好きな句で、いろいろな機会に引いてきました。種田山頭(たねださんとう)()の句として、よく知られてもいます。

 村上護『山頭火句集』によれば、大正13年(1924)に禅門に入り、得度して、熊本県鹿本郡植木町の観音堂の堂守となった翌年四月、「山林独住に倦み、一鉢一笠の行乞放浪の旅にでる。その第一句」とあります。当時44歳ですが、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と注記されています。「年譜」には、実家の破産や父の死、みずからの神経衰弱症、妻子との別れなどが記されているのですが、その「惑ひ」を想像することは困難。それなのに何故か、惹かれます。「前を向いている」という姿勢に共感する部分もあるのですが、とくに結句の「青い山」がいい。

 そんな瞬間があったのかと自問自答して、思い出したのが今年1月、洲本市立淡路文化史料館のスタッフに案内されて千光寺に登った時のこの風景。真冬なのに、目の前には青い山が連なっていました。標高448メートルで、修験道の行場であった歴史を持ちます。こうした里山が、山頭火の前に連なっていたのではないでしょうか。

写真1 千光寺から見た「青い山」

 さて今回、この句を思い出したのは企画展「斎藤畸庵」を見たからです。山水画一筋に画業を貫いた彼の作品群を眺めていると、場所を変え、季節を変えて「山色水光」を描いた作品がなんと多いことか。図録のなかで、畸庵は「煙霞痼疾(えんかのこしつ)」を患っていたと指摘されているのももっともと納得します。

 この難しい言葉について漢和辞典は、「煙霞」とは「山水のよい景色」で、山水を愛する心が非常に強いのを「煙霞痼疾」「煙霞癖」というとして、「煙霞療養」なる語も載せています。

 自らそれを告白した詩人がいます。大分県日田出身の儒学者・漢詩人広瀬(たん)(そう)

 「卜居」という、新居に引っ越した経緯を詠んだ五言の詩でこう言います。

 我に煙霞疾(えんかのしつ)有り (しか)れども名利に縁無し

 既に楽郊の居を(ぼく)したれば (まさ)(せき)(じん)(かん)を学ばんとす

ともかく私には、美しい山水を異常に愛する病癖こそこびりついているが、世俗的な名誉や利益との腐れ縁は全くなく、こうして今、心安らかな楽天地に住居を定めたからは、かの高徳な隠者のくつろいだ生活をまねたいものである。

 この新居、文化14年(1817)2月に竣工し、引っ越して名付けたのが遠思楼(えんしろう)。のちに出る詩集のタイトルとなっています。その後、傍に旧塾舎が移転しますが、それが私塾として名高い咸宜(かんぎ)(えん)。淡窓先生36歳のことで、以後、その下で多数の俊英が学びました。

 大分県の日田といえば天領水で有名ですが、咸宜園の跡は昭和7年(1932)、国の史跡に指定されてこれまた著名。現在では日本遺産「近世日本の教育遺産群」として活用され、その周囲には、淡窓先生をはじめとする墓碑群とともに、新築の咸宜園教育センターが立っています。

 写真は令和2年11月に、同センターを訪れた時のもので、市街中央を流れる三隈川を、淡窓先生はこう詠んでいます。「十里清江藍不如」-十里の清江 藍も如かずとは、なんと絵画的ではないでしょうか。

 そんな淡窓先生の「煙霞疾」を代表する作品があります。淡窓七絶(七言絶句)中の傑作「彦山」。標高一一九九メートルの英彦山を詠んだ作です。

彦山の高き処 望 氤氳(いんうん)  (ぼく)(まつ) 楼台 晴れて始めて分かる

日暮 天壇 人去り尽くす  香煙 散じて数峰の雲と()

ここ彦山の高いあたりはどちらを眺めても雲霧が立ち込めて何一つ見えなかったが、やがてその雲霧が晴れるにつれて、やっと木々のこずえと権現の高い本殿とが、はっきりと見分けられるようになった。

ところが日暮れになり、拝殿から参詣人たちがすっかりと立ち去って静寂に戻った時、見れば、拝殿から立ち上っていた線香の煙が四方に散らばって、いくつかの峰々にたなびく雲となっていた。

 山の景色の動いている様が見事に表現されています。もしそれを絵画にしたら、どんな作品が生まれたでしょうか。

畸庵の作品には、つねに漢詩が添えられています。「詩」と一緒に「絵」を味わう―それが山水画鑑賞の極意かもしれないと思う次第です。

  (注)詩の訓みと訳は、江戸詩人選集九『広瀬淡窓・旭窓』岡村繁注(岩波書店)によります。