学芸員コラム
2023年1月13日
第146回 洞松院のころの置塩
今回は、戦国期赤松氏の本拠であった置塩(おしお)(現姫路市夢前町(ゆめさきちょう)宮置)のことを少しご紹介してみます。
置塩は姫路の市街地から北北西に10キロほど離れた夢前川の谷間にあります。戦国時代には、ここに守護家である赤松氏の本拠が置かれていました。
置塩については、かつては応仁の乱(1467~77)の中で播磨・備前・美作の守護職を回復した赤松政則が本拠としたと言われていましたが、現在では政則の次代となる洞松院(とうしょういん)の執政期から本拠となったと考えられるようになっています。
洞松院は赤松政則の妻で、室町幕府管領(かんれい)細川政元の姉でした。政則は明応5年(1496)に没しますが、養子に迎えた跡継ぎの義村は幼少で、さらにその後浦上則宗や赤松政秀などの有力宿老衆が相次いで没してしまいます。こうして生まれた政治的空白状況の中で、洞松院は守護義村の後見人として赤松氏の政務を担いました。彼女の執政期間は16世紀はじめの10数年間ほどに及び、戦国時代における女性の執政の事例として注目されています。
置塩を訪ねると、麓からはお椀を伏せたようにみえる山の上に置塩城跡があります。ただし、この山上の城郭が使用されるようになったのは戦国中期の晴政の代からとみられており、洞松院期に拠点となる館が構えられたのは、城跡からみて夢前川の対岸にある小さな台地上、現在小字で岡前(おかまえ)と呼ばれている付近と考えられています。
また、この台地背後の山麓には、現在は廃寺となっている松安寺の跡があります。建物はすべて失われていますが、比較的広大な寺跡の中に、赤松晴政・晴政の妻(ヵ)・義祐の供養塔が残されています。
右端が義祐、地蔵菩薩立像を挟んで左が晴政、左端が晴政の妻(ヵ)
さて、最近洞松院のころの置塩に関して新たな史料が紹介されています。京都の賀茂別雷神社(賀茂社)と守護赤松氏との交渉を示すものです。この史料によると、永正10年(1513)、賀茂社は備前国竹原荘(岡山市東区)の年貢額をめぐって洞松院や守護義村と交渉を重ねていたことがわかります。この交渉は、置塩に居住していた賀茂社の関係者である市隆平とその母が中心的役割を担いつつ、賀茂社からも人を派遣して行われていました。また、隆平の母は、「御屋形」に日参して苦労していたと記されています。隆平とその母らは洞松院・義村双方と協議を重ねていたようですが、最終的な判断は洞松院が下していました。
また、賀茂社への年貢額が一旦30貫文で妥結した後、京都の細川政元被官(ひかん)薬師寺国長の口利きで、洞松院からの計らいとしてさらに5貫文が追加されています。細川政元の姉である彼女の中央との人脈が、この交渉で意味をもっていたことがうかがえます。
さて、こうした経緯の中で、置塩に居住する賀茂社の関係者が軸になって交渉が進められていたことには注意してよいでしょう。置塩に居住する人々の中に、中央から移住し、荘園領主が守護と交渉する窓口としての役割を果たす人がいたことがわかるためです。
このほかの史料からも、このころの置塩には案外に数多くの人々が往来していたことがうかがえます。歌人冷泉(れいぜい)為広などの京都の公家・僧侶衆や、あるいは用水相論の調停を求めて置塩に逗留した鵤荘(太子町・たつの市)と小宅荘(たつの市)の住人たちに関する史料などがよく知られています。鵤・小宅の用水相論については以前にも学芸員コラム第74回で紹介しました。
このように中央と地域の双方から様々な人々が往来していた置塩の具体像はどのような姿だったのでしょうか。またあらためて考えてみたいところです。なお、洞松院については昨年末に短めの紹介文を書かせていただきました。参考文献の末尾にあげますので、ご関心を持たれた方はあわせてご参照いただければ幸いです。
【主な参考文献】
- 辰田芳雄「賀茂別雷神社領備前国竹原荘の史料紹介」(『岡山朝日研究紀要』41、2020年)。
- 辰田芳雄「賀茂別雷神社領備前国竹原荘の守護請について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』30、2020年)。
- 依藤保「播磨置塩城主赤松氏の動向」(『播磨置塩城跡発掘調査報告書』、夢前町教育委員会、2006年)。
- 拙稿「赤松洞松院」(天野忠幸編『戦国武将列伝』畿内編 上、戎光祥出版、2022年)