を辿り、一時的とはいえ唐の首都・長安を占領し、隴右・河西地方~シルクロード南道~パミールまでを支配した。こうした時代に、外来宗教のひとつとして伝わった仏教がチベットでは国教化し、顕教(けんぎょう)経典のチベット語翻訳や、写経事業が積極的に敢行された。一方で、密教経典のチベット語翻訳は制限されていたという。しかし観音信仰はいまだみられず、大日如来(マハー・ヴァイローチャナ)の信仰が流行し、今もデンマタグの浮彫「大日如来像」、9世紀頃制作の東チベットのカムやアムド(青海省)の「岩画や岩像」などが現存することは感慨深い。
この統一チベットが崩壊した後も、旧チベット支配圏は、各地方との連絡の維持や、国際共通語や第2言語、聖なる言葉としてのチベット語の使用などにより、ゆるやかなつながりを保ち続ける。
本章は「こうしたチベット仏教の弘通は、十二世紀の西夏仏教の興隆へと連なっていくのである。」と結ばれているが、中央~東アジア文化におけるチベット仏教の具体的な影響は、今後さらに検証が重ねられることを必要としている。この章ではまた、仏教に席巻された土着の信仰(※岩尾氏は「固有の宗教」「古代宗教」と呼称する)へも少なくない紙面が割かれる。福田洋一氏の序にあるように、チベット仏教とは「チベットに特有の仏教」なのではなく、「チベットに伝わった仏教」であり、チベットを変容させた仏教なのであろう。
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第2章「後伝仏教の諸相」は、10世紀頃、ダルマ王の子孫であり出家者であったチベット王イェシェー・ウーが、インドからアティシャを招聘したことにはじまる後伝仏教について述べられる。「施主(せしゅ)と応供(おうぐ)」の関係をとおして、モンゴル帝国(大元ウルス)や清朝といった中国王朝とチベット仏教との関わりが論じられ、モンゴル人や満州人へといかにチベット仏教が深く受容されていくかが、まさに活写される。チベットやモンゴル、清では、ともに仏法と王法を対概念とみなし、そのうえで仏法の権威が王法の上に設定されていた。それらの国、王朝では、「仏法に則った政治」が理想とされたという。膝を打ったのが、以下のくだりである。引用したい。
「「仏法に則った政治」は、チベット語でchos srid、モンゴル語でtoru sasin、満州語でdoro shajin、と定訳が存在するが、漢語には定訳がないため、漢語を話す人びとにはこの重要な概念は正確には理解されていなかった。このことは、漢字を用いる人びとの世界と、チベット仏教を信仰する人びとの世界とでは理論が異なっていた事実を明示している。漢人は、チベット仏教世界の住人ではなかったのである。」(本書77頁)
私見では、仏法と王法を対概念とみなす現象は中世日本にも現れている。しかしその優位性が仏法にあり、しかも実行をともなって為政者の立場から明言されたテクストは、なかなか見出しがたい。しかしながらチベット仏教の浸透したアジア各地域では、「仏法に則った政治」をになった為政者がそれぞれに仏教美術を後押ししたことを想うとき、第5章で概観される「チベット美術」の様式的展開も自然と腑に落ちる。
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第5章「チベットの美術」では、従来ではインド美術史に含められることの多かったチベットの絵画と、中国美術史に一括されることの多かった吐蕃支配期の敦煌(唐時代)、西夏、モンゴル帝国(元時代)などの絵画とを、チベットの美術として俯瞰的に論じた点に功績が大きい。日本に視点をとって眺めていると、非常に離れた地域的で制作されたこれらの絵画も、なるほどチベット密教を主題とした絵画であるという根本的な統一要素でつながれ、様式的にも共通項が見出されることは目から鱗が落ちるようだ。おそらく今後は、これら絵画の中国中央王朝の周縁としての位置付けが、検討されるべき課題として浮かびあがる。
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この兵庫県立歴史博物館にも、チベットで制作されたとみられる仏教絵画が若干収蔵されている。これまであまり目に触れる機会はなかったことと思うが、この夏には歴史工房にて展示を試みたい。世界史とは地域史である、……などと大それたことは言えないが、兵庫県の仏画をアジアのなかで相対的に位置づけてゆくことも、おもしろいのではないだろうか。