あ行

赤松氏(あかまつし)

播磨国佐用荘(はりまのくにさようのしょう)内を本拠とする領主で、則村(のりむら)は鎌倉幕府倒幕戦で活躍し、室町幕府から播磨守護に任命された。明徳の乱(1391年)後は、播磨、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、美作(みまさか=現在の岡山県北東部)の守護職を持ち、幕府の侍所所司(さむらいどころしょし)に任命される家柄(いわゆる「四職(ししき)」)として中央政界でも活躍した。

しかし、嘉吉元(1441)年に、満祐(みつすけ)が将軍の義教(よしのり)を殺害する嘉吉の乱を起こし、幕府軍に討伐されて一旦滅亡する。その後、一族の遺児である政則(まさのり)が加賀半国の守護としての再興を許された。応仁の乱が始まると、東軍方について旧分国の播磨、備前、美作を回復したが、その後も但馬(たじま)の山名氏(やまなし)や、重臣の浦上氏(うらがみし)との対立抗争を繰り返し、天文年間には山陰の尼子氏(あまごし)の進出によって一旦淡路(あわじ)へ脱出したこともあった。

戦国後半には分国各地の有力者が自立傾向を強めたが、守護家としての権威をもとに、影響力の及ぶ範囲を狭めながらも存続していった。最後の当主である則房(のりふさ)は、織田政権に服属した後、豊臣政権によって阿波(あわ=現在の徳島県)へ移され、そのまま病没したとも、関ヶ原の合戦で西軍方についたため自害させられたともされ、最後は定かではないが、これ以後断絶した。

明智光秀(あけちみつひで)

?―1582。美濃国(みののくに=現在の岐阜県南部)の武家である土岐(とき)氏の一族とされる。越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)で朝倉(あさくら)氏に仕えていたが、永禄11(1568)年に足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長を頼って美濃へ赴いた時に同行して信長に仕えるようになったと見られている。

以後信長に才能を認められ、京都の政務や、畿内周辺各地での軍事活動などに従事した。天正3(1575)年からは丹波攻略を命じられ、一時は多紀郡(たきぐん=現在の丹波篠山市)の波多野(はだの)氏を傘下に収めて、氷上郡(ひかみぐん=現在の丹波市)黒井城(くろいじょう)の赤井(あかい)・荻野(おぎの)氏を攻めたが、翌年波多野氏の離反によって一旦敗れて撤退する。

その後天正5(1577)年ごろから再び丹波へ進出し、同7(1579)年6月に波多野氏の八上城(やかみじょう)を落とし、ついで赤井・荻野氏の黒井城や丹後(たんご=現在の京都府北部)の一色(いっしき)氏を下して丹波・丹後を平定した。

天正10(1582)年6月、京都本能寺に信長を殺して天下の権を窺ったが、羽柴秀吉(はしばひでよし)に山城国山崎(やましろのくにやまざき=現在の京都府大山崎町)で敗れ、敗走中に小栗栖(おぐるす=現在の京都市)で住民に襲撃され死去した。

足利義稙(あしかがよしたね)

1466―1523。室町幕府10代将軍。初めの名は義材(よしき)、ついで明応7(1498)年に義尹(よしただ)、さらに永正10(1513)年に義稙(よしたね)と改名した。延徳2(1490)年に将軍となり、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)の六角(ろっかく)氏、河内国(かわちのくに=現在の大阪府東部)の畠山(はたけやま)氏の討伐を進めたが、明応2(1493)年、管領(かんれい)細川政元(ほそかわまさもと)のクーデターによって将軍職を失った。

その後越中国(えっちゅうのくに=現在の富山県)に移って畠山氏を頼って京都奪回を目指すが失敗。ついで周防国山口(すおうのくにやまぐち=現在の山口県山口市)の大内義興(おおうちよしおき)を頼り、細川氏の分裂に乗じて永正5(1508)年に大内義興・細川高国(ほそかわたかくに)とともに京都に復帰し将軍職に返り咲いた。

しかし、自らを擁立した細川高国、大内義興の専横に不満を持ち、永正10年に京都を出奔して近江国甲賀(こうか=現在の滋賀県甲賀市)に移る。この時は大内義興の譲歩により帰京するが、大永元(1521)年に再び細川高国と不和となり淡路国に出奔、将軍職を失った。その後阿波国(あわのくに=現在の徳島県)へ移り、大永3(1523)年に没した。

安宅氏(あたぎし(あたかし))

紀伊国安宅荘(きいのくにあたぎのしょう=現在の和歌山県白浜町)を本貫地とする武士。南北朝時代から水軍としての活躍が知られ、やがて淡路にも勢力を広げた。由良城(ゆらじょう)や洲本城を拠点としたとされ、戦国時代には三好(みよし)氏に従うようになった。

安国寺(あんこくじ)

南北朝時代、足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)兄弟が、帰依していた臨済宗(りんざいしゅう)僧の夢窓疎石(むそうそせき)の勧めにより、全国の国ごとに建立した寺院。また、それぞれの安国寺ごとに塔も建立され、「利生塔(りしょうとう)」と呼ばれた。国ごとに国分寺を建立した聖武天皇の事跡に倣い、後醍醐天皇以下の南北朝の戦乱で死没した人々の慰霊のために建立された。新たに建立されたものもあるが、既存の寺院を改修してこれに充てたものもある。

池田輝政(いけだてるまさ)

1565―1613。織田信長(おだのぶなが)の家臣である池田恒興(いけだつねおき)の次男。父と兄の元助(もとすけ)が小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い(1584年)で戦死したために家督を継ぐ。関ヶ原の戦い(1600年)の後、三河吉田(みかわよしだ=現在の愛知県豊橋市)15万石から加増されて、播磨姫路(はりまひめじ)52万石の領主となる。慶長6(1601)―14(1609)年にかけて、羽柴秀吉(はしばひでよし)が築いていた姫路城を大改修し、現在見られる城郭と城下町を建設した。

徳川家康の娘である督姫(とくひめ)を妻としたために江戸幕府から重用され、長男の利隆(としたか)のほかに、督姫が生んだ子供たちなども順次それぞれに所領を得て、一時は一族で播磨、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、淡路(あわじ)、因幡(いなば=現在の鳥取県東部)に合計100万石近くを領有した。慶長18(1613)年死去。

『夷堅志』(いけんし)

中国南宋(なんそう)の時代に洪邁(こうまい、1123―1202)が編纂した奇談集。洪邁は政府の官僚で、歴史書の編纂にも従事した知識人。もと420巻あったが、多くは早く散逸したと見られている。人智を超えた怪異・奇跡の話を集める書物は、中国では六朝時代(りくちょうじだい、3世紀~6世紀)に盛んで、こうした書物を「志怪(しかい)」と呼んだ。『夷堅志』は、こうした流れをくむ新しい時期の書物である。

井上内親王(いのうえないしんのう)

717―75。光仁天皇の皇后。聖武天皇(しょうむてんのう)の皇女。宝亀3(772)年、天皇を呪詛(じゅそ)したとして皇后を廃され、ついで息子の他戸親王(おさべしんのう)も母の罪を受けて皇太子を廃された。翌年、他戸親王とともに大和国宇智郡(やまとのくにうちぐん=現在の奈良県五條市)に幽閉され、同6年4月、母子同日に没した。政府関係者による毒殺と考えられている。

『絵本百物語』(えほんひゃくものがたり)

天保12(1841)年刊。別名『桃山人夜話(とうさんじんやわ)』。文章は桃花園三千麿が執筆、画は竹原春泉(たけはらしゅんせん)が描き、45種の妖怪話を多色刷りの絵とともに紹介している。

応神天皇(おうじんてんのう)

『古事記(こじき)』・『日本書紀(にほんしょき)』の神話では第15代の天皇とされる。母の神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵したときは、母の胎内にあり、帰国後筑紫(つくし=現在の福岡県付近)で生まれたと記される。また、朝鮮半島からの論語(ろんご)・千字文(せんじもん)の伝来なども応神代の記事として見える。

実在の可能性を考える説もある天皇で、河内(かわち=現在の大阪府東部)を拠点とする新王朝の創始者とする説や、4世紀から5世紀に中国へ使者を送ったと中国の歴史書に見える、いわゆる「倭の五王(わのごおう)」の一人に比定する説などもある。日本最大級の古墳の一つである大阪府羽曳野市(はびきのし)の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)が、古来その陵墓とされてきた。また、後世には父仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、母神功皇后とともに、八幡信仰の三祭神の一つともされるようになっている。

