あ行

【明石原人】あかしげんじん

1931年に古生物学者・考古学者の直良信夫(なおらのぶお)によって、明石市西八木海岸で発見された、ヒトの左寛骨(腰骨)の呼称。実物は1945年に空襲によって焼失した。石膏(せっこう)模型と写真が残されており、戦後、これを研究した東京大学の長谷部言人(はせべことんど)が、北京原人に近い人類と考えて「ニッポナントロプス・アカシエンシス」の名を与えたことから、明石原人と呼ばれるようになった。近年の研究では、現生人類(ホモ=サピエンス)と同じ特徴をもつとされ、原人説は否定されたため、単に明石人骨と呼ぶことが多い。

【赤松氏】あかまつし

中世播磨の豪族。赤松は佐用荘内の地名。赤松則村(円心)が足利尊氏に属し、新田義貞との戦いに勝利して守護に任じられた。後には備前、美作の守護にもなり、幕府の四職(ししき、室町時代の武家の家格。三管・四職と総称する。三管とは管領に任じられる、斯波(しば)、細川、畠山の三家、四職とは侍所頭人に任じられる、赤松、一色、山名、京極の四家をいう)として室町幕府の重臣となった。

しかし1441年に赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍足利義教を殺し、幕府軍の攻撃を受けて一族は没落した(嘉吉(かきつ)の乱)。その後赤松政則が再興したが、家臣であった浦上氏、宇喜多氏に領国を奪われ、さらには関ヶ原の戦いで西軍に属した赤松則房が戦死。一族は断絶した。

赤松義則(1358~1427)は、室町時代の武将。赤松満祐は義則の嫡男、政則は玄孫にあたる。

【悪党】あくとう

 本来は「悪者」を意味するが、日本史では、鎌倉時代末期から室町時代初めにかけて活動した、荘園領主(貴族)、幕府などに抵抗する、独立性をもった在地の集団(武士)をさす。悪党は中央政府から見た、「荘園を侵して荘園領主や政権に反抗する者」の呼び名である。鎌倉幕府打倒の戦いで知られる、河内国の楠木正成も悪党である。

【明智光秀】あけちみつひで

 戦国時代末~安土桃山時代の武将(1528?~1582)。美濃国守護の土岐氏(ときし)の一族とされるが、詳細は不明。織田信長に仕え、足利義昭の将軍擁立に関与した。信長の上洛後は、京都の公家・寺社などとの交渉役として活躍し、1571年には近江坂本城主となった。1575年から、信長による中国攻略にともなって丹波へ侵攻してこれを攻略。丹波一国の支配を認められた。1582年、京都の本願寺で信長を殺害したが、その11日後には羽柴秀吉と京都の山崎で戦って敗れ、敗走中に山城国小栗栖(おぐるす)で農民に殺害された。

【芦屋道満】あしやどうまん

 蘆屋道満とも記述する。

 平安時代中期の僧、陰陽師(生没年不詳)。道摩法師(どうまほうし)とも呼ばれる。道摩家は陰陽道の名家である。江戸時代の地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』では、播磨国岸村(加古川市西神吉町岸)の出身とする。安倍晴明の好敵手とされ、『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』によれば、藤原道長を呪殺しようとして安倍晴明に看破され、捕らえられて播磨へ追放されたという。

【安倍晴明】あべのせいめい

 平安時代中期の陰陽師(921~1005)。後に陰陽道を司る土御門家(つちみかどけ)の祖。賀茂忠行・保憲父子に陰陽・推算の術を学んで、式神を使い、天文を解する陰陽家となったという。事変を予知し、芦屋道満による藤原道長呪殺を防いだ逸話が伝えられている。

【アメノヒボコ】あめのひぼこ

 天日槍・天日矛とも書く。また、アメノヒボコノミコトともいう。

 記紀や『播磨国風土記』などに記された伝説上の人物。新羅の王子で、妻の阿加留比売(あかるひめ)を追って日本に来たという。その後、越前、近江、丹波などを経て但馬に定着し、その地を開拓したとされている。出石神社の祭神。

【有馬温泉】ありまおんせん

 神戸市北区にある温泉。『日本書紀』にもその記録があり、日本最古の温泉のひとつである。

 有馬温泉の最古の記録は『日本書紀』で、631年9月に舒明天皇(じょめいてんのう)が行幸して入浴したとある。その後衰微したが、行基が724年に再興。平安時代には白河法皇・後白河法皇も行幸し、『枕草子』にも三名泉としてあげられている。

 承徳年間(1097~1099)に山津波の被害を受けるが、建久2(1191)年に大和国吉野河上高原寺(かわかみこうげんじ)の住職仁西上人が再修、薬師如来を守る十二神将になぞらえ12の坊舎を建てた。豊臣秀吉はこの湯が気に入り、夫人を連れてたびたび訪れたという。江戸時代には貝原益軒(かいばらえきけん)が『有馬湯山記(ありまとうざんき)』を記し、湯治場として繁栄した。県内では但馬国の湯嶋(城崎温泉)とともに江戸時代一、二を競う名湯とされた。都から近い事、設備が整っている事、名所やみやげが多い事、湯の種類が多い事などの数々の魅力で、江戸時代から現在まで変わらず観光客をひきつけている。

 有馬は、地質学的には活断層「有馬高槻構造線」の西端にあり、断層の亀裂を通って地下深くから温泉水が噴出している構造だとされる。泉源によって泉質が異なり、塩分と鉄分を多く含み褐色を呈する含鉄強食塩泉、ラジウムを含むラジウム泉(ラドン泉)、炭酸を多く含む炭酸泉がある。空気に触れると着色する含鉄強食塩泉を「金泉」、それ以外の透明な温泉を「銀泉」と呼んでいる。温泉の熱源については定説がない。

【安志姫神社】あんじひめじんじゃ

 『播磨国風土記』に記された安師里(あなしのさと)の、里名の起源となった安師比売神(あなしひめのかみ)を祭る神社。安師比売は、本来は在地の巫女神であろうが、安師の名は、大和国の安師坐兵主神(あなしにいますひょうずのかみ)を勧請(かんじょう)したためとされている。

 安師坐兵主神は鉱業神であることから、安志姫神社を製鉄に関わる神社と考え、安師里が製鉄をおこなっていたという記述を目にすることがあるが、安富町一帯の地質からみて、安志里での鉄の産出は否定される。

