館長就任以前、関西大学教授であった頃、韓国とベトナムの留学生から「先生の日」だからとメールやはがきを貰い、驚いたことがある。両国で月日が違っていたが、日本にはなく、儒教の本場中国にもなく、隣の二国に残っている慣習として、文化史的にとても興味深い日として想い起こされる。 

 生徒・学生が、担当する教諭や教授に敬意を表するのは、学校というシステムとも関わって十分に理解できるが、学校という場を離れても「先生」はいる。人の生涯を貫いて、先生はいる。それは「恩師」と呼ぶのがふさわしいのかもしれないが、本年2月22日、享年90歳で亡くなられた肥田晧三先生は、わたしにとってその一人である。

  昭和5年(1930)9月10日、大阪市南区鍛冶屋町(現在は中央区島之内)に生まれた先生は、道(どう)仁(じん)小学校を経て、高津(こうづ)中学に入学するが、後年、「結局、よう卒業しませんで。落第に落第を重ねて、9年行っていました」と鼎談で語る。また「青年時代に長く患いました」とも回想しているが、その闘病中に、戦前の大阪を代表する雑誌『上方』全151冊を手にして、雑誌記事索引を作成している。その経験は、後年、非常勤として勤務した大阪府立図書館(現中之島図書館)と関西大学図書館での古典籍の整理に役立ったというのであるから、まさに独学である。独学で、書誌学を我が物とされたのである。

雑誌『上方』67号川崎造幣局春景(筆者所蔵)

 その後、昭和49年(1974)、関西大学文学部教授に迎えられ、平成2年(1990)まで在職するが、昭和63年(1988)に主著『上方学藝史叢攷』(青裳堂出版)が刊行されている。わたしは入れ替わるように関大に着任したので、先生との接点はない。ところが15年後の平成17(2005)年から10年の間、同僚たちと取り組んだ大阪都市遺産研究―江戸から近代にかけて都市大阪が生み出した文化遺産を調査研究する―を通じて接点が生まれた。わたしたちのプログラムは、「せやさかい、私ら地図を見るということはほとんどありません」という地理感覚、「大阪の文学と風俗への関心は、年少時からの宿好」というキャリアを持つ先生に、一直線に向かっていたのである。訃報で新聞各社が紹介した言葉を引けば、「大阪の生き字引」としての先生に―。

 そして、いつの間にか私信を交わすようになった。初信は平成21(2009)年11月17日付の手紙で、わたしたちの依頼に応えて講演を受諾するとの返書であるが、冒頭、わたしの大阪地域史研究の本を読んで「澤山のお教えを蒙りました」とあることに一驚した。高名なこの先生にして、この謙虚さはなにか―と。いまにして思えばこの一文、わたしを大阪研究の門弟だと認めていただいた証と考えられ、その後、大阪藝能懇話会例会での肥田先生の発表を集めた『特集:肥田晧三座談―大阪の人と本』(2009)と『水市断章:わが大阪の記』(2019)を相次いで寄贈いただいた。この両書、口語調で書かれていながら、学術性が驚くほどに豊かなのである。こんな恩師、先生を措いてほかにない。

 講演は「大阪文化遺産学の流れ―大阪文化遺産学展観史―」と題するもので「私のいちばん好きなテーマ」と書かれているが、それは先生ご所蔵資料の開陳の機会でもあった。それもそのはず、先生は、大阪文化資料のコレクターとしても著名であった。

 その一面は、当館を代表する入江コレクションの所蔵者入江正彦氏(1932~2000)との交流にも現れている。開館20周年記念特別企画展として平成15年(2003)春に実施された「新世紀こども大博覧会」の図録に、館の求めに応じて先生は寄稿しているのである。それによれば二人の出会いは、先生のご著書『近世こどもの絵本集上方編』(岩波書店)が刊行された昭和60年7月の一ケ月前の6月、場所は大阪心斎橋大丸百貨店の古書即売会の会場。着物姿の先生を見かけた入江氏が、声を掛けられたのが始まりとある。子ども資料を通じて、昭和一桁生まれの収集家が出会った瞬間である。死の直前、先生は入江氏を病床に見舞っている。そこで「コレクションを公共に寄贈することを家族みんなが賛成してくれています」と話す入江氏に、先生は「どうかご安心下さい」と答えている。その「公共」が、わたしたちの兵庫県立歴史博物館であった。

 そこにわたしは館長として赴任した。平成26年(2014)4月のことだが、翌年度に開催した特別展「桂米朝とその時代」の図録を送ることで、久しぶりに先生から私信が届いた。

平成29年2月1日付肥田先生の私信

 

 それには冒頭、「先生が関西大学をあっさりとおやめになられたのにはビックリいたしましたが、直ちに兵庫県立歴史博物館長に御赴任なされましたことを仄聞して、うれしくおよろこび申し上げます」とある。そして「中川渉さんがそちらに転任なされましたとは、なにもかもうまく運ぶ時機が熟したのでございますね」と、舞台裏まで知った一文が続く。

 それもそのはず先生は、米朝師匠とご一緒に仕事をなされているのである。「昭和40年代半ば」と手紙にあるので、40歳前後のご両人と思われる。その後も一緒にテレビ出演されるなど、上方落語や寄席を通じて「長年にわたって御指導と御教示を給わりました」と記されている。車いす生活のため姫路に観覧には行けないと断りつつ、「入江コレクションが貴館に入りました時に何度か登館し、姫路城を臨む好位置の絶景を仰ぎ見ました」と結んである。出勤の度にわたしが眺める風景を、かつて先生も愛でておられたのだと知ることで、わたしの心は満たされる。

 昨年3月、コロナ禍ということもあり、お見舞いに紀州田辺の梅干しをお送りしたことへの返書を頂いたが、それが最後の私信となった。「書は人なり」というが、頂いた私信はすべて、わたしの宝物である。

 衷心より先生のご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。