太田垣氏(おおたがきし)

但馬国南部の朝来郡(あさごぐん=現在の朝来市)を本拠とした中世後期の領主。但馬の多くの中世在地領主と同様に、古代の日下部氏(くさかべし)の子孫と称した。山名氏が但馬の守護となると重用され、但馬や備後(びんご=現在の広島県東部)の守護代に任命された。

嘉吉の乱後に山名氏が播磨守護職を獲得すると、播磨に置かれた三人の守護代の一人ともなった。戦国時代には一時期領内に発見された生野銀山(いくのぎんざん)の権益を掌握したとも伝えられるが、天正年間における羽柴秀吉(はしばひでよし)の播磨・但馬進出によって没落した。

大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)

1308―35。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子。幼少のころに梶井門跡(かじいもんぜき)に入り、天台座主(てんだいざす)を2度務めた。元弘元(1331)年に後醍醐天皇が2度目の倒幕運動として元弘の変を起こすと、還俗してこれに参加した。建武政権成立後は一旦征夷大将軍に任命されるが、後醍醐や足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、建武元(1334)年に謀反を企てたとされて捕らえられ鎌倉に幽閉された。翌年、鎌倉北条氏の残党が蜂起した中先代の乱(なかせんだいのらん)で鎌倉が陥落したとき、尊氏の弟である足利直義(ただよし)によって殺害された。

なお、播磨の守護となった赤松円心(あかまつえんしん)の三男則祐(そくゆう)は比叡山で出家しており、元弘の変では護良の配下として戦ったとされる。

また、護良をはじめとする後醍醐の皇子の名前につけられた「良」については、一般には「なが」と読まれることも多いが、近年では「よし」と読むべきとする説が有力である。

大汝遅命(おおなむちのみこと)

『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、播磨の国づくりを進めた伊和大神(いわおおかみ)の別名として登場するが、一般的には、出雲神話(いずもしんわ、出雲は現在の島根県東部)に登場する大国主(おおくにぬし)の別名である。このことは、播磨土着の神である伊和大神が、記紀神話(『古事記』、『日本書紀』の神話)の影響を受けて、大国主と同一化されたことを示すとも考えられている。

なお、大国主は、記紀神話ではスサノオの息子、もしくは子孫とされ、少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して国づくりを進め、やがて天から降ってきた天照大神(あまてらすおおみかみ、「てんしょうだいじん」とも読む)の子孫に国土を譲り、出雲に祀られるようになったとされている。

か行

梶井宮門跡(かじいのみやもんぜき)

「門跡」とは、本来は仏法の正当な後継者を指すが、後にそうした後継者と見なされた貴族の子弟が入る格の高い寺院のことをも指すようになった。このうち、とくに天皇の子弟が入る寺院の場合は「宮門跡」と呼ばれた。

梶井門跡は、現在は洛北大原(おおはら)の三千院(さんぜんいん)のことを指すが、本来は天台宗(てんだいしゅう)の開祖最澄(さいちょう)が開いた寺院で、当初は比叡山(ひえいざん)の上にあり円融房(えんゆうぼう)と呼ばれていた。その後、比叡山東麓の坂本(さかもと=現在の滋賀県大津市坂本)に移り、平安末期からは天皇家の子弟も入寺するようになり、梶井宮門跡とも呼ばれるようになった。

鎌倉・室町時代には京都市中周辺を転々としており、応仁の乱後に大原にあった政所(まんどころ)が本坊となった。江戸時代中ごろから、再び門跡自身は京都市中に房(僧侶の住居)を構えるようになり、寺院としての門跡もこの京都市中の房を指すようになっていた。現在の三千院が本坊とされたのは明治4(1871)年のことである。

梶原景時(かじわらかげとき)

?―1200。相模国(さがみのくに=現在の神奈川県)の武士。治承4(1180)年の源頼朝(みなもとのよりとも)挙兵のとき、平家方として戦ったが、石橋山の合戦後、洞窟に隠れていた頼朝を見逃し、後に頼朝に重用されるようになったとされる。

頼朝が弟の範頼(のりより)、義経(よしつね)を派遣して源義仲(みなもとのよしなか)や平家との戦いを進めると、軍勢の一員として派遣された。元暦2(1185)年、四国へ向けて渡海しようとした時に義経と論争を起こしたとされ、また平家滅亡後、義経を頼朝に讒言(ざんげん)し、その結果頼朝と義経の中が断絶したとされるなど、義経との不和が語られてきた。ただしその一方で、一の谷の合戦では子息の景季(かげすえ)を救うために、再度敵中へ突撃したなどの美談も語られている。

頼朝が没した直後の正治元(1199)年、新将軍頼家(よりいえ)に、結城朝光(ゆうきともみつ)が謀反を企てていると讒言したが、逆に有力御家人66人連名の弾劾文を出され失脚した。翌年1月、謀反を企てて京都に向かったが、駿河国で現地の武士に阻まれ、討ち死にした。

軽石凝灰岩(かるいしぎょうかいがん)

凝灰岩とは、火山灰が堆積してできた岩石。そのうち、軽石を主な構成物質とするものを軽石凝灰岩と呼ぶ。そのもとになる成分は、流紋岩質か安山岩質となる。

『義経記』(ぎけいき)

室町時代に成立した軍記物語。『平家物語』とは対照的に、義経の出生と奥州下り、また源平合戦後の没落の過程を中心に描く。当時すでに成立していた義経伝説や、作者の創作が多分に織り込まれている。これ以後の謡曲(ようきょく)や浄瑠璃(じょうるり)における義経関係作品にも、大きな影響を与えた。

城山城跡(きのやまじょうし)

播磨守護赤松氏の拠点城郭の跡。たつの市新宮町にある。赤松則祐(あかまつそくゆう)が、文和元(1352)年ごろから築城を初めたが、その後も長期間にわたって工事が進められていたことがわかっている。赤松氏の本拠地であった赤穂郡(あこうぐん)、佐用郡(さようぐん)は、播磨の西部に偏っていたため、より播磨の中心に近い位置に拠点を構える必要があったことと、このころ美作方面で山名氏と対峙していたため、美作への交通路上に拠点が必要であったことの二つが、城山に拠点が置かれた理由と考えられている。

『玉葉』(ぎょくよう)

12世紀末期の摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)であった九条兼実(くじょうかねざね)の日記。現存するものは、長寛元(1164)年から建仁3(1203)年までにわたる。現在は欠落してしまっている時期のものも多い。しかし、平家の最盛期から鎌倉幕府の創設期に関する記録であり、兼実の上級公家という立場から、記された情報は公家・武家双方について比較的豊富かつ正確であり、史料的価値は高い。

『近村めぐり一歩記』(きんそんめぐりいっぽき)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。本文中に、天正3(1575)年3月7日に著者が居住していた英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)のあたりを一巡して書いたもので、同4年3月30日にもう一度歩いて補訂した、とされている。英賀を中心に、西は姫路市網干区和久(ひめじしあぼしくわく)付近、北は太子町の鵤(いかるが)あたり、東は現在の姫路駅付近から飾磨港(しかまこう)あたりまでが記録され、社寺、名所、伝説などが記されている。中世最末期の姫路周辺を示す、数少ない史料の一つである。著者の芦屋道海については、本用語解説の『播磨府中めぐり』項目を参照されたい。

熊野本宮(くまのほんぐう)

和歌山県田辺市にある神社。現在の正式名称は熊野本宮大社。同県新宮市(しんぐうし)にある熊野速玉大社(熊野新宮)、同県那智勝浦町(なちかつうらちょう)にある熊野那智大社と合わせて、「熊野三山」と呼ばれ、古くから信仰されてきた。とくに平安後期の院政期には、院をはじめとする多くの貴族が参詣を繰り返すようになり、これ以後、熊野参詣は次第に社会の諸階層に広まっていった。

群集墳(ぐんしゅうふん)

5世紀後半以降に造られるようになった、小規模な古墳が密集したもの。円墳や方墳によって構成されるものが多く、7世紀ごろまで造られ続けた。こうした古墳群の発生の背景としては、限られた首長のみから、その一族の人々を含めるようになるなど、古墳を造営できる人々の範囲が広がったためと見られている。