 一方奈良時代には、宍粟郡の柏野里(かしわののさと、山崎町・千種町)、比地里(ひじのさと、山崎町)、安師里(あなしのさと、安富町)には山部が置かれていたことが明らかになっている。山部は朝廷に直属する山部連(やまべのむらじ)に統率された部民で、その名の通り山の産物を朝廷に納めることを務めとしていた。

 上記の里のうち、柏野里は風土記に「鉄を出す」と記されていることから、比地里、安師里などの山部も、その運搬などに関わった可能性は残されている。こうしたことから、本来は土地の巫女(みこ)神を祭っていた所へ、大和の鉱業神が勧請されて一体化した可能性が指摘されている。

【安間家史料館】あんまけしりょうかん

 安間家資料館は、天保元(1830)年以降に建てられた武家屋敷で、代々安間家の住宅として使用されてきたものである。安間家は、禄高(ろくだか)12石3人扶持(天保8年ころ)の徒士(かち)であった。住宅は、入母屋造り、茅葺(かやぶ)きで間口6間半×3間半,奥行き4間×2間半の曲屋であり、建築当初の形をよく残している。1994年に篠山市(現:丹波篠山市)の指定文化財となり、内部には安間家に残された古文書や日常に用いられた食器類や家具を始め、その後寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や資料を中心に展示している。

【伊弉諾神宮】いざなぎじんぐう

 淡路市多賀に所在する延喜式内社で、淡路国一宮とされる。祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)。『日本書紀』では、伊弉諾尊は幽宮(かくりみや)を淡路に構え余生を過したとされ、社伝では本殿の下がその陵墓としている。例祭は4月20日から3日間おこなわれ、淡路の春を代表する祭りとして多くの人でにぎわう。1月15日の粥(かゆ)占神事や季節ごとの湯立神事など古代からの神事も継承されている。また縁結びの神様としても有名で、神社では数多くの人たちが結婚式を挙げる。

【石の寝屋古墳】いしのねやこふん

 淡路市岩屋小字サセブの山頂に所在する。この山頂には合計8基の古墳があり、「石の寝屋」と呼ばれるのはそのうちの1号墳である。墳丘がほとんど流出して、横穴式石室が露出しているが、石室自体も崩壊して天井石はすべて落下している。北東方向に開口する石室は、現状で長さ5.3m、幅1.3m、高さ1.3mほどの規模とされている。

 他の古墳は、1号墳から南西に離れた位置にある。正式の調査がなされていないため、詳細は不明であるが、2号墳からは6世紀後半の須恵器が採集されており、1号墳もこれと大差ない年代のものと推定できる。

 『日本書紀』などの記述によるならば、允恭天皇(いんぎょうてんのう)は5世紀前半の人であり、古墳の年代とは100年以上の年代差があることになる。従って考古学的には、伝説を鵜呑(うの)みにするわけにはゆかないだろう。しかし古墳の数が少ない岩屋周辺にあって、明石海峡を望む位置にあることから、これらの古墳が海と深い関わりをもつ人物を葬ったものであろうという推測は、許されるのではないだろうか。

【出石城】いずしじょう

 豊岡市出石町に所在する城跡。天正2(1574)年に、山名氏によって有子山山頂に築かれた有子山城を端緒とする。天正8(1580)年に、有子山城は羽柴秀吉の但馬攻撃により落城した。慶長8(1604)年、小出吉英により有子山山麓に築かれた平山城が、現在の出石城跡である。本丸と二の丸を山腹に、三の丸を平地に配する梯郭式(ていかくしき)の城で、山頂の城へとつながる。

 小出氏の後は、松平氏、仙石氏と続き幕末に至った。明治元年にすべての建物が取り壊された。

【出石神社】いずしじんじゃ

 豊岡市出石町宮内に所在する式内社(しきないしゃ)。但馬国の一宮(いちのみや)。アメノヒボコを祭神とし、アメノヒボコが新羅よりもたらした八種神宝(やくさのかんだから)を祭る。

【和泉式部】いずみしきぶ

 平安時代中期の女性歌人。生没年不詳だが、974年あるいは976年生という説がある。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡の娘。和泉式部の名は、最初の夫である和泉守橘道貞の任国と、父の官名に由来する。

 道貞との間には、娘小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたが、やがて夫婦の間は破綻して別離。その後は為尊親王(ためたかしんのう)、敦道親王(あつみちしんのう)などとの恋の遍歴があったが、いずれも死別に終わっている。敦道親王との恋愛を物語風につづった『和泉式部日記』は有名であるが、式部本人の著述ではないとの説もある。

 後には、藤原道長の娘で一条天皇の中宮であった彰子に仕えているが、この時、彰子の傍には、紫式部、赤染衛門などの歴史に残る人材がいた。

 さらに藤原保昌と再婚し、保昌が丹後守に任ぜられると、共に丹後へ下ったとされる。和泉式部が50歳のころ、娘、小式部内侍が亡くなって、式部は悲しみに暮れた。保昌は1036年に亡くなったことがわかっているが、和泉式部晩年の消息はまったくわからない。

 現在、残っている歌は1500首を超え、『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集には276首もの歌が採録されている。特に恋歌や挽歌などの叙情的な和歌に、天分を発揮した。

【和泉式部歌塚】いずみしきぶうたづか

 書写山円教寺奥の院の、開山堂北側にある石製宝篋印塔(ほうきょういんとう)。和泉式部らが中宮彰子の供をして円教寺を訪れた際、性空上人は一旦これを拒絶したが、式部が詠んだ歌に感心して一行を迎え入れたという伝説にちなむものという。

【和泉式部供養塔】いずみしきぶくようとう

 加古川市野口町坂元所在。古くから和泉式部の墓として祭られている。旧山陽道沿いに立つ石製宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、室町時代初期の製作と考えられている。高さ255㎝。兵庫県指定文化財。

【和泉式部伝説】いずみしきぶでんせつ

 和泉式部の伝説は、東北から九州までの広い範囲に、数多く残っている。それは式部自身の恋多き生涯から多くの伝説が生まれ、それが中世、遊行の女性たちによって各地で語られたためであろう。またこうした女性遊行者が、「和泉式部」を名乗って、式部の伝説や古跡を残したという考えもある。

 柳田国男は、式部伝説がこのように多いのは「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。

 このことはまた、世阿弥の作と伝えられている謡曲『誓願寺』で、和泉式部が「歌舞の菩薩(ぼさつ)」として描かれ、後に芸能の世界の人々に和泉式部信仰が生まれたことと無縁ではないだろう。式部の墓所のひとつは、誓願寺に近い、京都市の新京極通りにある。

