姫路城関連(主要なもの) 姫路城関連(その他)/姫路市域での出来事 全国史
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西暦 ・ 年号 出来事
8世紀 播磨国府が姫路に置かれる。

播磨国の国府が姫路に置かれたことで、その後も、人や物資が集まる地域の中心地としての特性が受け継がれ、羽柴秀吉や池田輝政による新たな居城づくりに、姫路を本拠地に選ばせる前提になったものと思われます。

1324~28年 ・ 正中・嘉暦年中 播磨国内の「悪党」の勢力が拡大し、築城技術も進んでいた様子を『峯相記』が伝える。

『峰相記』[みねあいき]という南北朝時代の史料には、「矢倉[やぐら]ヲカキ、飛礫[つぶて]ヲナゲ」、勢楼[セイロウ]や各種の楯[たて]を備えるなど、城での軍事行動に長けた新興勢力の人々の姿が見られます。

1333年 ・ 元弘3年 赤松則村(円心)が倒幕の挙兵に応じ、姫山に縄張を定めたとされる。
1346年 ・ 貞和2年 赤松貞範がはじめて姫山に城を築いたとされる。

父の赤松則村[のりむら]とともに行動を起こし、赤松氏の播磨国支配を支えました。『播磨鑑』[はりまかがみ]という江戸時代の地誌によれば、山上の寺院を麓に下ろし、姫路城の原点となる居館を構えたとされます。

1397年 ・ 応永4年 京都北山第(金閣)の立柱・上棟が行われる。
1441年 ・ 嘉吉元年 赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、同年に城山城で敗死する。(播磨は山名氏の領国へ)
1467年 ・ 応仁元年 応仁の乱が始まる。赤松政則が播磨国を回復し、姫路の城を修築したとされる。

1441年の嘉吉[かきつ]の乱で、播磨から赤松本家が除かれたのち、応仁[おうにん]の乱を機に、再興された当主の政則が姫路に入り、鶴見丸・亀居丸のほか桜門・桐門・菊井など、城に改修の手を加えたとされます。

1469年 ・ 文明元年 赤松政則が置塩城を築いて移る。
1535年 ・ 天文4年 ※この年の銘がある一石五輪塔が羽柴秀吉の旧天守裏込に使われていた。
1537年 ・ 天文6年 犬山城天守の下層部分が建てられる。(望楼部分は慶長期に後補)
1543年 ・ 天文12年 ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝わる。

ポルトガルによってもたらされた鉄砲は、瞬く間に日本国内に広がり、戦術や築城のあり方に大きな影響を及ぼしました。壁土を厚くした塀や櫓を巡らす平地の城郭が、旧来の山城に代わって城郭史の流れを主導していきます。

1561年 ・ 永禄4年 黒田重隆・職隆父子が姫路城を改修する。(永禄新城)
   正明寺文書により、「姫道御構」の存在が確認できる。

『正明寺文書』の売券によれば、姫道[ひめぢ]村の助大夫の畠地が「姫道御構東門之口」のあったと記録されています。「御構」の詳細はわかりませんが、後の姫路城に受け継がれる城郭要素であったかもしれません。

1575年 ・ 天正3年 長篠の戦い。黒田孝高が上京して織田信長に会う。
1576年 ・ 天正4年 織田信長が安土城を起工し、本拠を移す。

織田信長の安土城は高石垣で城山の要所を固めて、その中心に華麗な天守建築を創出するなど、周囲を圧倒する権威を見せつけ、以後の城郭のスタイルを確立しました。現在でも発掘調査を基にした史跡整備が継続中です。

1577年 ・ 天正5年 中国経略(対毛利氏)のため、羽柴秀吉が播磨に派遣される。
1580年 ・ 天正8年 三木城(別所氏)・英賀城(三木氏)・長水山城(宇野氏)が落城し、播磨平定。
   東播磨・中播磨の城わり(置塩・御着など9城)が命じられる。

秀吉の播磨平定により、中世を代表する赤松本家の置塩[おじお(おきしお)]城など、国内で不要な城郭の「城わり(破城)」が行われ、地域社会の新たな支配の枠組みに向けて、上からの城郭管理・統制が実施されました。

