学芸員コラム
2016年5月15日
第74回:播磨国鵤荘の水争い―荘園を歩く(その1)―
姫路の西、揖保川の支流林田川の東岸にあたる揖保郡太子町からたつの市の東部にかけて、戦国時代まで奈良法隆寺の荘園として鵤荘(いかるがのしょう)がありました。
鵤荘に関連する史料としては、奈良の法隆寺に鎌倉時代の末期と南北朝時代の末に描かれた2枚の絵図と数多くの古文書が残されています。また鵤荘故地内にある斑鳩寺(太子町鵤)には、戦国時代の荘務記録である『鵤荘引付(いかるがのしょうひきつけ)』や、播磨の地誌である『峰相記(みねあいき)』の写本などが伝えられています。これらの史料によって、中世の荘園の景観や、そこで暮らした人々の具体的な営みの姿がうかがえます。鵤荘は、こうした史料に恵まれた貴重な事例の一つとして、研究者の間では古くから有名な荘園です。
当館でも、こうした点に注目して、中世の荘園の具体的な姿を示す一つの例として、昭和58年(1983)の開館時から、常設展示において鵤荘絵図(原本:法隆寺蔵、重要文化財)の複製などを展示し、この荘園の景観や人々の暮らしなどを紹介してきました。ただし、平成19年(2007)のリニューアルによって展示構成が大幅に変わったため、現在は展示としては歴史工房室において数年ごとに不定期で展示するようになっています。ちょうどこの4月から6月まで、歴史工房室で久しぶりに鵤荘絵図の複製などを展示していますので、あらためてこのコラムでも、これまでの研究をもとにした展示内容の一端をご紹介することにします。
鵤荘の荘務記録である『鵤荘引付』(原本:斑鳩寺蔵、重要文化財、当館の展示は複製)には、戦国時代の水争いに関する興味深い記述がみられます。原本は漢文調ですが、読み下し文と現代語訳にして掲載します。
〔読み下し文〕
同(永正)十一年甲戌、大干魃により、用水下らざる間、地下…(欠損)…談合せしめ、七月廿五日より、先例にまかせて、横井の番帳…(欠損)…(ヲヵ)あいしたためこれを守る。しかるところ八月朔日、辛川道秀方・本住寺・山下左京亮方番之時、小宅庄内よりかの二の樋の下の岩取を違乱せしめ、既に番衆を取り籠め難儀におよぶ間、大寺の鐘を鳴らし、当庄よりことごとくもって上りおわんぬ。其勢千二百ばかり二の樋まで押し寄せ、此方の番衆を合力し、岩取以下往古のごとくその沙汰をいたし、両方和談してすなわち退散しおわんぬ。
〔現代語訳〕
永正11年(1514)、干ばつのため農業用水が不足したので、鵤荘の住人たちが相談して、7月25日から先例にしたがって「横井(よこゆ)」の当番を決めて水の番をすることとした。しかしながら8月1日、辛川道秀ら3名が当番の時に、小宅荘(おやけのしょう)の住人たちが横井の「二の樋」の下の「岩取」を操作するとともに、当番の衆を取り囲んだので、鵤荘側では斑鳩寺の鐘を鳴らして、住人総出で現場へ向かった。その数1,200人ばかりで「二の樋」まで押し寄せ、当番の衆を支援し、「岩取」は昔からの先例通りに処置して、双方が和解して引き上げた。
ここでは、永正11年(1514)に干ばつとなり、7月25日から、鵤荘の住人らが「横井」で水の番をすることになったこと、そして8月1日に、鵤荘からみて用水路の上流側に位置する小宅荘の住人らが、横井の「二の樋」にやってきて当番衆を取り囲み、水を取ろうとしたため、鵤荘から住人総出で押し寄せ、その場では一旦和解になったと記されています。