【一ノ谷の戦い】いちのたにのたたかい

 寿永3(1184)年に、現在の神戸市西部でおこなわれた源氏と平氏の戦い。この前年に都落ちした平氏は、西国で軍を再編して摂津福原へ進出した。これに対し京都に駐留していた源範頼(みなもとののりより)・義経軍は、後白河上皇による平家追討の宣旨を獲得して京都から福原へ向かい、生田、一ノ谷から大輪田の泊付近に布陣した平氏と戦った。この際、範頼・義経軍は二手に分かれて平家軍を急襲する。物語上有名な、義経による「鵯越(ひよどりご)えの逆落とし」である。戦闘は激戦となったが、平氏は多くの武将を失って四国へ敗走した。

【イチョウ】いちょう

 銀杏、公孫樹とも表記する。学名はGinkgo biloba。

 裸子植物イチョウ科に属するイチョウ類の中で、唯一の現存している種である。近縁の化石種は古生代から知られており、中生代のジュラ紀には世界的に分布していたが、現生のイチョウを除き、他の種はすべて絶滅した。広葉樹のように思われがちだが、針葉樹の仲間である。雌雄異株であるため、実は雌木にのみなる。

 イチョウの語源は、葉がカモの足に似ることから、中国語で鴨をさす「ヤーチャウ」がなまったとされる。

 実は銀杏(ぎんなん)と呼ばれ食用となるが、皮膚に触れるとかぶれなどを引き起こすことがある。また、食用とする種子の中には、神経伝達物質の生合成を阻害する成分が含まれ、けいれんなどを引き起こす恐れがあり、特に子供の場合には要注意とされる。大人の場合、1日あたりの摂食の目安は4粒程度とされるが、その一方で咳を鎮める効果があり、薬草として用いられることもある。

 現在日本で見られるイチョウは、中国で生き残ったものが持ち込まれたもので、その時期は平安時代後期~鎌倉時代とされている。ヨーロッパには17世紀に持ち込まれ、現在では世界各地で栽培されている。

 イチョウは大木となるが、大木では枝から垂れ下がった円錐形の突起を生じる場合があり、乳イチョウなどと呼ばれる。「乳が出るようになる」といった伝説も、こうしたところから生まれたのだろう。

【伊和氏】いわし

 『播磨国風土記』に、「伊和君」として記される古代豪族。『播磨国風土記』によれば、もと宍粟郡の石作里(いしづくりのさと)を本拠とし、飾磨郡の伊和里(いわのさと)に移り住んだとされる。伊和大神を奉じ、これを祭る伊和神社は、宍粟市一宮町に所在する。

【伊和中山古墳群】いわなかやまこふんぐん

 宍粟市一宮町伊和に所在する、古墳時代前期~後期の古墳群。伊和神社の南東にある丘陵上に、前方後円墳1基を含む16基の古墳が確認されており、うち1号墳と2号墳の発掘調査がおこなわれている。

 古墳群中最大の1号分は、全長62mをはかる前方後円墳で、竪穴式(たてあなしき)石室内に全長5mの木棺を埋葬していた。副葬品には国産の方格(ほうかく)T字鏡、環頭大刀(かんとうたち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鉄槍(てっそう)、鉄斧(てっぷ)、玉類がある。揖保川上流域における古墳時代史を研究する上で重要な古墳群である。

【伊和大神】いわのおおかみ

 宍粟市一宮町の伊和神社の祭神。大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)とも記されている。

 播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のアメノヒボコ(天日槍・天日矛とも書く)との土地争いが伝えられている。

 風土記には、宍粟郡から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

 なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。

【岩屋港】いわやこう

 本州、淡路、四国連絡の要地として、江戸時代から港の工事がくり返しおこなわれたが、風波が厳しいため挫折も多かった。現在のような港ができたのは、昭和10(1935)年のことである。

 岩屋港からは、淡路島の東岸を縦貫する国道28号線がのびており、明石海峡大橋開通後も、フェリーが本州との間を結んでいる。また岩屋漁港は淡路町の漁業産業の中枢で、タイ、タコ、イカナゴなど、瀬戸内を代表する海産物が水揚げされている。

【岩屋城】いわやじょう

 岩屋城は、慶長15(1610)年に淡路を領有した池田輝政が築城し、家臣の中村主殿助に守らせた。岩屋港付近を望む、標高31mの台地上にあり、徳川氏が大坂の豊臣方を包囲するための拠点であった。

 慶長18(1613)年に、由良成山に新城が築かれる際に岩屋城は取り壊され、新城の資材とされたため、城としての生命はわずか3年であった。石垣の大部分は、後に岩屋港の築造などに用いられたという。

【岩屋台場群と松帆台場】いわやだいばぐんとまつほだいば

 1853年のペリー来航以来、海防の強化を余儀なくされた幕府は、淡路島の防衛を徳島藩に命令。淡路の由良、洲本、岩屋などに台場が建設された。松帆から岩屋にかけての海岸線に、5か所の砲台(台場)が完成したのは、1863年ごろのこととされている。

 最大の台場は松帆に置かれた。M字形の台場が海に突出し、当時最新式の80ポンド砲4門を含む、13門の砲が備えられた。松帆台場の背後には、小型船が停泊するための港を設ける計画で開削がおこなわれたが、港口が風波によって破壊されることが度重なり、結局断念せざるを得なかった。このほかに、岩屋古城台場、龍松台場、拂川台場、松尾台場が置かれ、常時70人の兵が駐在したという。

 1863年7月に、幕府の軍艦朝陽丸を誤って砲撃するという事件があったが、いずれの台場も実戦には使用されず、明治維新後に取り壊された。

【魚住城】うおずみじょう

 明石市魚住にある、中世の城跡。南北朝時代、赤松長範によって築かれた。天正6(1578)年には、魚住頼治が毛利氏に味方し、別所氏が篭城(ろうじょう)する三木城へ兵糧を運ぶための基地となったが、羽柴秀吉によって妨げられ、成功しなかった。三木城の落城とともに廃絶。1998年の発掘調査によって、堀割(ほりわり)の一部がみつかっている。