元曲(げんきょく)

中国元代(13―14世紀)に盛んになった雑劇、歌謡の総称。他の時代に比べてこのジャンルで優れた作品が多く、元代の文学を代表するものとして評価を受けている。

『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)

鎌倉時代後期に成立した仏教史書。日本への仏教伝来から元亨2(1322)年までの僧侶の伝記や諸事跡を記したもの。著者は禅僧の虎関師錬(こかんしれん)。南北朝時代に、朝廷の許可によって大蔵経(だいぞうきょう、仏教の主要経典集)に加えられ、永和3(1377)年に初版本が刊行されている。

光仁天皇(こうにんてんのう)

709―81。天智天皇(てんじてんのう)の皇子志貴皇子(しきのみこ)の子。神護景雲4(770)年、称徳天皇(しょうとくてんのう)の死去にあたって藤原氏ら群臣に推されて皇太子となり、ついで即位。奈良時代を通して天武天皇(てんむてんのう)の子孫が天皇となっていたが、光仁の即位によって天智系統に代わることとなった。天応元(781)年、病を得て皇太子山部親王(桓武天皇、かんむてんのう)に譲位し、同年没した。

弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)

774―835。日本に真言密教(しんごんみっきょう)をもたらした平安時代初めの僧侶。同じ時期に天台宗をもたらした伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)とならんで、この時期の日本仏教を代表する人物。延暦23(804)年遣唐使留学僧として入唐。長安(ちょうあん)青龍寺の恵果(えか、「けいか」とも言う)に真言密教を学ぶ。大同元(806)年帰国。弘仁7(816)年朝廷より高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を開くことを許される。弘仁14(823)年朝廷より東寺(とうじ)を与えられ、真言密教の道場とした。承和2(835)年死去。延喜21(921)年、朝廷から弘法大師の諡号(しごう、死後の贈り名)が与えられた。

高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)

和歌山県高野町(わかやまけんこうやちょう)にある高野山真言宗(しんごんしゅう)の総本山。京都の東寺(とうじ)とともに、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が活動拠点にした寺院として真言密教(しんごんみっきょう)の聖地とされる。

弘仁2(816)年、空海は真言密教の道場として、高野山の地を朝廷から与えられ、伽藍(がらん)を建立した。紀行文「鳥」で述べた、高野明神と丹生都比売明神から寺地を譲られたとの伝説は、平安中期に成立したと見られる『金剛峰寺修行縁起(こんごうぶじしゅぎょうえんぎ)』から見られるものである。

古浄瑠璃(こじょうるり)

浄瑠璃の成立は、15世紀後半のころと見られているが、当初は、今日のような人形芝居を伴わない、伴奏にのせた語り物の形をとっていた。その後、17世紀後半に竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が義太夫節と呼ばれる曲風を創造して人気を博する。この義太夫節から今日に伝わる人形芝居を伴う浄瑠璃が発達していった。古浄瑠璃とは、こうした義太夫節成立以前の段階の浄瑠璃を指す。

後白河法皇(ごしらかわほうおう)

1127―92。鳥羽上皇(とばじょうこう)の第4皇子で、若い頃は「今様(いまよう、当時の流行歌)」に凝るなど芸能を好み、周囲からは天皇の位を継ぐ器とは見られていなかったという。しかし、近衛天皇(このえてんのう)の死去にともない、崇徳上皇(すとくじょうこう)の皇子の即位を望まない鳥羽上皇の意向もあって久寿2(1155)年に天皇となる。ついで、保元3(1158)年に皇子の二条天皇(にじょうてんのう)に譲位して上皇となり院政を行った。

治世中は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)、その後の二条天皇との対立、続く平清盛(たいらのきよもり)の勢力拡大、源平が戦った治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱と鎌倉幕府の成立に至るまで、数多くの戦乱とめまぐるしい政治の変動が起こる動乱の時期であった。後白河はこの中で次々と現れてくる新勢力と対決、妥協をしつつ、数々の危機に瀕しながらも、最終的には院政・公家政権の一定の維持に成功した。建久3(1192)年3月没。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

1288―1339。文保2(1318)年即位。元亨元(1321)年に父後宇多法皇の院政が停止され、以後親政を行う。正中元(1324)年、後醍醐の倒幕計画が発覚し、側近の日野資朝(ひのすけとも)らが処罰される(正中の変)。さらに元弘元(1331)年、再度の倒幕計画が発覚したため、京都を脱出し笠置山(かさぎやま)に立てこもるが、幕府軍に敗れた。幕府方は光厳天皇を即位させ、後醍醐は隠岐国(おきのくに=現在の島根県隠岐諸島)に流罪(るざい)となった。

しかし、元弘3/正慶2(1333)年、後醍醐は隠岐を脱出、このころ近畿周辺で活動していた護良親王(もりよししんのう)、赤松円心(あかまつえんしん)、楠木正成(くすのきまさしげ)らの勢力に、討伐のために幕府から派遣されていた足利高氏(あしかがたかうじ)らの有力御家人も加わり、5月に六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、同じころ関東でも新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡した。

帰京した後醍醐は建武の新政を始めるが、天皇専制を目指す性急な改革は社会の反発を招き、建武2(1335)年、鎌倉北条氏の残党蜂起(中先代の乱)の鎮圧のために東国へ向かった足利尊氏が、鎌倉で後醍醐から離反を明らかにしたことで崩壊した。後醍醐方は一旦は尊氏を破るが、九州へ落ち延びた尊氏方は勢力を盛り返し、建武3(1336)年5月の湊川(みなとがわ=現在の神戸市兵庫区)の戦いに勝利し、ついで京都を占領した。後醍醐は比叡山(ひえいざん)に立てこもり抗戦するが、足利方の勧めによって三種の神器を引き渡して和議を結ぶ。足利方は、光厳上皇の院政のもと、光明天皇(こうみょうてんのう)を即位させ、尊氏は建武式目(けんむしきもく)を定めて室町幕府を開いた。

しかしその直後、後醍醐は大和国吉野(やまとのくによしの=現在の奈良県吉野町)に脱出して朝廷を開いた。これ以後、京都の朝廷(北朝)と、吉野の朝廷(南朝)が並立しての抗争が続く。後醍醐は、皇子や重臣たちを全国各地へと送り、北朝方に対抗させた。しかし劣勢が続く中、暦応2/延元4(1339)年に病により吉野で死去した。

御着城跡(ごちゃくじょうし)

姫路市御国野町御着(ひめじしみくにのちょうごちゃく)にあった城。赤松氏(あかまつし)の重臣である小寺氏(こでらし)の居城。江戸時代中ごろの絵図では、四重の堀の中に山陽道や町家を取り込んだ、いわゆる「惣構(そうがまえ)」を持つ大城郭として描かれている。この絵図の描写がどこまで信頼できるかは慎重な検討が必要であるが、中心部付近の堀跡の一部は現在も地表面から推測でき、また近年の発掘調査で二の丸跡の建物群や堀跡などが検出されている。現在二の丸跡の一部は城址公園となっている。

小寺氏(こでらし)

播磨守護赤松氏の重臣の一つで、南北朝時代に播磨の守護代を務めた宇野頼季(うのよりすえ)の子孫とされる。応仁の乱後、赤松氏が播磨・備前(びぜん=現在の岡山県南東部)・美作(みまさか=現在の岡山県北東部)を回復すると、播磨の段銭奉行(たんせんぶぎょう)という租税徴収の役職につき、御着(ごちゃく=現在の姫路市御国野町御着)を拠点に勢力を広げた。

戦国前半には、赤松氏当主を支えて備前(びぜん=現在の岡山県東部)を拠点とする浦上(うらがみ)氏との抗争を繰り返した。戦国最末期の当主である政職(まさもと)は、天正3(1577)年に織田信長に服属したが、翌年三木の別所長治(べっしょながはる)が離反するとこれに同調して御着城に籠城した。しかし、三木城落城にともなって没落した。

戦国時代後半に重用された家臣に黒田氏があり、小寺の姓を名乗ることを許されている。この黒田氏から出て豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えたのが黒田孝高(くろだよしたか)で、黒田氏は江戸時代には筑前国(ちくぜんのくに=現在の福岡県)福岡藩主となった。小寺氏の子孫も江戸時代には黒田家に仕えるようになった。