   黒田孝高が姫路城を羽柴秀吉に献じ、妻鹿の国府山城に移る。
1581年 ・ 天正9年 羽柴秀吉が姫路城に3重天守を築く。
1582年 ・ 天正10年 羽柴秀吉が備中高松城を水攻め。本能寺の変。秀吉が明智光秀を討つ。
1583年 ・ 天正11年 羽柴秀吉が大坂城を起工し、羽柴秀長が姫路城主となる。

石山本願寺跡地を大規模に改修して、豊臣家の居城としての築城工事が行われ、船場を中心に城下町の計画的な展開にも力が注がれました。戦乱から天下統一の世へ、時代の推移に対応した城郭の形が求められていました。

1585年 ・ 天正13年 羽柴秀吉が従一位にのぼり、関白となる。(翌年に豊臣姓をうける)
   赤松則房が阿波国に移封される。(中世に播磨守護をつとめた家系の他国転出)
1588年 ・ 天正16年 全国に刀狩が命じられる。
1590年 ・ 天正18年 豊臣秀吉が関東の北条氏を降ろす。徳川家康が江戸城に入る。
1591年 ・ 天正19年 豊臣秀吉が朝鮮出兵を命じる。(慶長3年まで)
1598年 ・ 慶長3年 豊臣秀吉が死去。赤松則房が死去。
1600年 ・ 慶長5年 関ヶ原の戦い。池田輝政に播磨国52万石余が与えられる。
1601年 ・ 慶長6年 池田輝政が姫路城の築城工事を始める。

関ケ原の戦い後、播磨一国52万石の領主となり姫路城を今日見る姿に構築した池田輝政は、徳川家康の娘婿でもありましたが、豊臣恩顧の外様大名の一人であり、大坂方(豊臣秀頼)に配慮した人選だったと思われます。

1603年 ・ 慶長8年 徳川家康が征夷大将軍となる。千姫が豊臣秀頼のもとへ嫁ぐ。
   池田輝政の二男忠継に備前国28万石余が与えられる。
1606年 ・ 慶長11年 池田輝政が江戸城の修築工事に従う。
1607年 ・ 慶長12年 池田輝政が駿府城の修築工事に従う。
1608年 ・ 慶長13年 池田輝政が丹波篠山城の築城工事に従う。
1609年 ・ 慶長14年 姫路城の大天守が完成する。
1610年 ・ 慶長15年 池田輝政の三男忠雄に淡路国6万石余が与えられる。
   池田輝政が名古屋城の築城工事に従う。
1611年 ・ 慶長16年 豊臣秀頼が上洛し、二条城で徳川家康と会す。(輝政は秀頼に付きそう)
1613年 ・ 慶長18年 池田輝政が死去。長男利隆が姫路城主として42万石を継ぐ。
1614年 ・ 慶長19年 大坂冬の陣

補強がなされた大坂城は、まさに難攻不落の城郭でした。冬の陣では軍事施設としての能力を十分に発揮した城郭の攻防戦となりましたが、講和のあと、防御線を破壊された大坂城での籠城はありませんでした。

1615年 ・ 元和元年 大坂夏の陣。一国一城令が出される。

大坂城の豊臣氏を滅ぼして、徳川の覇権が確立した段階で、大名が領内で有する城郭を居城一つに制限するという指示が出され、江戸幕府によって管理・統制される対象としての近世城郭が、これ以後定着します。

   幕府が武家諸法度を定める。(新城の禁止と城郭修理の届け出を指令)
1616年 ・ 元和2年 千姫が桑名城主本多忠政の息子忠刻のもとへ再嫁する。

徳川秀忠の娘(母はお江)として、豊臣秀頼のもとへ嫁ぎましたが、大坂の陣で秀頼と死別し、再婚した本多忠刻[ほんだただとき]のもとでの新生活が姫路城で始まります。この時、夫妻のために西ノ丸が整備されました。

1617年 ・ 元和3年 本多忠政が姫路城主となる。千姫も忠刻とともに姫路城に入る。
1618年 ・ 元和4年 本多忠政が船場川を改修して舟運を開く。船場川沿いに材木町を集める。
1619年 ・ 元和5年 幕府が広島城の無断修理を理由に、福島正則を改易する。
   松本城から移った小笠原忠真により明石城の築城工事が始まる。
1623年 ・ 元和9年 千姫が男山に天満大自在天神の木像を祀る。(西ノ丸から遙拝)
1626年 ・ 寛永3年 本多忠政が姫路城大天守の初重腕木下に方杖の追補を行う。
   本多忠刻が死去し、千姫が江戸へ帰る。
1637年 ・ 寛永14年 島原の乱

