句をひねるのが好きで、その都度、携帯電話にメモしている。表題に掲げたのは、8月末、突然の訃報を聞いた日の朝に詠んだものである。

 介護施設に入っていた妻の叔母が83歳で亡くなった。海外出張をよくする私たち夫婦の影響で、生前、友人と赴いたドイツ旅行の思い出を話す時の表情がなんとも嬉しそうであった。その葬儀告別式のあった翌日、こんどは、堺鉄砲鍛冶屋敷井上関右衛門家の当主井上修一氏が亡くなった。享年79歳。館長に就任した翌年の2015年から、新発見の鉄砲鍛冶資料の調査に取り組むことで出会ったが、わたしどもの調査報告を聞いて2018年、先祖代々の家屋敷を堺市に寄贈するという大英断をされた人である。来年度に開館する堺鉄砲屋敷ミュージアムの発足を前にしての、無念のご逝去であった。

 また8月半ばに届いた満中陰のお知らせは、85歳で亡くなったわたしの教え子中井陽一氏の息子さんからであった。6月18日の葬儀には用務で行けないわたしに代わり妻が参列したが、若い友人たちが多数、見送りに集まった。中井さんは60歳代の折、関西大学大学院に進学し、わたしの許で博士学位を取得しているので、日頃、年齢の離れた友人と侃侃諤諤、議論を楽しんでいたのである。

 また8月のある日の新聞に、朝尾直弘京都大学名誉教授の訃報が小さく載った。亡くなられたのは7月初めで、人づてに聞いていたので驚きはないが、わたしの歴史学の師の一人で、その学恩は決して小さくない。享年90歳であった。直接の師である脇田修先生をはじめ、歴史学者としての薫陶を受けた先生方はほぼ鬼籍に入られ、寂しさが募る。

写真1 満中陰や葬儀会葬のお礼の表紙

 また8月には、ドイツの都市ケルンで急逝した野村享賢氏の一周忌があった。遠く離れていることから、妻のフランチェスカ・エームケさんにメールでお悔やみをしたに過ぎないが、その突然の訃報には驚いた。関西大学時代にエームケさんとご一緒して、オーストリアの第二の都市グラーツのエッゲンベルク城が所蔵する「豊臣期大坂図屏風」の調査・研究に励むことで、夫君のコーケンさんと知り合った。わたしとまったく同じ1948年の生まれ。送った青春時代の歳月は隠せなく、自然と親交は深まった。芸術家として活躍され、写真集「ケルン三十六景」は、市が買い上げる作品となったが、インスタレーションの作品も日独双方で見せてもらっている。昨年末、エームケさんから送られてきたカードの裏には「芸術の創造は私の人生であり修行の道です」との彼の言葉が記され、表には自書で「道」が記されていた(写真2)。それを眺めていると、質実剛健な彼の姿が目に浮かぶ。

写真2 道

 この夏の喪失感は、それだけではなかった。7月、15歳の少年の死が、博物館スタッフを通じてわたしの許に届いたのである。
 その少年の名は長田悠(おさだ・ゆう)君。昨年7月、コロナ禍のなかで奇跡的に行われた当館でのわく・ワーク体験に、同級生3名と一緒に歴史博物館に来ていた。姫路聴覚特別支援学校中等部から初めて受け入れた生徒たちであったが、館長室で自己紹介をしてもらい歓談する機会があったのでとても印象に残っていた。その彼の訃報が、学校を通じて届いたのである。
 彼には、他の生徒のように聴覚障害の状況が書かれていなかったのでいくらか不審に思っていたが、この度の訃報を通じて、幼少の身で悪性脳腫瘍と闘っていたことを知った。小柄で幼い顔立ちであったが、バスの運転手になるのが将来の夢だと語っていた。とりわけ楷書でしっかりとした字を書いているのが、強く印象に残った。初盆の仏壇へ心ばかりの供物を送ったところ、8月、彼の祖母から礼状を頂いた。達筆で、このおばあ様の薫陶を受けることで彼は、しっかりとした字を書くよう育ったのだろうと思った。
 お手紙には「大好きな歴史といっしょに働くことが出来る学芸員になることも夢のひとつでした」とある。「不思議な感覚を持ってまるで天使のような子でした」との一節には、難病と闘い続け、15歳で早世した孫に注がれた愛情の深さを見るようで、思わず涙してしまった。
 大学教授を長く勤めていたことから、若い人に出会うことは多い。不慮の死も経験している。しかし、こんな悔しい想いをしたことはない。博物館長になっていなければ、彼との出会いもなかった。

 この夏わたしは、とても大きな経験をしたようだ。

(付記)故人の氏名については、ご遺族の了解を得て記しています。