五輪塔(ごりんとう)

供養塔、墓塔として造られることが多かった仏塔の一種。石製のものが多く残る。下から順に、基礎にあたる方形の地輪(ちりん)、円形の水輪(すいりん)、笠形の火輪(かりん)、半球形の風輪(ふうりん)、宝珠形(ほうしゅがた)の空輪(くうりん)の五段に積み、古代インドで宇宙の構成要素と考えられていた、地、水、火、風、空(五大、ごだい)をあらわす。密教の影響が強く、石塔としては平安時代末期からの遺品が知られている。

『今昔画図続百鬼』(こんじゃくがずぞくひゃっき)

安永8(1779)年刊。鳥山石燕(とりやませきえん)画。安永5(1776)年に刊行された『画図百鬼夜行(がずひゃっきやぎょう)』の続編で、「妖怪図鑑」としての性格を持つ。石燕はこれ以後も、『今昔百鬼拾遺』、『百鬼徒然袋(ひゃっきつれづれぶくろ)』を著した。この4つの画集で、200種以上の妖怪が描かれている。石燕は狩野派の絵師で、隠居仕事に画業を行ったと言われ、『画図百鬼夜行』以下4つの妖怪画集は、60代になってからの仕事であった。

『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)

12世紀成立と見られる説話集。著者は大寺院の僧侶と考えられているが、詳しくはわかっていない。天竺(てんじく=インド)・震旦(しんたん=中国)・本朝(ほんちょう=日本)の三部構成で、合計1,000話以上が収録されている。

ただし、未完成のまま残された書物と見られ、全体の構成は完結しておらず、また地名などを中心に記述が空白のまま残されている箇所も多い。また収録された説話は、大部分が数多くの先行文献から採録されたものと見られているが、仏教的な功徳、霊験譚などの仏教的説話から、武士の武功や民間の奇談異聞などの世俗的説話まで、幅広い内容の話がみられる。平安時代後期の社会相を知る上で貴重な文献。

さ行

佐渡島の団三郎狸(さどがしまのだんざぶろうだぬき)

佐渡島の狸の大将とされる。夜道を歩く人を壁を作り出しておどかす、蜃気楼で化かす、木の葉を化かした銭で買い物をする、などの話が伝わっている。また、芝右衛門狸とよく似た狐との化けくらべ話もある。加賀国で狐と化けくらべをすることになり、団三郎が大名行列に、狐が奥女中に化けて殿様に声をかける、とのことになった。やがて大名行列がやってくると、狐は女中となって殿様の籠に声をかけようとしたが、実は本物の大名行列で狐は斬られそうになり、あわてて逃げていった、という。

なお、佐渡では狸を狢(むじな)と呼ぶので、団三郎狢と呼ぶのが一般的である。

讃岐屋島の禿狸(さぬきやしまのはげだぬき)

香川県高松市屋島にある屋島寺の守護神で、四国の狸の総大将とされる。源平の屋島合戦での様子を幻術で再現するなどしたという。後に猟師に撃たれて死んでしまうが、その霊が阿波に移り住んだともされている。

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)

京都市東山区にある仏堂で、正式には蓮華王院(れんげおういん)本堂と呼ぶ。蓮華王院は、長寛2(1164)年に後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が、平清盛(たいらのきよもり)に命じて、自身の離宮である法住寺殿内に造営した寺院。鳥羽上皇(とばじょうこう)が清盛の父平忠盛に造営させた得長寿院(とくちょうじゅいん)にならって、三十三間の細長い堂に、1,001体の観音像が安置された。なお、後白河が造営した蓮華王院は、建長元(1249)年の火災で焼失し、現在の堂は文永3(1266)年に再建されたものである。

十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)

現在の姫路市十二所前町にある神社。この場所は旧城下町の南西隅近くにあたる。現在の祭神は少彦名神(すくなひこなのかみ)。社伝では、延長6(928)年、一夜のうちに十二茎の蓬(よもぎ)が生え、その葉で病を治すようにとの神託に従って、南畝(のうねん)の森(現在の姫路駅西側付近)に創建されたという。その後、安元元(1175)年に現在地へ移ったとされている。

聖徳太子(しょうとくたいし)

574―622。推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう)・皇太子。本名は厩戸王(うまやどのおう)。仏教への信仰が厚く、四天王寺(してんのうじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)を建立したほか、経典の注釈書も著したとされる。また、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条の憲法を制定するなど、摂政として政治改革にも努めたとされる。ただし、こうした国政上での活躍は、奈良時代における創作である、などとする説もある。

聖徳太子をめぐっては没後、さまざまな伝説が語られるようになった。平安時代中ごろ成立の『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』は、そのころまでにできあがっていた諸伝説を集成したもので、以後の聖徳太子信仰の展開に大きな影響を与えた。

浄瑠璃(じょうるり)

楽器の伴奏にのせて章句を語る音曲。語り手を「太夫(たゆう)」と呼ぶ。このうち義太夫節(ぎだゆうぶし)という流派の語りに、あやつり人形が加わるものを人形浄瑠璃(文楽、ぶんらく)と呼ぶ。本来は演劇的要素が希薄な語り物であったが、江戸時代中ごろから人形劇を伴うものが主流となっていった。

『諸国百物語』(しょこくひゃくものがたり)

延宝5(1677)年刊。100話の怪奇物語を収める怪談集。幽霊などの妖怪変化を扱った民話的な怪奇物語が大半を占め、先行する『曽呂利物語(そろりものがたり)』との類似関係が目立つことが指摘されている。本書以後、18世紀中ごろまで、『御伽百物語(おとぎひゃくものがたり)』、『太平百物語』、『古今百物語評判』など、「百物語」を題名の中に持つ怪談集が続々と刊行されるようになった。

神功皇后(じんぐうこうごう)

『古事記(こじき)』、『日本書紀(にほんしょき)』の神話に現れる伝説上の人物。夫である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の急死後、住吉の神のお告げによって、子供の応神天皇(おうじんてんのう)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵して、朝貢を約束させたという。また、朝鮮半島から畿内へ帰る途中、香坂皇子(かごさかおうじ)、忍熊皇子(おしくまおうじ)が反乱をおこして行く手をさえぎったが、これを平定したという。

随願寺(ずいがんじ)

現在姫路市白国(ひめじししらくに)の増位山(ますいやま)にある天台宗(てんだいしゅう)の寺院。古代以来の寺院で、もとは山麓の平地部にあったが、元徳元(1329)年の洪水被害によって現在地に移転したとされている。書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)などとともに「播磨天台六ヶ寺」の一つで、平安時代後期以来、播磨全体の安穏のための法会が行われる寺院と位置づけられていた。

菅原道真(すがわらのみちざね)

845―903。幼少より学問に優れたとされ、文章博士(もんじょうはかせ、大学寮の教官)や讃岐守(さぬきのかみ)などを歴任する。政治の刷新を進めた宇多(うだ)天皇(のちに譲位して上皇)の信任が厚く、右大臣(うだいじん)にまで昇進した。しかし、学者出身の右大臣は異例であり、従来からの権勢を保持しようとする藤原氏をはじめ、他の貴族たちの反感を買い、謀反の疑いをかけられて、延喜元(901)年に大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、大宰府で没した。

崇神天皇(すじんてんのう)

『古事記』・『日本書紀』の神話では第10代の天皇とされる。実在の可能性が指摘されている最も古い代の天皇でもある。

石英安山岩(せきえいあんざんがん)

火成岩のうち、マグマが急激に冷えて固まった火山岩の一種。二酸化ケイ素が63~70パーセントのもので、「デイサイト」ともいう。

総持寺(そうじじ)

石川県輪島市門前町(いしかわけんわじましもんぜんまち)にあった曹洞宗の大本山の一つ。もとは真言宗の寺であったというが、元亨元(1321)年、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が律宗から禅宗にあらため、永平寺(えいへいじ)とならぶ曹洞宗の大本山となった。1898(明治31)年、火災による焼失を契機に移転計画が進められ、1911(明治44)年に神奈川県横浜市鶴見区(かながわけんよこはましつるみく)に移転した。なお、輪島市門前町には現在も総持寺祖院が残る。

『捜神記』(そうじんき)

