学芸員コラム
2026年7月10日
第174回 熊と麻疹(はしか)
シン鬼熊
ここしばらく、春の特別展「妖怪・幻獣づくし」の副担当として関係業務に従事してきました。事前調査や借用にあたり各地へ出張し、さまざまな「妖怪図鑑」系の絵巻を熟覧しました。ポップな語感をもつ名前、滑稽・珍奇な姿を与えられた妖怪たちの「キャラ化」が際立ちますが、それらとは真逆のシリアスな目線で妖怪の姿をとらえ、44編の怪奇ばなしを収めた版本もありました。《絵本百物語》という本ですが(特別展の出品目録は《怪談百物譚(桃山人夜話)》、1841年刊)、昨年来、各種メディアのトップニュースに取り上げられるようになった、ある社会問題のゆくえを思い、巻第四の「鬼熊」【図1】に強い印象を受けました。その怪奇ばなしは次のとおりです。

木曽地方では歳をとった大きな熊を鬼熊と呼ぶ・・鬼熊は人前には姿をみせない・・深夜、人里に降りて牛や馬を引きずり出して食い、人のように立って歩く・・猿を捕まえ、手のひらで押すだけで圧死させてしまう、また十人がかりでもビクともしない大岩を、片手で軽々と持ち上げ谷底に投げ落とすほどの怪力である・・巣穴に追い出しをかけて槍で突き、鉄砲で仕留めるが、捕獲された鬼熊の皮は六畳以上あった・・
巨大な老熊の妖怪化は、人間が長年にわたって経験してきた、さまざまな熊害の記憶を物語るものでしょう。《絵本百物語》から200年近くになる今日、家畜への食害どころか、都市での日常生活さえも熊の脅威にさらされています。サッシの鍵を開ける、水道の蛇口を開くといった、その奇談も恐るべき「シン鬼熊」が出現しないよう、事態の沈静化を祈ります。
酒呑童子絵異聞
特別展に重ねて、「屏風と絵巻で見る酒呑童子」という小特集(コレクションギャラリー)を企画しました。

文字通り、屏風1隻と絵巻4巻のみでの展示【図2】でしたが、ここ「学芸員コラム」の場を借りて番外作品(錦絵)を1点展示します。歌川芳藤《はしか童子退治図》【図3】です。文久2年(1862)の麻疹大流行を受け、同年に90種以上が版行された「はしか絵」の一種です。はやり病で混乱する世相を茶化した戯画で、「源頼光の鬼退治」(酒呑童子図)の見事なパロディとなっています。

まず、緋色の袴を着て横になる大童が、酒呑童子ならぬ「はしか童子」、つまり麻疹神。顔や手足に発疹が広がり、口元に牙の先端がのぞきます。この麻疹神を懲らしめるべく取り囲むのは、源頼光、四天王に擬された器物たち。装束が山伏風であるのも念入りです。画面手前で縄を引くのが湯屋(桶)、背後で引くのが髪結床(鬢盥)、また刀に手をかけるのは酒屋(角樽)と船宿(屋形船)で、みな麻疹の流行にともない「商売あがったり」になった業種です。そして左下隅の薬袋は薬種屋。逆にこちらは、医者、駕籠屋、僧侶らとともに繁盛を極めたがゆえ、不況業種の怒りをなだめようという留男の態。三者三様の心情を巧みに対比させた絵師の演出が光ります。
歴史学者の髙橋昌明氏によれば、酒呑童子という鬼神の正体は、疱瘡(天然痘)を流行らせると考えられた疱瘡神の脅威であり、その姿(神体)としてイメージされたのが猩々(中国由来の赤い顔をした酒好きの幻獣)や酒呑童子であったといいます。麻疹神も同類の疫神として大差なく認識されたようですが、上掲《はしか童子退治図》の麻疹神が酒呑童子とのダブルイメージであることは明らかでしょう。
江戸時代の酒呑童子絵は、徳川武家政権の正統性を讃美する物語絵として享受された、また徳川家康の次女・督姫(小田原城主・北条氏直の正室)が池田輝政へ再嫁した際、北条家伝来の《酒伝童子絵巻》(現サントリー美術館蔵)を持参したことが世に知られるようになり、その例にあやかろうとする風潮から婚礼道具として需要が高まった、ともいわれます。ひょっとすると、婚礼道具であってもなくても、《はしか童子退治図》のように疱瘡・麻疹除けとして所持(享受)された屏風、絵巻もあったのではないのだろうか?…という想像も頭をよぎります。
ちなみに、督姫の前夫・北条氏直は豊臣秀吉に降伏後、高野山で謹慎となり、翌年赦免されますが、ほどなく疱瘡にかかり30歳の若さで死去(1591年)してしまいます。その後、北条家の《酒伝童子絵巻》を池田家へもたらした督姫も、実は疱瘡で亡くなっているのです。疱瘡の陰に酒呑童子(絵)あり!
さて、疱瘡(天然痘)は1980年に世界根絶されていますが、野生動物がもつ近縁ウィルスからの再出現、人工合成などの潜在的脅威は残されているといいます。麻疹は日本では2015年から排除状態にありますが、今年は春先から若年層を中心として近年にない感染者の急増がみられました。熊の出没ほどにニュースとなっていませんが、疫神の跋扈を再び許さないよう「甦り」への警戒が必要です。
獣とウィルス―人に災厄をもたらす自然―に対する人間の恐れ、そのイメージの具現化をめぐる雑感をもとに、ふたつの展示を振り返ってみました。
(2026.07.07)