【宇治拾遺物語】うじしゅういものがたり

 鎌倉時代初めごろに編集された物語集。編者、正確な成立年代は不明。全15巻からなる。仏教的な説話、舌切りすずめ、わらしべ長者のような民話など、さまざまな伝承を収録しており、民俗学的にも重要な資料である。

【右大臣】うだいじん

 律令政府における最高機関であった太政官の職のひとつ。太政大臣、左大臣に次ぐ地位である(ただし太政大臣は常に置かれるものではなかったため、実質的には第二位の職)。 左大臣を補佐する。菅原道真は899~901年に右大臣をつとめた。

【うだつ】うだつ

 民家で、妻の壁面を屋根より高く造った部分。また、建物の外側に張り出して設けた防火用の袖壁(そでかべ)。

【菟原郡】うばらぐん

 摂津国にあった郡のひとつ。現在の芦屋市・神戸市東灘区・神戸市灘区・神戸市中央区東部にあたる。兵庫県成立時にも郡名は存在したが、1896年に武庫郡に編入されて消滅した。

【駅家】うまや(単に駅:えき と記すこともある)

 律令期に、街道に置かれた駅伝制の施設。30里(約16km)ごとに設けられ、駅長、駅子(えきし)を配置した。厩舎(きゅうしゃ)、宿舎、厨家(くりや、炊事施設)などが設けられて、役人の職務のための旅行などの際、馬を乗り継ぎ、食料などを補給した。街道の格付けによって、準備される馬の数が異なり、山陽道の駅家では20頭を常備することとされていた。

 律令政府の変質に伴って平安時代中ごろからは衰退し、しだいに私人経営の宿がこれに替わるようになった。

【瓜生羅漢石仏群】うりゅうらかんせきぶつぐん

 相生市矢野にある石仏群。羅漢山ふもとの岩陰(幅7.7m、高さ5m、奥行き4m)に、釈迦三尊像(釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩)を中心として十六羅漢の石像が安置されている。伝説では、朝鮮の僧恵弁・恵聡(えべん・えそう、ともに『日本書紀』に記された飛鳥時代の渡来僧。恵弁は、蘇我馬子の仏教の師であったとされる)がここに隠れ住んで作ったというが、実際の製作年代は室町時代と推定されている。

【江井ヶ島の酒蔵群】えいがしまのさかぐらぐん

 江井ヶ島周辺は、17世紀ころから「西灘」とも呼ばれ、酒どころとして知られてきた。これは、東播平野の酒米と、良質の地下水に恵まれたためとされる。現在も、黒い焼き板壁の酒蔵が残り、レンガ造りのウイスキー蒸留所もある。

【絵島・大和島】えしま・やまとしま

 絵島は、岩屋港の東に浮かぶ島である。『枕草子』にも、「島は」と記されているほど、古くから知られた名勝であったようだ。砂岩が浸食されてできた奇観であるが、この岩盤はおよそ1500万年前に、砂や礫(れき)が水中に堆積してできたものである。

 その奇観のためか、国産み神話の「おのころ島」を、この絵島にあてようとする説もある。古来より名勝として人々に親しまれており、月見の名所として『平家物語』に出てくるなど、風光明美な場所として多くの文学にとりあげられている。

 絵島の頂上には、平清盛が大輪田泊を修築した時に、人柱にされようとした人たちを助け、自らが人柱になった松王丸の供養塔といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っている。近年は、毎年、中秋の名月の夕べに、「絵島の月を愛でる会」がおこなわれてにぎわう。

 絵島の南には、陸続きの小島があり、大和島と呼ばれている。山上にはイブキ群落があり、兵庫県の天然記念物に指定されている。

【絵馬】えま

 寺社に祈願するとき、および願いがかなってその謝礼をするときに奉納する、絵が描かれた木の板。奈良時代には生きた馬(神馬、しんめ)を奉納していたが、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、平安時代から板に描いた馬の絵で代用されるようになった。

【生石神社・石の宝殿】おうしこじんじゃ(「おおしこ」とも表記することがある)・いしのほうでん

 『生石神社略記』によれば、崇神天皇(すじんてんのう)の代に創建したとされ、背後の宝殿山山腹にある石の宝殿を神体として祭る。

 石の宝殿については、オオナムチの神とスクナヒコナの神が、出雲からこの地に来た際に、国土を鎮めるため、夜の間に石の宮殿を造営しようとしたが、阿賀の神の反乱を受けて造営が間に合わなかったという伝承(『生石神社略記』)、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ=物部守屋)が造ったという『播磨国風土記』の伝承などがある。古墳時代終末期の石棺や横口式石槨(せきかく)などとの関係を指摘する説、石棺の未製品とする説、火葬骨の骨蔵器外容器とする説、供養堂とする説などがあるが、製作年代については、7世紀代と考える人が多いようである。

【王子山焼】おうじやまやき

 文政元(1818)年から、明治2(1869)年まで、丹波篠山市王子山で焼かれた陶磁器。篠山焼とも呼ばれる。当初は篠山藩主青山忠裕により始められた「お庭焼」であったが、後には地元の商人が運営を引き継いだ。

 主に磁器を生産し、青磁、染付、白磁などが焼かれている。製品には花器、鉢、文房具、水差し、徳利、皿、置物などがある。

 文政11(1928)年に、欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)を招いて指導を受け、亀祐自身の作品も残された。

【応神天皇】おうじんてんのう

 第15代の天皇。4世紀末から5世紀初頭ころとされる。記紀では、この時期に渡来人と新技術の伝来があり、大規模な開発がおこなわれたとしている。陵墓に比定されている誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は、全長425mをはかり、墳丘の長さで第2位、体積では第1位の古墳である。

【大輪田泊】おおわだのとまり

 奈良時代に、僧行基が築いたと伝えられる摂播五泊(河尻・大輪田・名寸隅(なぎすみ)・韓・室津)のひとつ。平安時代末に、平清盛が港の前面に経ヶ島を築造して、風波にも安全な港とした。中世以降は兵庫津と称される。古代から続く瀬戸内航路の重要な港であり、現在の神戸港の原型といえる。

【処女塚古墳】おとめづかこふん

 神戸市東灘区御影塚町にある、古墳時代前期の前方後方墳。石屋川によって形成された、海岸線に近い砂堆(さたい)上にある。全長70m、後方部幅39m、前方部幅32mと推定されている。