東晋(とうしん)王朝の官僚である干宝(かんぽう)が編纂した怪異話、奇談を集めた書物。こうした書物のジャンルを「志怪(しかい)」と呼ぶ。本書が著された六朝時代(3~6世紀)は、こうした「志怪」が現れはじめ、盛んに記されていた時代であった。著者の干宝は、王朝の歴史編纂にも携わっており、『晋紀(しんぎ)』という晋王朝の歴史書も著している。『捜神記』にも、こうした干宝の学識が反映されていると見られていて、収録された話題の幅が広いことや、過去の史料や書籍からの引用が見られる点が特徴とされている。

『捜神後記』(そうじんこうき)

干宝(かんぽう)著『捜神記』の続編を標榜した書物。鬼神や動物にまつわる怪異話が目立ち、仏教に関する話題が収められている点が特徴とされる。著者は陶潜(とうせん、365―427)とされる。陶潜は字(あざな、通称)は淵明(えんめい)。現在の江西省の人で、自由な隠遁生活を好み、詩の「帰去来辞(ききょらいじ)」の作者としてよく知られている。

曹洞宗(そうとうしゅう)

禅宗の宗派の一つ。日本では、鎌倉時代にこの宗派の教えを伝えた道元(どうげん)の法系によって代表される。道元は、現在の福井県永平寺町(ふくいけんえいへいじちょう)に永平寺を開いた。曹洞宗は、南北朝・室町時代以降になると、庶民の葬送儀礼に積極的に関わることによってその教線を広げていった。

た行

『太平記』(たいへいき)

南北朝内乱を描いた軍記物。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による倒幕計画から始まり、幼い足利義満(あしかがよしみつ)の補佐役に細川頼之(ほそかわよりゆき)が就任するころまでを描く。

南北朝時代後半までに、室町幕府による校閲を含めて、何段階かの書き継ぎ、改訂を経て成立していったと見られている。作者は「小嶋法師(こじまほうし)」とする史料があるが、その実像についてはよくわからず、また何段階かの書き継ぎがあったとすれば複数の作者を想定する必要があるが、その他の作者についてもよくわかっていない。

大物浦(だいもつうら)

現在の尼崎市街地東部。淀川へとつながる神崎川の河口に開けた都市。物流の大動脈であった瀬戸内海と都とを結ぶ、淀川―神崎川水運との結節点として、平安時代後期以来繁栄した。平安時代には、大物や神崎(現在の尼崎市西川付近)など神崎川河口部に展開していたいくつかの港を総称して「河尻(かわじり)」とも呼ばれていた。その後、河口部の土砂堆積によって陸地が少しずつ沖合に前進していった結果、鎌倉後期ごろからは、大物から見て西南の地域を指す地名である尼崎が、この周辺を代表する地名として定着していった。

平清盛(たいらのきよもり)

1118―1181。伊勢平氏の棟梁である平忠盛(たいらのただもり)の嫡男として生まれる。実は白河法皇(しらかわほうおう)の落胤(らくいん)という説も有力。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)でいずれも勝利した側につき、その後の中央政界で大きな力をふるうようになる。仁安2(1167)年に太政大臣(だじょうだいじん)となるが、3ヶ月で辞任し、長男の重盛(しげもり)を後継者とする。翌年に病のために出家し、その後は福原(ふくはら=現在の神戸市兵庫区)の別荘に居住して日宋貿易を進めるとともに、必要に応じて上京しては時の政局を左右し続けた。治承3(1179)年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉して朝廷の実権を握り、翌年には遷都を目指して福原へ安徳天皇(あんとくてんのう)を移す。しかし、全国で反平氏の挙兵が続く中、天皇を京都へ戻し、治承5(1181)年閏2月に没した。

平重盛(たいらのしげもり)

1138―1179。平清盛(たいらのきよもり)の長男。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)では父に従って参戦。その後は清盛の後継者として順調に官位を昇進させ、仁安2(1167)年、父清盛が太政大臣を辞任するにあたって、朝廷から重盛に国家的軍事・警察権が与えられた。翌年から清盛が福原(ふくはら=現在の神戸市兵庫区)の山荘に移ると、重盛が都において平家を代表するようになる。

しかし、安元3(1177)年、妻の兄であり、また長男維盛(これもり)の妻の父でもある藤原成親(ふじわらのなりちか)らによる平家打倒の陰謀が発覚する事件(鹿ヶ谷の陰謀、ししがたにのいんぼう)が起き、政治的に大きな打撃を受ける。その後、目立った活躍を見せないまま、治承3(1179)年7月に没した。

尊良親王(たかよししんのう)

?―1337。後醍醐天皇の第一皇子。元弘元(1331)年に父天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、それにしたがって笠置山に立てこもり、ついで楠木正成の河内の居城へ移った。しかし、10月に捕らえられて土佐国幡多(とさのくにはた=現在の高知県中村市付近)へ流罪(るざい)となった。

建武の新政が始まると帰京したが、建武3(1336)年に反旗を翻した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都を攻め落とすと、弟の皇太子恒良親王(つねよししんのう)、新田義貞(にったよしさだ)とともに越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)に下り、金ヶ崎城(かねがさきじょう=現在の福井県敦賀市)に入った。しかし、翌年3月、足利方の攻撃によって金ヶ崎城は落城、両親王も自害した。

なお、名前の読みについては、「たかなが」とも読まれてきている。この点については、本用語解説の「大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)」の項目を参照されたい。

『竹叟夜話』(ちくそうやわ)

『播陽万宝知恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻40に収録。主に姫路(ひめじ)や龍野(たつの)の周辺にあった逸話、霊験、奇聞などを集めた書物。奥書によれば、天正5(1577)年に永良竹叟(ながらちくそう)という人物が記したとされている。永良竹叟は、『播陽万宝知恵袋』に収録された他の数種の書物にも名前が見え、実在の人物と見てよい。赤松氏一族で、永良荘(ながらのしょう=現在の市川町北西部)を本拠とした永良氏の一族と見られる。

通幻寂霊(つうげんじゃくれい)

1322―91。南北朝時代に活躍した曹洞宗(そうとうしゅう)の僧侶。比叡山(ひえいざん)で出家後、豊後国(ぶんごのくに=現在の大分県)大光寺、加賀国(かがのくに=現在の石川県)大乗寺などで修行し、応安元(1368)年には曹洞宗大本山総持寺(そうじじ)の住持となる。また、応安3(1370)年には丹波国に永沢寺を開き、そのほか、加賀国聖興寺、越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)竜泉寺を開いた。了庵慧明(りょうあんえめい)ら通幻十哲(つうげんじゅってつ)と呼ばれる弟子たちが全国に寺院を開き、曹洞宗の中での一流派となった。

な行

な行の用語解説はありません。

は行

羽柴秀吉(はしばひでよし)

1537―1598。織田信長に仕えて頭角を現し、天正5(1577)年に信長の命を受けて播磨に進出する。この時点ですでに播磨の多くの勢力は信長に服属していたが、小寺孝高(こでらよしたか、後の黒田如水)の協力などによってあらためて平定を進めた。しかし、天正6(1578)年に三木の別所(べっしょ)氏、摂津有岡城(ありおかじょう=現在の伊丹市)の荒木村重(あらきむらしげ)が相次いで離反したため、三木城などをめぐって戦った。天正8(1580)年に、別所氏のほか、英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)の一向一揆勢力、宍粟郡(しそうぐん)の宇野(うの)氏などを攻略して播磨を平定した。また同時期に但馬へも兵を進めていて、最終的には播磨と同じ天正8年に、守護家山名氏を降伏させて平定した。天正9(1581)年には因幡国鳥取城や淡路国を攻略するとともに、居城としていた姫路城を改築している。

天正10(1582)年の本能寺の変の後、明智光秀(あけちみつひで)、柴田勝家(しばたかついえ)らを相次いで滅ぼし、小牧・長久手の戦い(1584年)の2年後に徳川家康(とくがわいえやす)を臣従させ、天正13(1585)年に四国を平定する。翌14年には豊臣姓を名乗り関白となり、15年に九州を平定、天正18(1590)年に関東、東北を平定し全国を統一した。文禄元(1592)年からは2度にわたる朝鮮半島への侵略戦争を進めたが、慶長3(1598)年に没した。

蜂須賀氏(はちすかし)