ここでみえる「横井」とは、揖保川の水を鵤荘へ導くための用水路で、現在は「山根川」とも呼ばれています。この上に掲示している地図のなかではちょうど中央やや上、たつの市の東部を林田川へ向けて流れる水路です。現在、かつての鵤荘域の田畠を潤しているのは、「赤井(あかゆ)」という水路で、林田川に堰を設置して水を導いています。しかし、林田川は水量が少なく、鵤荘全体に水を行き渡らせるには不足するようで、林田川のさらに西側を流れる揖保川から水をひき、赤井堰の地点で林田川の地下をサイフォンで通して鵤荘域へ水を導く、という形の複雑な用水網が建設されています。「横井(山根川)」は、こうした鵤荘の用水網のうち、揖保川と林田川との間で水を導く部分の一部の名称になります。
この「横井」の水源は揖保川に設置された小宅井(おやけゆ)の堰です。小宅井はその名が示すように小宅荘域を潅漑する用水路で、横井は、この小宅井から途中で枝分かれして、林田川の方へ流れていきます。
こうした複雑な用水網は、林田川の地下をサイフォンで通す部分を除けば、江戸時代前半にはすでに完成していたことがわかっています。サイフォン部分は昭和42年(1967)の建設で、それまでは「横井」の水を一旦林田川に落としてから、堰を設けて「赤井」へ導水していました。また、林田川から先の「赤井」部分については、法隆寺に伝わる鎌倉末期の鵤荘絵図にもその原型に相当する水路が描かれており、古くからの用水路であったことがわかります。そして、この『鵤荘引付』に「横井」が登場することによって、小宅井―横井―赤井の用水網が戦国時代には確実に機能していたことが判明することになります。
なお、こうした「横井」の存在がいつまで遡るのかについては、残念ながらまだ明確にはなっていませんが、鎌倉末期の絵図の段階にすでに存在していたとみてよいとする説もみられます。
さて、こうした用水路の構造を踏まえて『鵤荘引付』の記述を読み直してみると、鵤荘と小宅荘との争いは、「横井」の部分での鵤・小宅への分水をめぐるものであったと理解できます。
『鵤荘引付』には、「二の樋」や「岩取」という言葉が出てきますが、残念ながらその詳細はよくわかりません。ただし、「二の樋」はおそらく鵤・小宅への分水点に設置された施設でしょうし、「岩取」とは、分水点での水量を調節するために置かれた岩だったのではないかと推察できます。
干ばつに直面し、お互いに少しでも水がほしい鵤・小宅双方の住人たちは、鵤側は横井の見張りを当番で行うことによって途中で水を取られないようにし、小宅の方は「岩取」に操作を加えることで少しでも自らの側に水がたくさん流れるように調整しようとしたと考えられるのです。
さて、この記事の末尾では、「双方が和解して引き上げた」と記されていますが、事はこうした現場でのやりとりだけでは収まっていませんでした。『鵤荘引付』では、小宅荘側から3日間小宅側へ水を流すように申し入れがあり、これは承諾したものの、小宅側はさらに収まらず、置塩(姫路市夢前町宮置)の守護赤松氏への元へ提訴したと記されています。
守護赤松氏は、このころ当主の義村がいまだ幼少だったため、先代政則の妻である洞松院(とうしょういん、実名は「めし」)が執政していた時期にあたります。『鵤荘引付』には、置塩から8月18日に鵤荘側へも置塩へ出頭せよとの召集状が届き、これを受けて鵤荘の住人の代表者35人が、19日から28日まで10日間置塩へ逗留することになった、と記されています。
さて、こうしてはじまった置塩での裁判ですが、赤松氏の奉行人3名のもとで3回にわたって鵤・小宅双方からの弁論と審理が行われました。『鵤荘引付』の記述を読むと、小宅・鵤双方があの手この手で互いの主張をぶつけ合う様子が興味深いところですが、詳細は省略します。
