館長ブログ
2020年10月20日
刀と鉄砲と「たたら製鉄」
9月に二度、コロナ感染症対策をとった上で開催された講演会とシンポジウムに出席する機会がありました。奇しくもその双方に「鉄」が関係していたので、今月のブログは鉄について書きます。「固い」話ですが、お許しください。
まず一つ目は、堺市のさかい利晶の杜(郷土の偉人千利休と与謝野晶子に因む)で開催された企画展「蔵のとびらを開いてみれば~堺鉄砲鍛冶屋敷井上関右衛門家~」に関連する講演会。ここ5年間、堺市文化財課とともに調査に関わっている鉄砲鍛冶屋敷井上関右衛門家資料について、その成果を市民に公開するという機会です。
この井上関右衛門家、日本で唯一、現存する鉄砲鍛冶屋敷であるとともに、江戸期の鉄砲生産と取引の実態を示す2万点余の史料を所蔵していることで近年、大きな注目を浴びています。新聞はもちろん、テレビ・ラジオでも頻繁に取り上げられていますので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
当日わたしは、「ここまでわかった!堺の鉄砲鍛冶を支えた人々」と題し、昨年、新出した鉄砲鍛冶下職の「通い帳」の内容を紹介しました。その結果、鉄砲造りは、鉄炮鍛冶を中心に台師・金具師・玉鋳型師・象嵌師などの下職を加えた分業で成立ち、井上家の周囲に小さな工場団地を形成していたことがわかったのです。
いま一人、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館研究部教授の斎藤努氏が、「科学の眼でみる火縄銃の銃身」と題し、ビデオ講演を行いました。斎藤氏は金属工学という理系の研究者ですが、その分析方法を銭貨・日本刀・鉄砲などに応用し、『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012)という著書を著されています。とくに注目されるのが、ともに「たたら製鉄」で作られた和鉄を鍛造して成型する日本刀と鉄砲(火縄銃)の共通性と違いです。
斎藤氏によれば鉄は、炭素濃度によって硬さが決まり、濃度が濃い方が鉄は固くなる。また炭素濃度が高いほど低い温度で溶けるので、加工しやすいそうです。炭素濃度約2パーセントが基準で、それ以下のモノとして鋼(はがね)と軟鉄(形状から包丁鉄)があり、それ以上のモノを「銑鉄」、あるいは鋳造に使用する鉄という意味で「鋳鉄」、あるいは銑といいます。日本刀はもちろん「鋼」を原料として使用しますが、異なる炭素濃度の鋼を組み合わせ、軟らかめの鋼を硬めの鋼で包み込むようにして造り、最後に「焼き」を入れることで出来上がります。
日本刀の原料である「鋼」などの和鉄を得る工程、すなわち「たたら製鉄」に関するシンポジウムが二つ目の機会でした。というのも、当博物館に2015年併設された「ひょうご歴史研究室」から本年3月、『近世播磨のたたら製鉄史料集』が刊行され、それを記念するシンポジウムが当館ホールで開催されたのです。そこでは研究員の土佐雅彦・笠井今日子・大槻守の三氏の報告を聞き、その後、村上泰樹研究員とわたしが進行役として議論しました。
中国山地には真砂鉄が豊富に含まれ、そこから鉄を得るために6世紀中葉以降、「たたら製鉄」の技法が各地で蓄積され、16世紀以降「鉄穴ながし」と「床釣り」技法を得ることで確立したといいます。たたら製鉄遺構が残る地として有名なのは広島・島根・鳥取の三県ですが、西播磨を含む兵庫県も「たたら製鉄」地帯に属します。その歴史を解明しようと、たたら製鉄研究班が置かれたのです。
固い鋼を得る技術の進展は、平安・鎌倉時代以降、日本刀の名工を生み出したのですが、さらに16世紀半ば、鉄炮が伝来することで、その国産化を成功に導きました。その意味で「たたら製鉄」の威力は絶大です。
しかし斎藤さんによると鉄砲の丸い銃身を造るには、硬い鋼でなく、炭素濃度の低い、0.2パーセント以下の軟鉄・包丁鉄が必要だそうです。しかしそれは鋼のように一度の工程で得られず、炭素濃度3~4パーセントの銑鉄(銑)をまず造り、さらに製錬する―脱炭する―ことで大幅に炭素濃度を減らした軟鉄・庖丁鉄を得る工法が編み出されました。その技法は「大鍛冶」と呼ばれています。
前近代の製鉄工程である「たたら吹き」は現在も、日本刀の刀匠に材料である鋼を提供する目的で続けられていますが、大鍛冶の技術は失われて現存しないそうです。それは軟鉄・庖丁鉄の需要がなくなったからで、堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門家が明治20年代には営業を止めているのは、それに関係しているようです。そこで斎藤さんたちは大鍛冶を復元し、庖丁鉄から鉄砲の銃身を作る技術の再現を目指しています。
なお『播磨のたたら製鉄史料集』は非売品ですが、ひょうご歴史研究室のホームページに全文、掲載されていますので、関心のある方はご覧ください。