この「歌仙御手鑑」について、東園基量の日記『基量卿記』の貞享2年(1685)2月13日条に面白い記録がある。普請奉行・中坊秀時に下賜されたものだというのだ。中坊秀時は幕府の命により、朝仁親王(後の東山天皇)の東宮御所造営に尽力した。貞享2年2月10日には、完成したばかりの御殿に親王が移徙している。つまり、この手鑑は仕事を成し遂げた中坊秀時への宮廷からのご褒美だったという訳だ。

 この手鑑には、柿本人麿をはじめとする三十六歌仙人が一画面に一人ずつ描かれているのだが、描き方は丁寧だ。さすがに宮廷からの下賜の品だけのことはある。

 また、この手鑑の三十六図には、関白・一条冬経をはじめとする三十六人の公家たちによる詞書が記されているのだが、その顔ぶれが興味深い。当時の宮廷の状況が色濃く反映されているのだ。この4年前の延宝9年(1681)、皇位継承をめぐる小倉事件があった。そこで失脚した公家がここに全く含まれていない。また、朝仁親王の父・霊元天皇の側近が全て含まれているなどである。

 この「歌仙御手鑑」のように、宮廷から幕臣に下賜された絵画作品は多い。やはり褒美として贈られたものだ。この「歌仙御手鑑」から18年後の元禄16年(1703)、同じ山本素軒が描いた「十二ヶ月花鳥図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館)も宮廷から京都所司代・松平信庸に贈られたものだ。そこに関白・鷹司兼煕をはじめとする12人の公家が賛をしたためているのだが、そこにも当時の宮廷の状況が強く反映されている。

 きれいな下賜品も、当時の宮廷状況を教えてくれる歴史資料なのである。

山本素軒「歌仙御手鑑」 貞享2年(1685) 七宝庵コレクション