原城に立て籠もった一揆勢をようやくのことで打ち破った江戸幕府は、古城が戦闘に利用されたことを懸念し、更なる「城わり」を徹底させました。島原の乱の後は本格的な軍事衝突はなく、実戦体験の風化が進んでいきました。

1644年 ・ 正保元年 幕府が諸国の国絵図ならびに城図を作成・提出させる。

江戸幕府は国絵図の作成とともに、全国の城絵図の提出を各大名に求めました。今日まで現存する正保城絵図がそれで、曲輪や堀の規模や天守・櫓の図示など、全国共通の仕様で城郭の主要な軍事情報の掌握を図りました。

1648年 ・ 慶安元年 赤穂に入った浅野長直が、軍学理論をもとに城の改修工事を始める。
1652年 ・ 承応元年 榊原忠次が姫路城内備付の塩を点検する。総社に石鳥居(現存)を献じる。
写真総社参道の石鳥居【総社参道の石鳥居
1656年 ・ 明暦2年 榊原忠次が姫路城大天守の東西大柱根元部分の修理を行う。

姫路城天守は2本の大柱が中央を貫き、重層建築の内部構造を固めていました。築城後50年を経過して、大柱の根本を補強する大きな修理が行われたことが判ります。

姫路城大天守の東大柱(根本部分)/当館:城展示室 姫路城大天守の内観模型/当館:城展示室

【左:姫路城大天守の東大柱(根本部分)
当館 城展示室】

【右:姫路城大天守の内観模型
当館 城展示室】

1657年 ・ 明暦3年 明暦の大火で江戸城天守が焼失する。(以後は再建されず)

日本最大の天守として徳川将軍の権威を誇示。以後、江戸城に天守が無い時代が続きますが、城郭と天守の関係が見直される機会となりました。

江戸城天守模型/当館:城展示室【江戸城天守模型/当館:城展示室
1659年 ・ 万治2年 姫路城下/本町 但馬屋九左衛門方の元手代 清十郎が刃傷事件を起こす。(お夏・清十郎)
1687年 ・ 貞享4年 本多忠国が、姫路城大天守に支柱を加え、屋根修理も行う。
1701年 ・ 元禄14年 赤穂の浅野家が改易される。本多忠国が冑山神社を建立し、社領を寄進する。
1741年 ・ 寛保元年 榊原政岑が江戸吉原の高尾大夫を落籍し処分を受ける。
1743年 ・ 寛保3年 松平明矩が姫路城大天守に筋交及び支柱を入れる。(傾きが止む)
1749年 ・ 寛延2年 酒井忠恭が姫路城主となる。城下の水害に家老の川合定恒が迅速な対応。

この時、逃げてきた人々を姫路城内にまで避難させたという逸話が残されています。また、溺死者を弔う菩提碑(現存)が市川左岸の山脇に建てられました。

寛延2年の洪水での溺死菩提碑 同菩提碑/左側面:被害者数

【左:寛延2年の洪水での溺死菩提碑】

【右:同菩提碑/左側面:被害者数】

   総社門脇に藩校「好古堂」を開校する。景福寺を現在地に移す。
1762年 ・ 宝暦12年 姫路城下の橋元新町・小姓町の年貢を改め、地子銀を徴する。
1773年 ・ 安永2年 酒井忠以が外堀の曲がり角に杭を打ち、転落防止の手すりを設けさせる。
1799年 ・ 寛政11年 酒井忠道が酒井氏の姫路入封50年の祝賀を姫路城内で行う。
1809年 ・ 文化6年 酒井忠道が義倉法の建議に応じて、「固寧倉」を領内に置く。

姫路領内に置かれた飢饉[ききん]対策のための貯穀施設。倉の名前は、中国の『書経』にある「民は惟[こ]れ邦[くに]の本[もと]、本固[かた]ければ邦寧[やす]し」に由来します。

野里[のざと]の固寧倉【野里[のざと]の固寧倉
1816年 ・ 文化13年 藩校「好古堂」を大手下馬先に移し、規模を拡大する。
1820年 ・ 文政3年 姫路藩経営により東山焼の窯を男山麓に移し、陶器所を開く。
1822年 ・ 文政5年 陸奥国南部産の馬を姫路城内の勢隠に放牧させる。(有事の物資運搬に備える)