尾張国蜂須賀(おわりのくにはちすか=現在の愛知県美和町)から出た領主。織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正13(1585)年に阿波国(あわのくに=現在の徳島県)一国を与えられる。ついで大坂の陣(1615年)の後、淡路一国を加増され、25万石余となる。その後代々徳島藩主として幕末に至る。

『播磨鑑』(はりまかがみ)

宝暦12(1762)年ごろに成立した播磨の地理書。著者は、播磨国印南郡平津村(はりまのくにいなみぐんひらつむら=現在の加古川市米田町平津)の医者であった平野庸脩(ひらのつねなが、ひらのようしゅう)。享保4(1719)年ごろから執筆が始められ、一旦完成して姫路藩に提出した宝暦12年以降にも補訂作業が進められた。著者の40年以上にわたる長期の調査・執筆活動の成果である。活字化されたものは、播磨史籍刊行会校訂『地志 播磨鑑』(播磨史籍刊行会、1958年)がある。

播磨総社(はりまそうしゃ)

姫路城の南東にある神社。祭神は射楯大神(いたておおかみ)と兵主大神(ひょうずおおかみ)。10世紀の『延喜式(えんぎしき)』にも見える。社伝によれば、養和元(1181)年に播磨国内の神々174座を境内に合祀し、播磨国惣社(現在では「総社」と表記する)と称されたという。「惣社」とは、一般的には平安時代後期以降に見られるようになる、国府の近くに国内の神々を合祀した神社を指す。この社伝も、具体的年代についてはなお検討が必要であろうが、こうした全国的な流れの中で播磨の総社も成立したことを示すと見てよい。なお、「総社」は、一般的には「そうじゃ」と読む場合が多いが、播磨では「そうしゃ」と濁らずに読む。

播磨天台六ヶ寺(はりまてんだいろっかじ)

円教寺(えんぎょうじ、姫路市書写)、随願寺(ずいがんじ、姫路市白国)、八葉寺(はちようじ、姫路市香寺町相坂)、神積寺(じんしゃくじ、福崎町東田原)、一乗寺(いちじょうじ、加西市坂本町)、普光寺(ふこうじ、加西市河内町)の6ヶ寺のこと。平安時代後期以来、播磨の国衙(こくが=国の役所)が主催する法会に参加するなど、播磨全体の安穏を祈る寺院として位置づけられていた。

『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)

律令国家(りつりょうこっか)の命令によって編纂された古代播磨の地理書。霊亀元(715)年前後に編纂されたものと見られている。現存するものは、三条西家(さんじょうにしけ)に所蔵されていた古写本で、巻首の赤石(明石=あかし)郡の全部、賀古(加古=かこ)郡冒頭の一部と、巻末の赤穂郡(あこうぐん)の全部の記載が欠落している。活字化されたものは、日本古典文学大系新装版『風土記』(秋本吉郎校注、岩波書店、1993年)のほか、全文を読み下しした、東洋文庫145『風土記』(吉野裕訳、平凡社、1969年)などがある。

『播磨府中めぐり』(はりまふちゅうめぐり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。末尾に天正4(1576)年4月7日とあり、このころの成立と見られる。播磨府中(姫路)周辺の城跡、社寺、名所などを詳細に記し、池田輝政(いけだてるまさ)による現姫路城築城以前の姫路を知るうえで重要な史料である。ただし、後世の補筆も多く見られる。著者の芦屋道海は、英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)の住人で、平安時代の陰陽師芦屋道満の子孫を称したという。『播陽万宝智恵袋』には、この他に、『近村めぐり一歩記』、『播州巡行(考)聞書』も道海の著書として収録されている。また、『播磨鑑(はりまかがみ)』にも道海の和歌が見える。

『播州故事考』(ばんしゅうこじこう)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻14収録。天正4(1576)年赤松寿斎(あかまつじゅさい)の著。播磨の寺社やさまざまな故事を記したもの。著者の赤松寿斎については詳しいことはわからないが、『播陽万宝智恵袋』巻44の『播州諸家注進』も、寿斎の著と記されている。

『播州古所跡略説』(ばんしゅうこしょせきりゃくせつ)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻13収録。宝暦6年天川友親(あまかわともちか)の著。播磨の名所、寺社、故事、伝説など101項目を記す。著者の天川友親は『播陽万宝智恵袋』の編纂者。詳しくは、本用語解説の『播陽万宝智恵袋』項目を参照されたい。

『播州古所伝聞志』(ばんしゅうこしょでんぶんし)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻14収録。天正2(1574)年芦屋道考(あしやどうこう)の著。播磨の社寺、歴史、風俗などを記したもの。本来は82項目の話が載せられた書物であったが、『播陽万宝智恵袋』には、三木通識が他書との重複を省いて抽出した39項目が載せられている。著者の芦屋道考については詳しいことはわからない。三木通識については、本用語解説の『播州府中めぐり拾遺(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)』項目を参照されたい。

『播州巡行(考)聞書』(ばんしゅうじゅんこうききがき)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻43収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。播磨諸所の古跡、寺社や武家、僧侶たちをめぐる奇談や逸話を集めた書物。芦屋道海は天正年間に著作活動を進めた人物であり、本書もそのころの成立と考えられる。道海については、本用語解説『播磨府中めぐり(はりまふちゅうめぐり)』項目を参照されたい。

『播州府中記』(ばんしゅうふちゅうき)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻14収録。天正4(1576)年芦屋道仙(あしやどうせん)の著。播磨の伝説集で、もと79項目の話が収められていたが、『播陽万宝智恵袋』には、三木通識が他書に出ているものを省いて、19項目を抽出したものが収められている。芦屋道仙は、『播陽万宝智恵袋』巻43収録の赤松了益(あかまつりょうえき)著『播州龍城聞書(ばんしゅうりゅうじょうききがき)』に、飾東郡三宅(しきとうぐんみやけ=現在の姫路市三宅)に住む占い師であり、平安時代の伝説的陰陽師芦屋道満(あしやどうまん)の子孫である、と記されているので、実在の人物と見てよいだろう。なお、三木通識については、本用語解説の『播州府中めぐり拾遺(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)』項目を参照されたい。

『播州府中めぐり拾遺』(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。寛延3(1750)年、三木通識著。同書に収められた芦屋道海(あしやどうかい)著『播磨府中めぐり』の注釈書としての性格を持ち、姫路周辺の寺社、古跡などについての考証を加えた書物。三木通識は18世紀前半から中ごろにかけて活動した姫路の文人。幼少より学を好み、多くの著作を残した。『播陽万宝智恵袋』にも、通識の著作は17点収められている。

『播州雄徳山八幡宮縁起』(ばんしゅうゆうとくさんはちまんぐうえんぎ)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻17収録。寛延3(1750)年三木通識著。現姫路市山野井町(ひめじしやまのいちょう)にある男山(おとこやま)とその周辺にある寺社の、由来、変遷、伝説などを記したもの。著者の三木通識については、本用語解説の『播州府中めぐり拾遺(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)』項目を参照されたい。

板状節理(ばんじょうせつり)

岩石の中の割れ目が平行に発達し、割れた岩塊が板状に見えるもの。ここで出てくる溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)のような火成岩の場合、マグマが冷える時に形成されると考えられている。

『番町皿屋敷』(ばんちょうさらやしき)

一般的なものは、江戸番町に住む旗本(はたもと)の青山主膳(あおやましゅぜん)の下女お菊が、皿を紛失したことを責められて井戸に投げ込まれて殺され、そのたたりが青山を苦しめたとする話。江戸を舞台とした皿屋敷話としては、現在のところ正徳2(1712)年の『当世知恵鑑』に見える牛込(うしごめ)を舞台とした話が、残された書物の中では最も古いと見られている。なお、歌舞伎の演目としては、現在は1916(大正5)年の岡本綺堂(おかもときどう)による新歌舞伎作品がよく知られている。

『播陽因果物語』(ばんよういんがものがたり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻38収録。松原集山(まつばらしゅうざん)著。『枕草子(まくらのそうし)』、『平家物語』、『太平百物語(たいへいひゃくものがたり)』、『因果物語(いんがものがたり)』など、先行するさまざまな書物から、播磨に関係のある話を集めたもの。序には宝暦7(1757)年とあり、このころ成立したと見られる。