 墳丘の整備に伴う発掘調査によって、葺石(ふきいし)の存在などが確認されているが、墳丘は全般に破壊が進んでいるという。後方部中央の埋葬施設は調査されていないが、通常の竪穴式(たてあなしき)石室ではないと考えられている。また、くびれ部に近い前方部で、箱式石棺1基がみつかっているが、これは古墳築造年代より新しい埋葬である。

 出土した土器には、鼓形器台(つつみがたきだい)などの山陰系土器が含まれており、西求女塚古墳と共通する要素として注目される。古墳の築造年代は、4世紀中ごろと推定されている。

【おもしろ昆虫化石館】おもしろこんちゅうかせきかん

 美方郡新温泉町千谷に所在する、昆虫化石の博物館。岸田川上流の小又川付近に分布する、約300万年前の照来層群から発見された、多数の昆虫化石が展示されている。昆虫化石が出土する場所は少なく、貴重な資料が保存・展示されている。

(毎週月曜休館、問い合わせ:0796-93-0888)

【温泉寺】おんせんじ

 兵庫県神戸市北区にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。有馬山と号する。本尊は薬師如来。縁起によれば、724年、行基によって開かれたとされ、仁西を中興の祖とする。

 1576年に火災で全山焼失したが北政所によって再建された。その後再び火災にあい、現在の薬師堂は1582年に建立されたものである。明治時代初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、豊臣秀吉が有馬大茶会を開催したとされる阿弥陀堂も含め、薬師堂以外の堂塔は全て取り壊された。その後、廃寺となった旧温泉寺の奥の院であった黄檗宗清涼院が寺籍を継いで現代に至る。

【陰陽師】おんみょうじ(おんようじ)

 律令国家で、中務省(なかつかさしょう)所管の陰陽寮に置かれた職員。天文、暦の算定、吉凶の占いをおこなう呪術師。陰陽道は、中世には貴族から武士へと広がったが、室町時代末ごろにはしだいに衰え、民間で占いや祈祷(きとう)、薬の製造などをするようになった。

か行

【加古川】かこがわ

兵庫県の南部を流れる一級河川。延長96km、流域面積1730平方キロメートルをはかる県下最大・最長の河川である。但馬・丹波・播磨の三国が接する丹波市青垣町の粟鹿山(あわがさん、標高962m)付近が源流で、途中小野市、加古川市などを流れ、加古川市と高砂市の境で播磨灘に注ぐ。

【伽耶院】がやいん

三木市志染に所在する天台系寺院。元は修験宗(しゅげんしゅう)に属する。山号は大谷山。縁起によれば、大化元(645)年に、法道仙人が山中の清水から毘沙門天の像を得て、孝徳天皇の勅により伽藍(がらん)を造営したのが始まりとされるが、正確な創建時期は明らかではない。歴代天皇の勅願所として保護された。

中世には、熊野詣でと修験道の隆盛を受けて栄え、全盛時には七堂伽藍130坊を有する大寺院となった。天正8(1580)年、羽柴秀吉による三木城攻めの際に兵火を受けて全山が焼失したが、その後、諸国大名の寄進などにより再建された。

本堂は、慶長15(1610)年再建という伝もあるが、解体修理時の所見などから正保3(1646)年ごろの再建とされている。堂内に、本尊の毘沙門天立像を安置する。また多宝塔は正保5(1648)年に再建されたもので、ともに重要文化財に指定されている。

このほか、鎮寺社として建てられた三坂明神社も、重要文化財に指定されている。

本尊は木造毘沙門天立像。正確な年代は不明であるが、像の様式から平安時代後期~末の作と考えられている。

【烏原古道】からすはらこどう

現在の神戸市兵庫区と、北区山田町を結んでいた古街道。平清盛が丹生山(たんじょうさん)に参詣する際に通った道とも言われ、古代には重要な道路であったと考えられる。明治44年に刊行された『西摂大観』(仲彦三郎編)によれば、湊川、石井川沿いに烏原越えの道が示されているという。その経路の概略は、兵庫区から石井川沿いに菊水山の西を通り、小部、北五葉を抜け、長坂山の東を越えて山田、丹生神社に至るというものであったとされる。

現在は神戸電鉄がこの道と重複しているほか、ダムの建設、ニュータウン開発などによって、多くの部分が消滅、通行不能、あるいは位置不明となってしまった。

【感状山城】かんじょうさんじょう

相生市森にある室町時代の城跡。14世紀初めに赤松則祐が築城した。標高240mの感状山頂を中心として、梯郭(ていかく)式縄張をもつ山城である。嘉吉(かきつ)の乱(1441)で廃城となったが、15世紀後半に赤松義村が再興した。

感状山城の名は、新田義貞の軍勢を50余日にわたり足止めをした功績により、赤松則祐が足利尊氏に感状を授かった事に由来する。中世山城の状態が良好に残されており、国指定史跡となっている。

【神奈備】かんなび(神南備とも表記する)

古代、神が鎮座すると考えられた山。神奈備山。

【岩瀧寺】がんりゅうじ

丹波市氷上町にある真言宗の寺院。寺伝によれば、弘仁年間(809~823)に、嵯峨天皇が霊夢にもとづいて、空海をこの地に派し、伽藍(がらん)を整備させたという。16世紀の後半に、兵火によって全山を焼失し、その後領主の別所重治により再興。18世紀以降も、九鬼氏(くきし)らによって堂宇の再興がおこなわれたという。

寺の背後をなす山地には、独鈷の滝、不二の滝と呼ばれる滝があり、特に紅葉の名所として知られる。

【北野天満神社】きたのてんまんじんじゃ

神戸市中央区北野町にある天満神社。福原遷都に際して平清盛の命により、新都の鬼門鎮護のために京都の北野天満宮を勧請(かんじょう)して、社殿を造営したのがはじまりとされる。

中世にはしばしば戦乱に巻き込まれ、湊川の戦いや、応仁の乱の際の兵庫津焼き打ちなどでも被害を受けたという。また織田信長による中国攻略の際には、毛利氏と結んだ荒木村重配下の花隈城に近かったため激戦に巻きこまれた。

江戸時代以降は北野村の鎮守として崇敬された。明治時代になり、神戸港周辺の外国人居留地が返還されると、神戸在住の外国人が北野町付近に館を構えるようになり、現在の異人館街が形成された。