内堀を挟んで、姫路城が立地する姫[ひめ]山と鷺[さぎ]山の北麓に長く延びる曲輪[くるわ]。軍勢を隠す予備の空間ですが、様々な用途で使われました。

姫路城の勢隠【姫路城の勢隠】
1846年 ・ 弘化3年 酒井忠宝が飾磨築港を起工する。
1849年 ・ 嘉永2年 幕府が松前藩(蝦夷地)と福江藩(五島列島)に新城構築を許可する。
1850年 ・ 嘉永3年 姫路藩が家島及び室津に砲台を築く。
1853年 ・ 嘉永6年 ペリー(アメリカ)が黒船4隻を率いて浦賀に来航する。
1857年 ・ 安政4年 箱館に五稜郭の普請が始まる。
1865年 ・ 慶応元年 酒井忠績が幕府の大老に就任する。
1868年 ・ 明治元年 鳥羽・伏見の戦い。その後、岡山藩兵が姫路に進駐・対峙。1月16日に姫路城を開城。
1871年 ・ 明治4年 廃藩置県。播磨国16郡で姫路県(飾磨県に改称)が成立する。
1873年 ・ 明治6年 全国の城郭を陸軍省管轄の存城(姫路城を含む58城)と大蔵省管轄の廃城に分ける。

陸軍の所轄地に利用される城郭は、城地としての存続を認められ、そうでないものは「廃城」に分類され、不要となった城郭部分の払い下げも行われました。ともに、旧施設の維持管理は難しく保存は望めませんでした。

1874年 ・ 明治7年 大阪鎮台歩兵第10連隊の姫路駐屯が決まり、1個中隊が派遣される。
1876年 ・ 明治9年 飾磨県庁を旧本城(三ノ丸)から城外の薬師山に移す。
飾磨県庁/のちに姫路病院となる【飾磨県庁/のちに姫路病院となる】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
   飾磨県を廃し、兵庫県に合併される。
1877年 ・ 明治10年 西南戦争。西郷軍が熊本城を包囲・攻撃するが落城せず。
1878年 ・ 明治11年 陸軍大佐中村重遠が姫路城・名古屋城の保存を上申する。

全国の中で比類のない構造の城郭として、名古屋城と姫路城の修理費用を陸軍卿の山県有朋[やまがたありとも]に上申した中村大佐の働きにより、営繕の手当てが施されることになりました。

1882年 ・ 明治15年 姫路城の備前丸が火災で建物を焼失する。
1889年 ・ 明治22年 姫路の市制が施行される。
1894年 ・ 明治27年 播但鉄道(姫路~寺前間)が開通する。
1896年 ・ 明治29年 陸軍第10師団が姫路に創設される。(旧中堀以内に軍用施設が集中する)
陸軍第10師団司令部【陸軍第10師団司令部】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
1904年 ・ 明治37年 日露戦争が始まる。
1908年 ・ 明治41年 白鷺城保存期成同盟会を組織し、姫路城の保存修理を請願する。
1910年 ・ 明治43年 姫路城に明治の修理が行われる。(翌年に竣工)

工事用の桟橋[さんばし]は、足場の組まれた天守の東面から喜斎門[きさいもん]の前へと伸びています。この本格的な修理によって、姫路城が経年の荒廃からようやく体面を整えることになりました。

姫路城の明治修理 【姫路城の明治修理】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
1912年 ・ 大正元年 姫路城(本丸・二ノ丸以内)の無償貸下が姫路市に認められ、姫山公園とともに公開される。
1919年 ・ 大正8年 城内の勢隠に豊臣秀吉銅像(台座は現存)を建てる。
豊臣秀吉銅像【豊臣秀吉銅像】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
1925年 ・ 大正14年 歩兵第10連隊(岡山へ移動)跡地の保存のため、姫路城勝地保存期成同盟会を結成する。
1928年 ・ 昭和3年 「史蹟名勝天然記念物法」により、姫路城の6万坪余の土地が史蹟に指定される。
   姫路城の管轄が文部省に移る。
1931年 ・ 昭和6年 「国宝保存法」により、姫路城天守9筆が国宝に指定される。(同年、櫓・門・塀も追加指定)
   大阪城の天守閣(鉄筋コンクリート製)が建てられる。
1932年 ・ 昭和7年 国道2号線の改修のため、埋門から総社門までの中堀を埋立てる
埋立工事中の中堀【埋立工事中の中堀】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
   姫路城内の公開範囲を拡げる。(西ノ丸を含む菱ノ門以内を加える)
1934年 ・ 昭和9年 築城600年記念式を三ノ丸広場で行い、お城まつりを催す。
   豪雨により西ノ丸長局の一部が石垣とともに崩壊し、文部省直営の修理が始まる。
1937年 ・ 昭和12年 松竹キネマのロケーション中、誤って「ろ」ノ門の一部や土塀・石垣を爆破する。
   姫路城内の松に松喰虫が発生し、被害が出る。(松苗の植樹)
1941年 ・ 昭和16年 試みに擬装網を姫路城大天守の第5重に施す。(翌年には天守全体へ)

