朝夕、すっかり秋めいてきましたが、コロナ感染の中で迎えた三度目の夏――みなさんはどう過ごされましたか?わたしはどういう訳か、滝を三カ所、見物することになりました。判然とする理由も目的もある訳ではないのですが、しいていえば「コロナ感染を滝の力で禊ぎたい」ということでしょうか。実際、大小三つの滝の前に立てば、まことに気分は爽快でした。

水無瀬の滝

 最初は5月3日、妻の姪の子ども(小学四年生)を伴って水無瀬の滝へ。といっても地元の人にしか知られていない滝で、細い一筋の滝水が崖を流れ落ちています。滝壺も小さく、さらに下流へと落ちていくのですが、その上には名神高速道路が通り、たくさんの車が疾走していきます。そんな小さな滝でも竜神を祀るのか祠があり、休憩のためのベンチもあります。この地は後鳥羽上皇が営んだ水無瀬荘にほど近いということで、水無瀬の滝と名付けられ、「見わたせば山もとかすむ水無瀬川ゆふべは秋となに思ひけむ」を記した案内札が滝の傍にも建てられていました。

布引の滝

 つぎは8月22日の布引の滝。JR新神戸駅の近くにあり、駅舎をくぐり抜けると河原に出、さらに登ると10分も歩けばもう滝の前。あまりの近さに驚くほどですが、滝は一段と大きく、大きな滝壺からは二つ目の滝が流れ落ちています。上流の雄滝(おんたき)に対する下流の雌滝(めんたき)です。神戸市によって観覧場が設けられており、夏休み中の大学生のグループが複数、休憩していました。さらに登れば滝見茶屋がありますが、こちらは休店中。
 水無瀬の滝が後鳥羽上皇なら、一条の布が引くというこの滝は平清盛と繋がっています。清盛の供をして布引の滝見物に出かけた武将難波経房が、突如、黒雲の中から湧いた雷に打たれてと死んだという故事ですが、彼の手によって六条河原で処刑された源義平(悪源太義平)の怨霊が雷となって復讐したのです。滝には竜神が棲むという伝承が踏まえられています。折しも県立美術館で開会中のHeroes展には、月岡芳年の錦絵が出展されています。

 名勝としての滝は、歴史的な逸話にも恵まれていますが、その最右翼が養老の滝。まだ夏と言っていい季候の10月1日に訪ねました。
 JR大垣から養老鉄道に乗り換えて20分ほどで養老駅に着いたのですが、途中、駅から自転車で乗り込んでくる人がいたのでビックリ!!イギリス国鉄ならいざ知らず、日本の私鉄で、自転車の乗り込みが認められているとは驚きでした。

 日曜ということで駅から小型のバスが運行しており途中の松原橋まで。そこからはゴルフ場のカートのような電気自動車で上流の万代橋まで無料で運んでくれます。あとは整備された階段を歩くのですが、歩くこと10分ほどで目の前には勇壮な滝の音。滝壺の前に立つとしぶきが飛んできます。しばし動画で、豪壮さを味わってください。

 滝の前の巌は御幣で飾られ、周囲には大垣出身の詩人梁川星巌の碑文などが立ち、養老と改元される契機となった元正女帝の事績が記されています。女帝の滝行幸は霊亀3年(717)9月20日のことで、11月27日に養老と改元されました。「泉で手や顔を洗ったところ肌は滑らかになり、痛みも消えた。この水を飲んだり浴びたりすると白髪が黒くなり、髪が生え、目が見えるようになったということを聞き、天皇が天の賜り物に違いない、として改元された、との説明版が立っています。この話の原点には、滝の傍から湧き出ている酒を見つけ、酒好きの老父に献じた孝子伝説があります。
 先の二つの滝と異なるのは、ここが養老公園として整備されていることで、その起源は明治13年(1870)11月に遡ります。観光センターにはその経緯を示し、吉田初三郎の鳥瞰図と並んで昭和11年(1936)の案内図が展示されていましたが、滝の前には脱衣場が設けられ、「この時まで滝行ができた?」とコメントされています。
たしかに滝は古来、修行の場であり、単なる鑑賞の対象ではなかったのです。
 見る滝から打たれる滝へ・・・と思考は巡りますが、堂々たる滝流を見ているととてもとても打たれるなんて想像できません。