館長ブログ
2022年8月19日
八十八ヶ所霊場を巡る ~真夏の遍路~
7月下旬に土佐と讃岐の札所霊場を巡る機会があった。地元高知の中土佐町と香川の宇多津町に住む教え子が、車で廻ってくれたのである。「教え子」と言ってもわたしの30歳代、京都橘女子大学に勤めていた頃の学生である。卒業後、現地で再会したことから連絡し合い、しばしば現地での運転手を買って出てくれている。今回もその流儀で依頼したが、二人とも快諾してくれて真夏の遍路となった。この暑さの中、歩き遍路を見かけることは皆無、バスによる集団参拝もなく、ほぼわたしたちだけの静かな参拝となった。
四国四県が共同で進めている「四国八十八箇所霊場と遍路道」世界遺産登録推進協議会(2010年設立)の下にある部会の委員を10年近く務めている関係から、会議の前後に、霊場や遍路道を視察する機会がある。とくに霊場が24ある徳島県―「発心」の阿波とされる―には、平成20年代に遍路道と札所寺院の基礎調査が開始され、その調査検討委員会に参画していることから、視察した寺院の数は一番多い。霊場の傍にうどん屋が多いことを知ったのはこの時で、腹ごなしのいいうどんは道を急ぐ遍路にピッタリ。遍路者への接待として、家々で茹でたてのうどんが提供されたのが、あちこちのうどん屋の始まりではないか、と楽しい連想をすることもあった。
それと比較すると霊場16の高知、26の愛媛、22の香川に足を踏み入れる機会は必ずしも多くない。だから会議や旅行などの機会があれば、その途次に、霊場に寄るのを習慣にしている。今回の高知・香川行もその一つで、先に高知の霊場を二か所、帰りに香川の霊場を二か所、廻った。四国八十八箇所霊場でいえば「修行」の土佐と「涅槃」の讃岐である。
土佐和紙で知られるJR伊野駅で待ち合わせて向かったのは35番清滝寺。四国自動車道を潜ると、左右に文旦が実る参道、八丁坂を一気に上がる。対向車が来たらどうする?と話していると果たしてジープとバッタリ。幸い、曲道で互いに譲り合ってなんとか通過、山腹の駐車場に着いた。百日紅の老樹越しに本堂が立つ(写真1)。脇の手水で手を洗うとその冷たいこと。弘法大師が修行の途次、杖を突くと岩間から清水が湧きだしたという故事を想起させるに十分である。歩き遍路にとって、コンコンと湧く清水は「命の水」であろう。
清滝寺から下ると仁淀川沿いに36番青龍寺に向かう。目の前に太平洋が飛び込んでくる。山と川と海、それが織りなすさまざまな景観が四国遍路の醍醐味だろうと思う一瞬である。浦の内湾に掛かる宇佐大橋を渡ると青龍寺。駐車場に車を置いたのは午後3時頃。三人揃って山門を潜り参道を見上げた瞬間、一斉に声を挙げた(写真2)。光と影のコントラストの美しさに打たれたのである。その後はしばし無言。蝉の声もなく、静寂が参道を覆っている。ここもまた空海が密教の奥義を受けた長安の青龍寺を、日本にも立てたいと願って独鈷を投げ、それが海を越えてこの地の老松に刺さっていたという伝承をもつ。しかし遍路にとってはなによりも、目の前の厳かな光景である。歩き疲れた身体で見た時の感動は、わたしたちの比ではないだろう。傍にいた妻が「わたしもいつか歩き遍路をしてみたい」とこぼすではないか。
大雨の日を挟んだ翌日、香川の霊場に向かった。出迎えの地がJR宇多津駅であったことから、78番郷照寺と77番道隆寺の二カ寺を逆に打った。二日前と大きく違うのは平地にあることで、アップダウンがない。しかも道は舗装されている。その分、木陰がなく、汗がしたたり落ちる。郷照寺に至る遍路道が宇多津の旧市街を走っているというので、途中から車を降りて歩いてみた(写真3)。港町の浜通には古町との名称が残り、和風の民家も健在。さらに善根宿の看板も見え(写真4)、正真正銘の遍路道である。住民の生活道路が、遍路さんの道でもあった。車道の両脇には歩道が設けられ、小学生の女の子が二人、かき氷を食べながら過ぎて行った。
郷照寺のあと、丸亀市街を抜けて道隆寺へ。城下町丸亀には、なぜか札所がない。丸亀といえば金比羅参詣の起点なので、それとの棲み分けだろうが興味深い。77番道隆寺は地元の領主和気道隆の開基で、その子朝祐が唐から帰朝した空海に頼んで彫ってもらった薬師如来を本尊とするという古刹。多度津町にあるが、隣は善通寺市で75番善通寺、76番金倉寺がある。「遍路道中図」によれば、その間4キロ。77道隆寺との間、78郷照寺との間はそれぞれ約7キロ。平地であることを考えれば、一日で歩き通すことは可能だ。土佐の35番清滝寺と36番青龍寺の間が18キロであることを考えても、同じ遍路道でも霊場間の距離が大きく異なる。前方に見える景色の移ろいとともに、歩き遍路に変化を与える要因であろう。
道隆寺には、四国遍路の歴史を凝集した石造物が境内に林立している。なかでも傑作は、太子堂の前に立つ衛門三郎の石像である(写真5)。
遍路姿の弘法大師の前に土下座して大師を仰ぎ見る衛門三郎であるが、四国遍路の起源とされている。伊予の富豪であったが、托鉢する僧の持つ鉢を竹箒で叩き落とし、八つに割れた。僧は立ち去ったが、その翌日から彼の子供八人が次々と死んだことで、その僧、つまり空海に許しを得ようと思い立ち、遍路すること21回。12番札所焼山寺の手前で倒れ伏したところに空海が現れ、願い事を告げて息絶えた。その願い事とは、生国伊予の国主河野家の子に生れ変りたいというもの。そこで大師は、「衛門三郎再来」と書いた石を握らせ葬ったが、数年後、河野家に左手にその石を握った子どもが生まれた、という説話である。12番焼山寺は徳島県の吉野川左岸にあり、51番石手寺は伊予の道後温泉の近くにある。スケールの大きな逸話で、遍路物語に相応しい。
つぎは、未踏査の霊場がもっとも多い「菩提」の伊予愛媛に行きたい。