【ギフチョウ】ぎふちょう

アゲハチョウ科に属するチョウ。年に一度、4月に現れ、その美しさから「春の女神」と称えられる。播磨地域では、幼虫はミヤコアオイ・ヒメカンアオイなどを食べて育つ。食草の関係から、播磨地域では、里山の雑木林が主な生息地となっていたが、開発による生息地の破壊と、雑木林の放置による荒廃で減少しつつある。環境省絶滅危惧種II類、兵庫県レッドデータブックBランク。

【行基】ぎょうき

奈良時代の僧(668~749)。河内国(かわちのくに)出身。父は百済系の渡来人であった。はじめ官大寺で修行したが、後に民間布教をおこなったため律令政府の弾圧を受ける。ため池や水路などのかんがい施設を整備しながら説教をおこない、広く民衆の支持を集めた。東大寺の大仏造営にも協力し、745年には大僧正となった。墓は奈良県生駒市の竹林寺にあり、1235年に金銅製の骨蔵器が発掘されたが、現在はその断片が残されるのみである。

【清盛塚】きよもりづか

神戸市兵庫区にある、「平清盛の墓」と考えられてきた石製十三重の塔。弘安9(1286)年の年号が刻まれており、鎌倉時代、北条貞時が諸国を巡行した際に建てたと伝えられている。塔は、かつて現在よりも11m南にあり、古くから清盛の墓として信仰の対象となってきた。1923年に道路拡張のため現在地に移転した際、塔周辺の発掘調査が実施されたが、墓の跡は発見されなかったため、供養のための石塔であったと考えられている。

【空海】くうかい

平安時代前期の僧(774~835)。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(しごう)で知られる、真言宗の開祖。最澄(伝教大師)とともに、奈良仏教から平安仏教への、転換点に位置する。また書道家としても知られ、嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」と呼ばれる。

空海は、讃岐国の豪族佐伯氏の子として、現在の香川県善通寺市に生まれた。15歳で論語、史伝等を学び、18歳で京の大学に入った。20歳ごろから山林での修行に入り、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『三教指帰(さんきょうしいき)』を著した。

延暦23(804)年、遣唐使留学僧として唐に渡る。804年~806年にかけて、長安の醴泉寺(れいせんじ)、青龍寺などで学んだほか、越州にも滞在して土木技術、薬学などを学んだ。806年に帰国。本来の留学期間20年に対し、実際の在唐はわずか2年であった。

帰国後、東寺(教王護国寺)を賜って真言宗の道場とし、816年には高野山に金剛峰寺を開いて真言宗の興隆につとめた。また私立学校として、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設した。

弘仁12(821)年、満濃池(まんのういけ、香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、当時の最新工法を駆使した工事を成功に導いたとされる。

承和2(835)年、高野山で入定(にゅうじょう)。なお真言宗では、空海の入定は死ではなく永遠の禅定に入ったものとしている。

「弘法大師」の諡号は、延喜21(921)年醍醐天皇より贈られたものである。従って、北海道を除く全国に5000以上あるという弘法伝説のほとんどは、空海の歴史的事跡とは関係がない。その成立には、中世に全国を勧進してまわった遊行僧である、高野聖(こうやひじり)の活動も関連しているとされるが、一方で、仏教のみにとどまらない空海の幅広い活動と、それに対する民衆の崇敬が、伝説形成の底辺にあることも確かであろう。

【雲部車塚古墳】くもべくるまづかこふん

丹波篠山市東本庄にある古墳時代中期の前方後円墳。全長142mをはかり、盾形の周濠(しゅうごう)をめぐらせる。明治29(1896)年に、当時の雲部村の人々によって後円部の石室が発掘され、その内容が精密に記録された。それによれば、石室は割石積みの竪穴式(たてあなしき)石室で、長さ5.2m、幅1.5m、高さ1.5mとされている。石室内には長持形石棺が置かれており、周囲の壁に設けられたL字形金具に掛けられたような状況で、槍や刀剣類が副葬されていたという。

この際には石棺の蓋(ふた)は開けられなかったが、石室内の副葬品として、刀34本、剣8本、鉾(ほこ)2本、鎧(よろい)鉢4点、鎧胴5点、鏃(やじり)107点が記録された。その一部は、現在京都大学に保管されている。

雲部車塚は、畿内から但馬、丹後へ抜ける交通の要衝に位置する大規模な前方後円墳であり、畿内政権と深い関係をもつ王の墓と考えられる。その後陵墓参考地に指定され、現在は宮内庁の管理下に置かれているため、新たな調査はおこなえない状況であるが、1896年の記録によって大型前方後円墳の埋葬状況を知ることができる、極めて重要な古墳である。

【黒井城】くろいじょう

丹波市春日町と市島町の境にある、猪ノ口山(365m)山頂にある城。足利尊氏の北条攻めに加わった赤松貞範が、その功績によって春日町周辺を領有して築城した。

西曲輪(くるわ)、本丸、二の丸、三の丸、東曲輪が並ぶ連郭式の山城で、東西170m、南北40mを測る。周囲9kmにわたる山地には、出城や館なども残る。

赤松氏の後、赤井氏、荻野氏が領有した。天文23(1554)年に城主となった荻野直正(悪右衛門)は、勇将とうたわれ、丹後、但馬へも勢力を伸ばしたが、明智光秀に攻められ、4年間にわたる戦いの後に落城した。その後、光秀の城代として斉藤利三が入った際、この地で生まれた娘が、後に徳川家光の乳母となった春日の局(かすがのつぼね)である。1989年、国指定史跡。

【景行天皇】けいこうてんのう

第12代の天皇。記紀には、全国を征討した天皇として描かれており、皇子ヤマトタケルによる熊襲、蝦夷の征討などの記述がある。143歳まで生きたとされるなど、伝説的要素が強く、史実性は確かではない。

【顕宗天皇】けんぞうてんのう

第23代の天皇。『日本書紀』によれば、在位は485~487年。名は弘計(おけ)。父の市辺押磐皇子(いちべのおしはおうじ)が、雄略天皇に殺されたために、兄の億計(をけ)とともに播磨に逃れ、雄略天皇の死後に名乗り出て即位したという。

【孝徳天皇】こうとくてんのう

第36代の天皇(596?~654)。在位は645~654年。大化の改新による蘇我氏本家滅亡をうけて即位した。皇太子は中大兄皇子で、実質的権力は中大兄皇子が握っていたとされる。難波長柄豊碕宮遷都などをおこなったが、中大兄皇子は天皇の意に反して、皇后や百官を率いて大和飛鳥へ戻り、取り残されたまま難波宮で病死した。

