特別企画展「絵そらごとの楽しみ-江戸時代の絵画から-」を開催しています。どの作品も魅力的なものばかりで、展示を見にいくたびに大変刺激を受けています。

 ところで、今回出品中の作品のなかで私が最も印象に残ったものは洛中洛外図屏風だったのですが、ご来場いただいた皆様はいかがでしょうか。屏風の左隻には二条城が大きく描かれ、同城にとって印象深いエピソードとなった寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行列がみえます。行幸は同年の9月6日から10日にかけて行われ、天皇はこのうちの8日と10日の2度にわたって天守に登り、京の町を一望したといわれています。華やかな京都の様相を描いた屏風を鑑賞していて、昨年度まで過ごした京都での学生生活を思い出してしまい、思わず感傷に浸ってしまいました。ということで初の学芸員コラムは、この二条城に関する館蔵の資料をご紹介することに決めました。

二条城の東大手門

 ここで、二条城の概要についてふれておきたいと思います。江戸時代の二条城は徳川家康によって築城が命じられ、慶長8年(1603年)初頭に完成しました。その後、寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行幸に併せて本丸を増築するなどの大改修が施されます。以降、天災や改修等の出来事によって姿を変えていくものの、今日にみられる二条城の基本的な形状はこのときに整備されたといえるでしょう。

 城主は幕府の歴代将軍とされていましたが、彼らが二条城に入ったのは江戸時代初期と幕末に限られたため、実際の城の警衛は寛永年中に制度化された二条城代(元禄12年(1699年)廃止)と二条在番(大番頭2人、組頭8人、番衆100人)および与力・同心によって行われました。このうち、二条在番は幕府直轄の軍事組織である大番組12組から毎年2組ずつ交代で派遣されたもので、二条城のほかに江戸城や大坂城の警衛をローテーションで担当していました。二条在番は文久2年(1862年)閏8月19日をもって廃止され、かわって二条定番が設置されています。このほかに城内を管理する役として、城門の警備を行う「二条城御門番頭」や御殿を管理する「二条御殿預」、四隅の櫓・櫓跡と焔硝蔵を管理する「二条御鉄砲奉行」、東西番衆小屋を管理する「御破損奉行」、城内外の米蔵を管理する「二条御蔵奉行」等がありました。

 さて、今回ご紹介する資料は「京二條御城内画図」と題されたものになります。本図は喜田幾久夫氏からご寄贈いただいた資料で、寸法は28.0㎝×35.4㎝と小型。彩色は異なりますが、これと同内容の絵図(「京都二條御城画図」)がもう一枚存在します。どちらも作成された年代は記入されていませんが、享保7年(1722年)に内堀北側外周に設置された木柵と思われる菱垣状の柵が描かれていることから、それ以降の状況を描いたものと思われます。

京二條御城画図 当館蔵(喜田文庫)

 内容をみていくと、絵図には「大手東御門」といったように城内各所の名称のほか、その寸法についても記載されていることがわかります。ただし、絵自体は記号的に描かれ、外堀の形状が凸型に描かれていない等、当時の状態を正確に反映しているとはいえません。また、櫓や塀等は色分けされていますが、その基準はいまのところわかっていません。

 本絵図で特筆すべきは、門番に関する情報が多く書き込まれている点です。現在も観光客の玄関口とされている「大手東御門」の門内北側に番所(現存)がありますが、絵図には「大御番衆」と記され、その両側に「御定番与力同心番頭方半日代」と記載されています。このことから、当時の東大手門の番所には、定番・与力・同心・番頭が半日交替で勤務していたことがわかります。このうち、定番が「二条定番」を指しているとするならば、文久2年(1862年)以降のものとさらに時代を絞り込むことができるのですが、検討の余地が残ります。

東大手門内の番所(現存)

 また、「西御門」には「西御門、常ニ札ニテ出入ス」とあり、枡形の横には「此枡形之内番所、御城番・同心壱人、番頭ゟ侍一人・徒一人ツヽ相詰、出入札ヲ改候也」と記載されています。すなわち西門では城番(定番の意ヵ)・同心および番頭の侍と徒(かち)がそれぞれ一人ずつ詰めており、城に出入りする人々に対して検問を行っていたことがわかります。

二条城西門
「京二條御城画図」西門付近の拡大図

「北ノ御門」(北大手門)は二条城の北隣に位置する京都所司代の管轄とされており、「常にハ不明之」。そして、「大御番所」には「所司代与力同心」と担当者が記されるのみです。

 以上のような特徴をもつこの絵図は、上に挙げた番頭や与力同心といった二条城の門番をする役にあった人物が実務を担う上で作成したものの可能性があります。しかし、二条城の日常的な運営に関する資料は散在しているため、未だによくわかっていないことが多く、検討の余地があります。近年では二条城に関する調査が京都市によって進められており、調査の成果として様々な新発見が出てくることが期待されています。