この裁判は、結局のところ、3度目の審理で、守護方から「御裁許なしがたくそうろう(判決はくだせない)」と言い渡され、決着がつかないまま一旦終了しました。守護方からは、洞松院の名で「重ねて年寄衆出仕の時、あい尋ねられ仰せ付けらるべくそうろう(再度赤松方の重臣たちが揃ったときに、調査して裁決する)」とする文書が交付されました。しかし、この後『鵤荘引付』にはこの裁判に関する記述はみられず、置塩からの明確な裁決は下されなかったようです。あるいは、裁判をしている間に田んぼに水が必要な時期が過ぎてしまったか、雨が降って当座の水はしのげるようになっかたして、うやむやになっていったのではないかとも推察されます。
さて、この争いは結局のところどうなったのでしょうか。法隆寺には、永正17年(1520)11月11日付けで、法隆寺の重役から鵤荘の有力者であった円山新兵衛尉に宛てた書状の控えが残されています。ここには、「当庄と小宅庄用水相論の儀につき、数年御公事に及ぶところ、今度御籌策によって落居そうろうの条、寺門の大慶何事かこれにしかんや(鵤荘と小宅荘の用水争いについて、数年間裁判となっていたが、今度円山の尽力によって解決したので、法隆寺として大変喜んでいる)」といった記述がみられます。この文書は永正17年(1520)のものです。したがって、「小宅荘との用水争いが数年間裁判になっていた」との記述は、永正11年(1514)の置塩での裁判以来、用水相論の決着がつかないままになっていたことを示すと理解できます。そして、これが「円山の尽力によって解決した」とされており、この争いは円山新兵衛尉の尽力によって和解にいたったことが判明するのです。
円山新兵衛尉は、鵤荘内の宿村(たつの市福田)に居住していた有力者で、このころ斑鳩寺の修造に多額の寄進を行っています。また、龍野赤松氏の家来としても活動していました。置塩の守護が裁決できなかった水争いは、最終的には地域の有力者の尽力によって解決にいたったことになるのです。
さて、こうした水争いの経緯をあらためてまとめてみると、小宅・鵤それぞれの住人たちは、自らの権利を守るために、まずは現場で実力行使があり、その後ある程度当事者間で話合いを進め、それでも納得できなかったために公権力である守護の法廷に提訴し、そして公権力も裁決を下せないことがわかると、最終的には地域の有力者の尽力によって、再び当事者同士の話合いで解決を導いた、といったものであったといえます。
こうした経緯からは、公権力が裁決を下せない状況で、地域の住人たちが自分たちの力で紛争を和解へ導く能力を身につけていたことが読み取れます。また、横井で水当番が危機に陥ったとの一報が入るや否や、荘内総出で現場に急行するといった住人たちの団結力も注目されます。この水争いは、戦国の争乱が続く中でも、地域に暮らす人々が、自らの問題を、一定程度は公権力を利用しつつも、基本的には自らの力で解決する力を身につけており、用水路という地域社会の生産基盤に関わる秩序については、地域の人々自身の手で維持されていたことをよく示す事例といえるのです。
以上、今回は播磨国鵤荘について戦国時代の水争いを中心にご紹介しました。兵庫県域には、このほかにも史料に恵まれた荘園がたくさんあります。これからも機会をみて別の荘園もご紹介していきたいと思います。
【主な参考文献】
- 上田洋行『西播磨の揖保川左岸に並ぶ三荘』(太子町教育委員会、1985年)
- 梶木良夫・岸上宰士「赤井・荒河井の水利灌漑」(『播磨国鵤荘現況調査報告1』、太子町教育委員会、1988年)
- 酒井紀美「水論と村落」(『日本中世の在地社会』吉川弘文館、1999年)
- 池上裕子「播磨国鵤荘の惣荘組織と侍衆・百姓」(『戦国時代社会構造の研究』校倉書房、1999年)
- 水藤真『片隅の中世 播磨国鵤荘の日々』(吉川弘文館、2000年)
- 小林基伸「揖保川下流域の水利」(『播磨国鵤荘現況調査報告 総集編』、太子町教育委員会、2004年)
- 太子町立歴史資料館『太子町の歴史―太子町立歴史資料館常設展示案内―』(2014年)