約6ミリの藁縄を墨で染め、3センチ程度の網目でこしらえた擬装網で、防空の配慮から姫路城の白壁を目立たないように隠しました。

擬装網を施された姫路城天守【擬装網を施された姫路城天守】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
1943年 ・ 昭和18年 姫路城西ノ丸の諸櫓、及び「は」「に」両門の屋根目地漆喰に対し、古色塗りを施す。
   防空避難壕を姫路城内に掘る。
1944年 ・ 昭和19年 姫路城内に防火用の貯水池を掘る。中村重遠大佐の顕彰碑(現存)を建てる。
1945年 ・ 昭和20年 7月3日の空襲で姫路市内が焦土と化すが、姫路城(菱ノ門以内)は被害を受けなかった。
瓦礫と化した市街地と無傷の姫路城【瓦礫と化した市街地と無傷の姫路城】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
   罹災者を西ノ丸に収容する。
   終戦。姫路城の擬装網を撤去する。
1947年 ・ 昭和22年 姫路城三ノ丸に野球場及び相撲場をつくる。
姫路城内/三ノ丸の野球場【姫路城内/三ノ丸の野球場】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
1949年 ・ 昭和24年 白鷺城修築期成同盟会が結成され、国庫補助の請願を行う。
1950年 ・ 昭和25年 中断していた姫路城保存工事が再開される。姫山公園に電灯設備。
1951年 ・ 昭和26年 「文化財保護法」により、姫路城の天守が新「国宝」に指定される。
1955年 ・ 昭和30年 姫路城と姫路駅を結ぶ大手前通りが完成する。

建設中の大手前通り【建設中の大手前通り】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)

1956年 ・ 昭和31年 姫路城大天守等の解体修理工事が本格的に始まる。

素屋根で覆われた天守の南面から三ノ丸へ、工事用の桟橋が付けられました。この修理では天守を全て解体、地盤調査とコンクリート基礎の施工のあと、新材を加えて再度組み上げるという大規模なものでした。

姫路城の解体修理工事/昭和30年代【姫路城の解体修理工事/昭和30年代】
※当館蔵(高橋秀吉コレクション)
   姫路城跡が特別史跡となる。
1959年 ・ 昭和34年 姫路城大天守の立柱式が挙行される。
   木曽谷の檜材と笠形山の檜材が新しい西大柱として搬入される。
姫路城大天守の西大柱の搬入/木曾檜 姫路城大天守の西大柱の搬入/笠形神社檜
※ともに当館蔵(高橋秀吉コレクション)

【左:姫路城大天守の西大柱の搬入/木曾檜】
【右:姫路城大天守の西大柱の搬入/笠形神社檜】

1960年 ・ 昭和35年 姫路城大天守の木組み作業を終え、上棟祭が挙行される。
1964年 ・ 昭和39年 姫路城天守群及び周辺建造物の保存修理工事が終わる。
1972年 ・ 昭和47年 山陽新幹線(新大阪~岡山間)が開通する。
1976年 ・ 昭和51年 特別史跡姫路城跡周辺での埋蔵文化財の本格発掘が始まる。
1983年 ・ 昭和58年 姫路城跡内に、兵庫県立歴史博物館と姫路市立美術館がオープンする。
1989年 ・ 平成元年 市制100年記念行事「姫路百祭シロトピア」が姫路城跡内で開催される。
1993年 ・ 平成5年 姫路城が法隆寺とともに、日本初の世界文化遺産に登録される。

連立式天守をはじめ、数多くの現存する門(15棟)・塀(32棟)・櫓(27棟)が国の文化財指定を受け、また、旧中堀の内側一帯が特別史跡として環境保全がなされています。まさに、強さと美観を備えた日本を代表する城郭と言えます。