ひょうご五国という言い方が馴染んできました。摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の旧国名をさしていますが、それが基礎となって150年前、新生兵庫県が生まれたことを意識した表現です。しかし日本海も瀬戸内も大阪湾にも面し、また広大な山間部を抱える県だけに、その地その地の風土が異なれば、人々が作り上げてきた歴史文化遺産も異なります。そんな個性豊かな歴史文化遺産と博物館が繋がることを、わたしは強く願っています。

 先月の話題、加古川での「綿まつり」もその一つですが、それに続けて11月末、播磨の北部、鳥取との県境に近い宍粟(しそう)波賀(はが)町に森林鉄道の遺構を訪ねる機会がありました。地域の遺産である森林鉄道跡を活かした町づくりを進めている波賀元気づくりネットワーク協議会(会長松本貞人氏)の有志が案内してくださり、産業遺産学会の横山悦生会長(名古屋産業大学教授)らとともに視察を楽しむことができました。

 宍粟市の中心部を過ぎ、伊和神社から安積、さらに国道29号線を北上して波賀町域に入ると気温がグッと下がり、さらに(おん)(ずい)に向かうと道は渓流に沿って登っていきます。そこに待ち合わせの「道の駅はが」がありました。地図には音水森林県立自然公園とあり、盛夏ならば渓流添いのハイキングにもってこいの景勝地ですが、そんな場所に森林鉄道-といってもそれは現代風の命名で、当時は木材を運ぶトロッコ線路―が残されているのです。

季節は冬の初め、国有林の中の広葉樹はすべて落葉し、姫路の天気予報と異なり、霧雨が降っています。雨カッパを身につけての出発ですが、さらにヘルメットと墜落制止安全帯ハーネスを協議会に用意していただいていたのです。ハーネスの名は知っていましたが、実物を身に付けるのは初めて。緊張感が高まります。

 10時に「道の駅はが」を出発し、音水の駐車場を経て林道の終点まで車で移動。10時45分、いよいよ出発です。協議会によって設けられた階段を降ると、渓流に走る線路跡が見え、そこから視察は始まりました。

 トロッコ線路は渓筋をジグザグに進み、高度を稼いでいるので、わたしたちもその跡を追いかけます。第一橋梁・第二橋梁と上っていくのですが、橋桁に線路が残っている場所と、崩れてしまっている場所が混在します。橋桁のない地点では渓流を渡るのですが、登山靴のメンバーには、長靴を代わる代わる貸与してもらうという特別の計らいがあり、お蔭で登山足を濡らすことなく渡渉できました。

 一方、橋桁の残っている場合には線路の上を進むのですが、高度が上がると枕木のないレールの上はまさに“冒険”。幸いハーネスに守られ、レンジャー部隊宜しく渡渉できましたが、人生初の体験です。

ハーネスを付けて橋梁を渡る

 長靴といい、ハーネスといい、「安全に、森林鉄道跡を体験してもらいたい」と願う協議会の方々の想いに胸を打たれます。

 トロッコ線路は途中、トンネルを抜け、大きな岩盤を刳り抜いた切通を貫通し、次々と橋を渡り、第10橋梁、通称高橋に至るとそこがゴール。よくぞ、これだけの構造物を、こんな山中に築き上げたものだ、と驚くほかありません。

ゴールの第10橋梁、通称“高橋”

 近くの作業場跡で昼食となったのは午後1時半、約3時間の行程です。線路跡も見事ですが、途中に見上げる雑木林、苔むす川原、渓流の音など時間の発つのを忘れています。

 帰路は近道を使ったことでアッという間の下山でしたが、オマケがありました。協議会では現地の森林鉄道跡と並んで、当時の輸送を復元するべく町内の公園にミニ鉄道を敷設し、機関車を備えているのです。童心に帰って運転させてもらいました。

 この森林鉄道、建設は大正5年(1916)に始まり、つぎつぎと支線を伸ばし、戦後には大鉄道網になった由。戦後に復活する国民生活の需要を受けて建築用木材が大量に必要となったことがその主な要因です。しかし輸入が本格化された外国産材に、国産材が取って代われたことにより相次いで廃線となり、昭和43年にピリオドを打ちます。ほぼ半世紀の営業でした。一つ谷筋を隔てた引原川沿いの山には炭焼き窯とたたら製鉄の跡が残っているそうですが、わたしたちの戦後の生活史が、西播磨の山間部に繋がっていることを教えられた一日でもありました。

 なお協議会では、古写真を満載したパンフレット『波賀森林鉄道ものがたり~山がにぎやかだった頃~』を発刊しています。頒価1000円です。