『播陽うつつ物語』(ばんよううつつものがたり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻39収録。奥書によると、天正元(1573)年12月10日の夜、赤松了益(あかまつりょうえき)が久保玄静(くぼげんせい)に話した内容をまとめたもので、剣持清詮(けんもちきよあき)が所蔵していた本を三木通識が元禄年間に転写し、延享5(1748)年に校訂したものとされる。播磨の古跡の由来や物語が、別の本からの引用を含めて記されている。著者の赤松了益は、龍野赤松氏の一族で、戦国末期から安土桃山時代にかけて龍野で医業を営む傍ら著述を行った人物とされ、『播陽万宝智恵袋』にも他に3点の著書が収録されている。

『播陽万宝智恵袋』(ばんようばんぽうちえぶくろ)

天川友親(あまかわともちか)が編纂した、播磨国の歴史・地理に関する書籍を集成した書物。宝暦10(1760)年に一旦完成したが、その後にも若干の収録書籍の追加が行われている。天川友親は現在の姫路市御国野町御着(ひめじしみくにのちょうごちゃく)の商家に生まれた。収録された書物は、戦国末・安土桃山時代から、友親の同時代にまでわたる125件に及ぶ。これらのほとんどは、現在原本が失われてしまっており、本書の価値は高い。活字化されたものは、八木哲浩校訂『播陽万宝知恵袋』上・下(臨川書店、1988年)がある。

平泉(ひらいずみ)

現在の岩手県平泉町(いわてけんひらいずみちょう)。平安時代後半に東北地方で勢力を広げた奥州藤原氏の本拠地。11世紀末~12世紀初めに、奥州藤原氏初代の清衡(きよひら)が本拠をこの地に移したとされる。藤原氏の居館として柳之御所(やなぎのごしょ)、加羅御所(からのごしょ)などがあり、初代清衡の中尊寺(ちゅうそんじ)、2代基衡(もとひら)の毛越寺(もうつうじ)、3代秀衡(ひでひら)の無量光院(むりょうこういん)など、歴代の当主が造営した大寺院が甍(いらか)を並べていた。

『平家物語』(へいけものがたり)

鎌倉時代前半に成立した軍記物語。平家の興隆と滅亡を、仏教的な無常観を底流に置きながら記した書物。著者については、天台座主慈円(てんだいざすじえん)の周辺の人物が執筆したとの説などが注目されているが、確定的な説はない。『保元物語(ほうげんものがたり)』、『平治物語(へいじものがたり)』、『承久記(じょうきゅうき)』とともに、「四部合戦状(しぶかっせんじょう)」とも称される。これらの書物は、一定の事実を示す史料や当事者の証言などをも参照しながら執筆されたと考えられている。したがって、記述の中の事実を記す部分と物語的な創作の部分との区別は、それぞれについて吟味する必要がある。

『平治物語』(へいじものがたり)

鎌倉時代前半に成立した軍記物語。平治元(1159)年に発生した平治の乱の経緯を記す。作者については、都の貴族層の中で考えられているが確定的な説はない。『保元物語(ほうげんものがたり)』、『平家物語(へいけものがたり)』、『承久記(じょうきゅうき)』とともに、「四部合戦状(しぶかっせんじょう)」とも称される。

宝筐印塔(ほうきょういんとう)

本来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めるための塔。日本ではとくに石塔の場合、墓碑や供養塔として建てられるようになっていた。石塔としては、鎌倉時代中ごろからの遺品が残る。形状は、方形の基礎、基礎よりも小ぶりな塔身、笠形の屋根、円筒状の相輪からなる。屋根には四隅に隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起が立てられる。この隅飾りの開きぐあいに時代ごとの特徴がよくあらわれ、古いものほど直立し、新しいものは外側へ開いていく傾向がある。

法道仙人(ほうどうせんにん)

奈良時代に活躍したとされる伝説上の宗教者。インドの生まれとされ、主に播磨から丹波南部、但馬南部、摂津西部にかけて法道が開いたとの伝承を持つ寺院が多数存在する。

その伝承の中心は加西市の一乗寺(いちじょうじ)にあったと見られる。あるとき布施(ふせ)を乞うために、法道が瀬戸内海を行く船に鉢を飛ばしたところ、船頭が積荷は官庫に納めるためのものなので与えられないと断ったところ、船の米俵が次々とひとりでに一乗寺を目指して飛んで行ってしまった。船頭が許しを請うと、法道は俵を飛ばして船に返したが、1俵だけ途中で落ちてしまった。そこで、この俵が落ちたところを米堕(よねだ=現在の加古川市米田町)と呼ぶようになった、という伝説がよく知られている。

こうした伝説には、長谷寺(はせでら)の徳道(とくどう)や、信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)に登場する命蓮(みょうれん)などの説話の影響が考えられている。法道伝説は、こうした中央で成立した説話を参考に作り出され、地域限定的に広まったものと見られているのである。こうした法道伝説とよく似た、地域に特徴的な宗教者伝説としては、備前(びぜん=現在の岡山県東部)を中心に広がる報恩大師(ほうおんだいし)伝説などがある。

ポットホール(甌穴)(ぽっとほーる(おうけつ))

河床が岩盤などの硬い物質でできていた場合、そこにできた割れ目などの弱い部分が水流で侵食されてくぼみとなる。そのくぼみに礫が入り、水流によって回されることで、岩盤を丸く浸食してできる穴のこと。

ま行

源義経(みなもとのよしつね)

1159―89。源義朝(みなもとのよしとも)の九男。平治の乱(1159年)で父が敗死した後、鞍馬山(くらまやま)に預けられるが、後に脱出して陸奥国平泉(むつのくにひらいずみ=現在の岩手県平泉町)へ向かい、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けた。

治承4(1180)年に兄の頼朝(よりとも)が挙兵すると平泉を離れてこれに合流する。寿永2(1183)年末に兄の範頼(のりより)とともに頼朝の代官として軍勢を率いて出陣し、翌年1月に源義仲(みなもとのよしなか)を討ち取る。ついで同年2月には一の谷の戦い(いちのたにのたたかい=現在の神戸市)で平家に壊滅的打撃を与えた。翌元暦2(1185)年2月に讃岐国屋島(さぬきのくにやしま=現在の香川県高松市)で平家を破り、続いて3月に長門国壇ノ浦(ながとのくにだんのうら=現在の山口県下関市)で平家を滅ぼした。

しかしその直後から頼朝との対立が深まり、文治元(1185)年11月に西国へ向けて都を離れるが、大物浦(だいもつうら=現在の尼崎市)付近で嵐のために遭難、以後陸奥国平泉へ逃れて再び奥州藤原氏の庇護を受ける。しかし、秀衡没後の文治5(1189)年4月、頼朝からの圧力に屈した藤原泰衡(やすひら)によって殺害された。

源義朝(みなもとのよしとも)

1123―1160。源氏の棟梁(とうりょう)である源為義(みなもとのためよし)の嫡男。少年期に関東へ下向し、相模国(さがみのくに=現在の神奈川県)を拠点として南関東を中心に勢力を広げた。保元元(1156)年に発生した保元の乱では父や多くの弟たちと別れて後白河天皇(ごしらかわてんのう)の方に付いて勝利する。ついで平治元(1159)年の平治の乱で、藤原信頼(ふじわらののぶより)と組んで政権奪取を狙った。しかし、平清盛(たいらのきよもり)らの軍勢に敗れ、東国方面へ脱出したが、尾張国(おわりのくに=現在の愛知県西部)で殺害された。

源義平(みなもとのよしひら)

1141―1160。源氏の棟梁である源義朝(みなもとのよしとも)の長男。長男であったが母の出自から弟の頼朝(よりとも)が嫡男として扱われていたとされる。父と同様に少年期に関東へ下向し、久寿2(1155)年には父と対立していた叔父の源義賢(みなもとのよしかた)を武蔵国大蔵館(むさしのくにおおくらのたち=現在の埼玉県比企郡嵐山町)に攻めて討ち取った。平治の乱で父義朝とともに戦ったが敗れ、京都周辺に潜伏中に捕らえられて処刑された。

源頼朝(みなもとのよりとも)

1147―99。源義朝(みなもとのよしとも)の三男。平治の乱(1159年)後捕らえられ、伊豆国(いずのくに=現在の静岡県東部)に流罪(るざい)となる。治承4(1180)年8月、反平家の兵を挙げ、同年末には鎌倉を拠点とする地方政権を確立した。

