8月半ば、丹波篠山で若者たちと二日間、調査をともにしました。大学に勤めること40年、その間には毎年、20歳過ぎの若者を迎えては送る日々を送っていましたが、大学の定年退職とともに、その機会が途絶えました。兵庫県立歴史博物館館長への異動は、その始まりでもあり、この間10年、フツーに学生に会い、フツーにワイワイ話す、という場と機会がなくなったのです。

 別段、それは取り立てていうほどのことではないのでしょうが、実際に2日間、学生諸君と一緒に調査し、朝夕、食事を共にすることで、昔の日々が蘇ってきました。わたしの身体が、学生との日々を覚えていたのです。わが家に帰って妻に、興奮気味に話すことで、それに思い当たった次第です。

 さてその場は、こういう風景でした。丹波篠山市の中央図書館の一室に、神戸大学・関西大学・同志社大学・京都大学の現役学生13名(院生を含む)が集まり、3日間の日程で、市史編さん委員3名の指導の下、古文書調査に取り組んだのです。近世編の部会長としてわたしも参加しましたが、一日遅れての参加のため、別の場所に陣取り、調査の進捗を見守りました。古文書調査の経験がある学生もいるため、史料カードを取り、撮影する作業はきわめてスムーズに進んでいました。

 とくに「よそ者」の学生諸君が、地元の古文書整理サポーターの方々と一緒に作業することで、地名や人名にヒントを得、自分の関心を広げる機会となっていたことは、終了後のアンケートからも窺えます。大学でもいっぱい学ぶでしょうが、教室で、また座学で得られない貴重な学習機会ともなっているのは嬉しいことです。と同時に、全員で泊まったホテルでの夕食時の歓談は、往時のゼミコンパを思い出させてくれました。
 彼らが手にするのは、篠山藩主青山家に伝来した大名文書なのです。6万石の譜代大名で、老中や大坂城代を歴任した家柄だけに、質量ともに半端ではありません。しかしながら、なにせ古いものでは350年前に書かれたものもあり、簿冊には虫食いの跡が残り、雨で濡れたことで固着してしまって開閉がままならないものが少なくありません。だが、関東大震災も東京大空襲も乗り越えて、東京赤坂の青山邸から、戦後、篠山市(当時)に運ばれてきた経緯を考える時、なんとしても後世に伝えたい史料群です。

 保全に向けた整理と調査を、丹波篠山市史編さんを契機に行いたい、ということで昨年度から始まった作業ですが、問題は人手。そこで学生諸君の力を借りることになったのですが、そこで待っているのは、「好きこそものの上手なれ」の世界。

 彼らが手にする史料と史料カードを一部、紹介します。この作業をするためには、古文書に特有の崩し字が読めないといけません。したがって事前に基礎を備えていることが求められますが、しかしなによりも大事なのは、興味・関心です。

 虫が食った古文書を「汚い」「ゴミ」と思わずに、古い記録に、何が書いてあるか知ろうとする気持ちです。扱う資料は「日記」なので、まずその日の天気が分かるか、誰が、どこで書いたのか、を知るように勧めます。

 調査時に生じた疑問や分からないことは傍にいる編さん委員に問い、また議論することで解決していくのですが、そのスピードもまた、若さの象徴です。調査日ごとに、各人が自分の作業を報告し、それを共有することで、彼らは江戸時代の大名家や丹波篠山の歴史について認識を深めていきます。

 こうした場は、わたしが学生であった時代から始められ、いまに続いているのです。その意味で彼らの姿は、50年前のわたしの姿でもあります。

 博物館に陳列される資料にも、こうした過程が必ずあるのですが、どうしても作業が個人的になります。集団で、ワイワイガヤガヤ議論しながら整理する機会は縁遠くなります。


だが市史編さんは違います。それを楽しみにわたしはこれまで数多くの市史を引き受けてきましたが、令和2年度に始まった丹波篠山市史編さん事業でまた、若者と過ごす機会を得ています。

 名産黒豆が、あちこちに植えられています。10月はその収穫が始まり、丹波篠山は観光シーズンのピークを迎えます。