【小式部内侍】こしきぶのないし

平安時代中期の女性歌人(999?~1025?)。父は橘道貞、母は和泉式部。一条天皇の中宮であった藤原彰子に仕えたが、若くして病没。小倉百人一首の「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」の歌は有名。

当時、小式部内侍の歌は母の和泉式部が代作しているといううわさがあり、中納言藤原定頼が、歌合わせで歌を詠むことになった小式部に対して、「丹後国のお母さん(和泉式部は当時、夫の任国である丹後に下っていた)の所に、代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などと質問をしたのに対して、その場でこの歌を詠んだという。

その主旨は「大江山を越えて生野(丹後の地名)へと向かう道のりは遠いので、母のいる天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味である。この当意即妙の歌は、小式部の名を大いにあげたとされる。

【昆陽池】こやいけ

伊丹市昆陽にあるため池。奈良時代の高僧行基の指導で築造された、「昆陽の大池」である。1972年から都市公園として整備され、現在に至る。面積28.5haの池は、特に冬季の渡り鳥の渡来地として有名である。

【五輪塔】ごりんとう

墓、または故人を供養するために建てられた塔の一種。多くは石製。下から順に、基礎、塔身、笠(かさ)、受花(うけばな)、宝珠の五段に積み、それぞれが、地、水、火、風、空をあらわす。密教に由来し、平安時代中ごろから造られるようになった。

【昆陽寺】こんようじ

「こやでら」は通称。

伊丹市にある真言宗の寺院。山号は崑崙山(こんろんさん)。一般には「行基さん」の名で親しまれている。行基が建てた昆陽院(昆陽施院)が元になり、天平5(733)年、聖武天皇の勅願によって建立された。織田信長の兵火にあって16世紀後半に焼失したが、後に再建された。本尊の薬師如来は行基作と伝えられる。

観音堂と朱塗りの山門は県指定文化財。また、山門内に安置されていた持国天、多聞天の像は、平安時代中期の様式をもち、ともに県指定文化財となっている。

さ行

【篠山城】ささやまじょう

丹波篠山市北新町にある近世の平山城。1609年、徳川家康の実子松平康重が家康の命を受けて築城を開始し、15か国20大名を動員して、わずか6か月で完成したという

全体の平面は方形で、輪郭式(りんかくしき)と梯郭式(ていかくしき)を融合した形式となっている。本丸、二の丸、三の丸は石垣と土塁で囲み、二の丸と三の丸の間には内堀がめぐる。三の丸の外側に外堀がめぐり、北、東、南には馬出(うまだし)が設けられている。天守閣は当初から建設されなかった。

初代城主は松平康重。以後8代にわたって松平氏が藩主をつとめ、その後は青山氏6代が藩主となって明治維新を迎えた。

明治維新後に大書院を除くすべての建物が取り壊され、大書院も1944年に焼失、2000年に復元された。国指定史跡。

【佐用郡】さようぐん

播磨の北西部に位置し、宍粟郡、揖保郡、赤穂郡と岡山県の英田郡に囲まれた地域。『播磨国風土記』では「讃容郡」として記載されている。古くは「さよ」と呼ばれていた。

千種川上流に当たる佐用川流域の山間部では、古代から鉄を産出し、製鉄がおこなわれた地域と考えられる。中世には赤松氏が支配し、その後は山名氏、尼子氏、毛利氏などの支配を経て、羽柴秀吉が占領した。江戸時代には三日月藩(1万5000石)が置かれて、幕末まで継続。明治維新により姫路県、飾磨県を経て、明治9(1876)年に兵庫県に編入された。

2005年10月に、佐用・上月・南光・三日月の4町が合併して、現在の佐用町となった。現佐用郡は、佐用町一町で構成されている。

【山陽道】さんようどう

奈良時代に政府によって整備された、平城京から大宰府に至る道。古代では最大規模の街道で、幅6~9mの道路が直線的に設けられていた。平安京に遷都後は、起点が平安京となる。外国の使節が通行することが予想されたため、同様に整備された七街道の中で、唯一の大路に格付けされて最重要視された。途中には56駅が設けられていた。

江戸時代には、古代山陽道を踏襲して西国街道が整備され、現在の国道2号線も一部で重複しながら、これに沿って設けられている。

【塩野六角古墳】しおのろっかくこふん

姫路市安富町塩野に所在する、古墳時代後期(終末期)の古墳。標高150~160mの東面する山腹に、単独で築造されている。1990~1991年におこなわれた発掘調査により、一辺の長さが3.8~4.4m、対辺長が6.8~7.3mの六角形を呈する古墳であることが明らかになった。前面の墳丘裾(ふんきゅうすそ)には列石がみられる。

中心に、長さ4.4m、開口部幅1.1m、奥壁幅0.8m、高さ1.3mの横穴式石室が設けられている。石室内には礫(れき)を置いて棺台としているが、棺の跡などは見いだされていない。石室内からは、須恵器の長頸壺(ちょうけいつぼ)と坏(つき)が出土し、その形から7世紀中ごろのものとされている。被葬者は不明であるが、『播磨国風土記』に登場する山部氏をあてる説がある。

六角形の古墳は、ほかに奈良県マルコ山古墳、岡山県奥池3号墳の2基が知られるのみである。

【鹿が壺】しかがつぼ

地学上は甌穴(おうけつ、ポットホール)と呼ばれる。これは急傾斜の渓流の河床が岩盤であった場合、そのわずかな凹みにたまった礫(れき)や砂が、水流によって旋回することで岩盤をまるく浸食してできる。

甌穴自体は珍しいものではないが、鹿が壺の場合のように、多数の甌穴が群集する例はまれである。これは、基盤の岩石(流紋岩質溶結凝灰岩)が比較的均質、緻密で、谷の傾斜と同一方向の流理面があることが、甌穴の形成に適していたためとされている。

姫路市指定天然記念物。

【鹿の瀬】しかのせ

播磨灘唯一かつ最大の瀬(海域で特に浅い部分)で、最も浅い部分の深度は2m程度とされる。海底は砂質~砂礫質(されきしつ)で、イカナゴの主要な産卵場となっているほか、タイ、マダコなどをはじめとする多様な魚類の好漁場(明石・淡路の入会漁場)となっている。また近年では、ノリの養殖も盛んである。

