皆さんは兵庫県にどのくらいの数の寺院があるか御存知でしょうか。県下全体で約三千三百か寺です。この数が多いのか少ないのか、私には判断することができません。この秋に開催する特別展「播磨と本願寺-親鸞・蓮如と念仏の世界-」の準備を進めている中で知ったことなのですが、この内の約一千か寺、約三分の一が浄土真宗系の寺院が占めているということです。

 浄土真宗系の寺院は、特に播磨地域に多く、歴史的に「播州門徒」として広く知られています。今年はNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映され、織田信長・羽柴秀吉による播磨攻めにおいて顕如や一向宗門徒が登場していました。その撮影が姫路の亀山本徳寺で行われたことは、御存知のことではないかと思っています。

 浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞(1173-1262)によって開かれました。親鸞が播磨を訪れたことはありませんが、半僧半俗・庶民とともに生きる加古の沙弥教信を自身の理想と仰いでいました。

 播磨への本格的な浄土真宗の伝道は、室町時代の本願寺8世蓮如(1415-1499)の時代のことでした。蓮如により播磨へ派遣された高弟空善(くうぜん)は、瀬戸内の経済活動の拠点であった要港英賀(姫路市飾磨区)に布教の拠点となる道場を開きました。この道場は後に英賀御堂(本徳寺)と称され、播磨地域における浄土真宗の信仰の中心として、また宗教活動の拠点として発展していきました。

英賀本徳寺跡の碑 姫路市飾磨区英賀西町 明蓮寺境内

 黒田官兵衛に迎えられて羽柴秀吉が播磨にはいるのが天正5年(1577)11月、毛利氏に与した別所長治の三木城が落ちたのは天正8年1月、英賀城が落城したのは同年4月のことでした。英賀御堂本徳寺は、秀吉によって亀山(姫路市)に新しい寺地が与えられ、旧知を離れました。秀吉の体制下に組み込まれた本願寺でしたが、徳川家康の覇権のもと本願寺の東西分派が進み、西本願寺と東本願寺が成立します。播磨はこれまでの亀山本徳寺(浄土真宗本願寺派・西本願寺)とは別に、新たに姫路城下の西に船場本徳寺(真宗大谷派・東本願寺)が成立しました。それ以降、この二つの本徳寺が播磨の浄土真宗の宗教的・文化的拠点として現在に至る法灯を伝えています。

 15世紀後期以降、播磨の地域社会に浄土真宗は着実に浸透していきました。この度の展覧会の開催にあたっては、浄土真宗本願寺派兵庫教区、真宗大谷派山陽教区の協力を得て真宗寺院の文化財調査を進めてきました。播磨の真宗寺院の本格的な文化財調査の実施はこれが最初といっても過言ではないのですが、調査を進めるほどに地域社会へ着実に根を下ろしていく数々の資料が確認されました。

 浄土真宗の寺院にお詣りすると、本堂の本間に阿弥陀如来の仏像を中心に親鸞像、蓮如像、余間に方便法身尊像(方便法身尊形、阿弥陀如来の絵像)や六字名号(南無阿弥陀仏)、聖徳太子像、七高僧連坐像などがまつられています。これらは本願寺から授与されたものですが、裏書きがあってそこには何時、誰が、誰に授与したのかが書かれています。ここでは赤穂市永應寺に伝来した「方便法身尊形」を紹介してみましょう(『赤穂市史』第4巻 1984年)。

           大谷本願寺釈証如(花押)

          天文四年乙未八月十一日

  方便法身尊形  善祐門徒播州赤穂郡           宇念庄井内村惣道場物

 この裏書きには、本願寺第十世証如が天文4年(1575)8月11日に善祐の門徒である播州赤穂郡宇念(有年)庄井内村の惣道場の本尊として「方便法身尊形」を授与したことが書かれています。こうした内容は、浄土真宗の地域社会への定着を窺わせています。そして、村の名前が裏書きによって初めて確認できた、ということも珍しいことではありません。これらは信仰の対象として、また、由緒を伝える史料として寺院にとっては大切なものですが、その地域の歴史を明らかにする上での基本史料でもあるわけです。

 この秋の特別展では、浄土真宗寺院に伝来した文化財を中心に、播磨の新しい歴史像を紹介したいと考えています。ご期待ください。