今年は連日クマ被害をめぐる報道が続き、「里山(さとやま)」という言葉も、いつもより耳にする機会が多かったように思います。

 かれこれ18年近く前になりますが、2008年(平成20)の1月から3月まで、当館で収蔵している近世の絵図類や絵画資料を集めて、企画展『ひょうごの景観を歩く』を担当したことがありました。今回はその折に展示した1点の絵図から、江戸時代の里山の姿をご紹介したいと思います。

播磨国美嚢郡淡河組安場草山一円之絵図 文政11年(1828)3月
83.0×100.4cm 播磨国美嚢郡淡河組北畑村山論文書 兵庫県立歴史博物館蔵

 写真にあげた絵図は、現在の神戸市北区淡河町内にある「安場山」と呼ばれた山の景観を描いた絵図です。文政11年(1828)の制作で、このころ発生していた周辺村落同士の山の利用をめぐる争いの中で作られたものでした。
 画面の中央部には、灰色で手の指のように描かれた田んぼの周りに、薄い茶色で山が描かれています。また画面の右から下にかけて、墨線で木々が描かれた緑色の林が散在しています。画面右下の凡例をみると、薄茶色の部分は「草山」、すなわち木々を生やさず、草地とされていた山だったことがわかります。左下にある表題も「安場草山一円之絵図」となっており、画面の範囲内では、木々がある「林山」よりも草山の方が広い面積を占めています。

絵図の凡例部分

 こうした草山が広がる景観は、近世においてはごく一般的なものでした。かつての人々にとって、山の草は田畑の肥料や家畜の飼料などとして生活必需品の一つだったためです。
 この山争いの中で、当事者の一つとなっていた北畑村(神戸市北区淡河町北畑)が提出した文書からも、そうした山の役割が読み取れます。山争いの発生にともなって安場山への入山が禁止され

絵図の表題部分(90度回転)

ましたが、北畑村は、牛の飼料や田畑の肥料の採集に困ると訴え、また人が入らなくなった山へ猪や鹿が入り込んで田畑を荒らす恐れがあるとして、早期の入山解禁を求めているのです。

 また、この絵図から100年ほど前に北畑村の概要をまとめた冊子には、草山として安場山のほかに二つがあげられています。さらに、淡河地域の20ヶ村が共同利用する柴草山があげられ、また住人たちの個人所有の山も34筆分列記されています。このように、山には個人の所有地として細分化されたもの、一つの村の村民だけで共用するもの、周辺の村々が集まって共用するもの、の三種類がありました。共用される山のことを、「入会山(いりあいやま)」と呼んでいます。

 このほか、この冊子には「池林」が5ヶ所記されています。池林とは、水源涵養(かんよう)のために伐採を制限している山林のことと考えられます。安場山の絵図でも、水色に描かれた溜池の周囲に、木々の生えた「林山」がみられます。こうした林が池林と呼ばれたようです。人々は一定のルールを設けて、山の自然を利用していたのです。

草山と溜池、林山

 里山は、近代における化学肥料の普及や戦後の石油・ガスへの燃料源転換(燃料革命)まで、田畑に入れる草肥、薪炭などの燃料、牛馬の飼料、あるいは建築材料など、様々な生活必需品を入手する場として利用されてきました。この絵図は、そうしたかつての里山の景観をわかりやすく示してくれています。

【主な参考文献】
水本邦彦『草山の語る近世』(山川出版社 日本史リブレット52、2003年)
兵庫県立歴史博物館企画展資料集No.24『ひょうごの景観を歩く―収蔵村絵図選―』(2008年、非売品)