寿永2(1183)年10月には東国の軍事支配権を朝廷から認められ、ついで弟の範頼(よりのり)、義経(よしつね)を西国へ派遣して源義仲(よしなか)や平家との戦いを進め、元暦2(1185)年3月の壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平家を滅亡させる。同年11月には、反旗を翻した義経を逮捕するためとの名目で、全国に守護・地頭(しゅご・じとう)を置く権限を朝廷に認めさせる。さらに義経を庇護する奥州藤原氏に圧力を加え、文治5(1189)年にこれを征服した。

建久3(1192)年7月に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命される。晩年は娘を天皇の后としようとするなど朝廷への影響力拡大に努めたが、病を得て建久10(1199)年1月に死去した。

『峰相記』(みねあいき)

峰相山鶏足寺(みねあいさんけいそくじ=現在の姫路市石倉の峰相山山頂付近にあった寺)の僧侶が著した中世播磨の宗教・地理・歴史を記した書物。原本は本文冒頭の記述から貞和4(1348)年ごろに成立したと考えられる。現存する最善本は揖保郡太子町(いぼぐんたいしちょう)の斑鳩寺(いかるがでら)に伝わる写本で、奥書から永正8(1511)年2月7日に書写山別院(しょしゃざんべついん)の定願寺(じょうがんじ)で写されたものであることがわかる。活字化されたものは、『兵庫県史』史料編中世4(兵庫県史編集専門委員会、1989年)や、全文口語訳をした、西川卓男『口語訳『峰相記』――中世の播磨を読む――』(播磨学研究所、2002年)などがある。

宮本武蔵(みやもとむさし)

1584?―1645。江戸時代初めの武芸者。自らの著書『五輪書(ごりんしょ)』によれば、13歳から29歳までの間に60回余りの勝負をし、すべて勝利したという。大坂の陣(1614―1615)では徳川方として参陣したと考えられ、その後、姫路藩主本多忠刻(ほんだただとき)、明石藩主小笠原忠真(おがさわらただざね)の客分となって、姫路や明石の城下町・寺院建設、作庭などに関与したとされる。

寛永15(1638)年の島原の乱では小笠原氏に従って参陣、その後寛永17(1640)年に熊本藩主細川忠利(ほそかわただとし)に招かれて客分となる。寛永20(1643)年から『五輪書』の執筆を進め、正保2(1645)年熊本で没した。武芸をめぐる数々の伝説のほか、水墨画などの書画作品も残されている。

『めざまし草』(めざましぐさ)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻42収録。天正7(1579)年永良鶴翁(ながらかくおう)著。播磨国内のさまざまな奇談、逸話を集めたもの。著者の永良鶴翁については詳しくはわからないが、現在の市川町西部にあった永良荘(ながらのしょう)に居住した人物と見られている。なお、奥書には「芦屋道たつ」という人物が見えるが、これは『播陽万宝智恵袋』巻15収録の『播磨国衙巡行考証(はりまこくがじゅんこうこうしょう)』の著者である「芦屋道建」を指すと見られる。道建は、天正ごろ活動した人物であるので、本書も天正ごろの書物と見てよいだろう。

や行

柳田國男(やなぎたくにお)

1875―1962。1875(明治8)年、現在の福崎町西田原辻川区(ふくさきちょうにしたわらつじかわく、当時の兵庫県神東郡田原村辻川)に松岡操(まつおかみさお)の6男として生まれる。11歳の時辻川の旧家三木家に預けられ、同家の蔵書を濫読したという。13歳で長兄の鼎(かなえ)に引き取られ、茨城県利根町(いばらきけんとねちょう、当時の茨城県北相馬郡布川村)に転居した。

東京帝国大学に入学し、このころから兄井上通泰(いのうえみちやす)の紹介などで、田山花袋(たやまかたい)、島崎藤村(しまざきとうそん)などの文学者との交流を持つ。大学卒業後、柳田家の養子となり、農商務省に就職し、その後法制局参事官、内閣書記官記録課長、貴族院書記官長などを歴任する。

こうした官僚としての仕事の傍ら、『遠野物語(とおのものがたり)』の刊行や雑誌『郷土研究』の創刊など、後に自らが「民俗学」として確立させる分野の研究と組織作りを進めた。1919(大正8)年に官界を辞職、以後東京朝日新聞社客員などを経て、民俗学研究の確立に専念する。戦後も自宅に民俗学研究所を設立、日本民俗学会の会長を務めるなど活躍を続けた。1962(昭和37)年死去。著作集としては、『定本柳田國男集』全31巻+別巻5冊(筑摩書房)、『柳田國男全集』全36巻+別巻2(筑摩書房、刊行中)などがある。

山名氏(やまなし)

南北朝の内乱の中で、山陰地方を中心に勢力を広げた一族。南北朝最末期には一族で11ヶ国の守護職を持ち、「六分の一殿」とも呼ばれたが、明徳の乱(1391年)によって勢力を削減された。乱後は、但馬(たじま)などの守護職を一族で分有したが、嘉吉の乱(1441年)によって、赤松氏旧領国の播磨(はりま)、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、美作(みまさか=現在の岡山県北部)の守護職を獲得した。

応仁・文明の乱(1467―77年)では宗全(そうぜん)が西軍の主将となった。戦国時代前半には、播磨の再占領を目指して赤松氏と数度戦ったが、その後、但馬、因幡(いなば=現在の鳥取県東部)の一族間での争いや、重臣層の台頭によって次第に衰えていった。

但馬守護家は天正8(1580)年に羽柴秀吉(はしばひでよし)によって滅ぼされ、子孫は旗本となった。また、因幡守護家の子孫は但馬の村岡(むらおか=現在の香美町村岡区)に6,700石の領地を持つ上級の旗本(はたもと)として存続し、明治初年の高直しによって11,000石の大名となって廃藩置県を迎えた。

溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)

火山の噴火による噴出物が、地上に堆積したときに、自らが持つ熱と重さによって溶けて圧縮されることによってできる岩石。

ら行

利神城跡(りかんじょうし)

佐用町平福(さようちょうひらふく)にある城跡。播磨の西北部、美作市(みまさかし)を経て鳥取市(とっとりし)へ至る因幡街道(いなばかいどう)の沿道にある。伝承では中世においては赤松氏一族の別所氏(べっしょし)の城であったとされる。南方の口長谷(くちながたに)には、別所構跡(べっしょかまえあと)と伝える平地の領主居館の跡も残されている。

慶長6(1601)年に池田輝政(いけだてるまさ)が播磨に入ると、平福周辺で22,000石が甥の由之(よしゆき)に与えられ、現在遺構が見られる城郭の建設が始められた。山上に石垣造りの主郭を構え、山麓に城主屋敷、武家屋敷と街道沿いの町家などの城下町が形成された。元和元(1615)年からは輝政の6男である輝興(てるおき)が25,000石の平福藩を与えられ居城としたが、寛永8(1631)年に輝興が赤穂藩(あこうはん)を継承したことによって平福藩は廃藩、利神城も廃城となった。

流紋岩(りゅうもんがん)

火成岩のうち、マグマが急激に冷えて固まった火山岩の一種。成分のうち二酸化ケイ素が70パーセント以上のものをいう。

『六臣譚筆』(ろくしんたんぴつ)

姫路藩士が編纂した藩主酒井家にまつわる逸話を集成した書物。編者は松下高保、石本勝包、新井有寿、大河内規章、山川能察、藤塚義章の6人。もとは『官暇雑記(かんかざっき)』という書名であったが、享和元(1801)年に藩主酒井忠道(さかいただみち)が、6人の家臣が編纂した書物というところから『六臣譚筆』と命名した。

わ行

脇坂安治(わきざかやすはる)

1554―1626。近江国脇坂(おうみのくにわきざか=現在の滋賀県湖北町)出身の武士。羽柴秀吉(はしばひでよし)に仕え、天正11(1583)年の賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)で活躍、賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)の一人に数えられる。天正13(1585)年淡路洲本3万石の領主となる。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では、はじめ西軍に属したが、小早川秀秋らとともに東軍に寝返った。慶長14(1609)年伊予国大洲(いよのくにおおず=現在の愛媛県大洲市)5万3千石余に転封。寛永3(1626)年京都で没。子孫は後に播磨龍野(たつの=現在のたつの市)藩主となる。