【志染の石室】しじみのせきしつ

志染の窟屋(しじみのいわや)ともいうことがある。

三木市志染に所在する、自然の岩盤が浸食されてできた岩陰。『播磨国風土記』などでは、父市辺押盤皇子(いちべのおしはおうじ)を大泊瀬皇子(雄略天皇)に殺され、都を逃げのびた億計(をけ)、弘計(おけ)の二皇子が隠れ住んだ場所と伝えている。のちに弟の弘計が23代顕宗天皇、兄の億計が24代仁賢天皇となった。

現在、窟屋内にはわき水がたまっているが、ここに淡水性藻類の光り藻が発生することがあり、その際には水が金色に輝くことから、「窟屋の金水」と呼ばれている。

【守護】しゅご

鎌倉・室町幕府で、国単位に置かれた職。初期には惣追捕使(そうついぶし)と呼ばれた。明確な制度として成立するのは、源頼朝が挙兵した直後(1180)に、有力御家人を東国諸国の守護人に任じてからである。

守護は一国内の軍政を担当し、大番催促(おおばんさいそく:京、鎌倉の警護)、謀反人の追捕、殺害人の追捕を基本的権限とした。これを大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)という。南北朝期になると、守護はその任国に対する権限を強め、守護大名へと変質していった。

【性空】しょうくう

平安時代中期の天台宗の僧(?~1007年)。九州の霧島山や背振山で修行の後、播磨の書写山に入り円教寺を開いた。花山法皇(かざんほうおう)の2度にわたる行幸をはじめ、多数の支持者を得た。晩年は、姫路市夢前町に弥勒寺を建てて隠棲(いんせい)した。

【聖徳の王】しょうとくのおおきみ

聖徳太子(574~622)のこと(『播磨国風土記』印南郡の記述)。

【正福寺】しょうふくじ

新温泉町に所在する天台宗の寺院。天竜山と号する。848年に、慈覚大師が湯村温泉を開発した際に創建したと伝えられ、湯村温泉の荒湯を見下ろす高台に建つ。本尊は、平安後期の作とされる不動明王立像で、県指定文化財。境内に、正福寺桜と呼ばれる桜があり、県天然記念物に指定されている。

【正福寺桜】しょうふくじざくら

キンキマメザクラとヤマザクラの自然交配種とされる八重桜で、兵庫県の固有種といわれている。植物学者牧野富太郎により、「Prunustajimaensis」の学名が与えられている。がく片10枚、1つの花に雌しべが2~4本ある珍しい桜で、花と赤い葉が同時に育つため、満開のころは桜の木が真っ赤に見えるという。

【照葉樹林】しょうようじゅりん

温帯に見られる常緑広葉樹林の一つ。森林を構成する木に、葉の表面の光沢が強い樹木が多いのでこの名がある。本来本州の南西部以南では、照葉樹林が極相林(きょくそうりん、その地域で自然の変遷に任せたとき、最終的に到達する森林の姿。その地域の環境に適合して、長期にわたって安定する)であるが、開発や植林を通じてまとまった照葉樹林はほとんどが消失し、一部の山地や寺社の鎮守の森などで断片的に見られるだけとなっている。

【書写山円教寺】しょしゃざんえんぎょうじ

姫路市書写にある天台宗の寺院。書写山と号する。康保3(996)年、性空上人が開基。伝説によれば性空は、九州で修行して法華経を修めた後、瑞雲(ずいうん)に導かれて書写山に庵(いおり)を結んだとされる。

10世紀後半に、国司藤原季孝(ふじわらのすえたか)の寄進により法華堂が建設されて以降、堂宇の造営が盛んとなり、講堂、常行堂などの諸堂が建立された。翌年、円教寺の寺号をもって花山法皇の勅願寺となった。その後は、平清盛による一切経の施入、後白河法皇の参籠、後醍醐天皇の行幸など、天皇、貴族の手厚い保護を受けた。1331年には落雷によって堂宇の大半を焼失したが、守護の赤松氏の保護の下に復興に努めて再興した。

現在、円教寺の国指定文化財は下の通り。

<重要文化財>

(建造物)
大講堂・鐘楼・金剛堂・食堂・常行堂(常行堂、中門及び楽屋、舞台からなる)
護法堂(乙天社及び若天社)2棟・壽量院

(仏像)
木造釈迦如来及び両脇侍(わきじ)像
木造四天王立像
木造阿弥陀如来坐像(常行堂本尊)

【垂仁天皇】すいにんてんのう

第11代の天皇。記紀によれば、丹波から日葉酢媛(ひばすひめ)を迎えて皇后としたという。日葉酢媛が亡くなった時、野見宿禰(のみのすくね)の進言に従い、殉死に替えて土で作った人形を置いたとされる。埴輪の起源説話として著名。また『古事記』では、石棺作りや土器・埴輪作りの部民を定めたとしている。このほか、相撲の起源説話、天日槍(あめのひぼこ)渡来、田道間守(たじまもり)の伝説などが知られる。153歳まで生きたとされるなど、伝説的要素が強く、史実性は確かではない。

【菅原道真】すがわらのみちざね

平安時代前期の公卿(くぎょう)、学者(845~903)。菅公(かんこう)と称された。幼少より詩歌に才能を発揮し、33歳で文章博士(もんじょうはかせ、律令政府の官僚養成機関であった大学寮に置かれた教授職)に任じられた。宇多、醍醐両天皇の信任が厚く、当時の「家の格」を越えて昇進し、従二位右大臣にまで任ぜられた。しかし、道真への権力集中を恐れた藤原氏や、中・下級貴族の反発も強くなり、左大臣藤原時平が「斉世親王を立てて皇位を奪おうとしている」と天皇に讒言(ざんげん)したことで、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、同地で没した。

【畝】せ

日本古来の面積の単位。1畝は、約100平方メートル。

【石棺】せっかん

埋葬する遺体を納めるために作られた、石製の棺。石を組み合わせて作る場合と、一個の石をくりぬいて作る場合がある。日本での最古の例は縄文時代後期にさかのぼる。

古墳時代には、古墳に埋葬するためのさまざまな形式の石棺が製作された。その主要なものには、割竹形石棺、舟形石棺(ともに古墳時代前期)、長持形石棺(中期)、家形石棺(後期)がある。

【石棺仏】せっかんぶつ

石棺の部材を利用して作られた石仏。石棺の蓋(ふた)のような板状の石材をそのまま利用して、浮き彫りで石仏をあらわしたものが多い。加古川市、高砂市、小野市、加西市など、加古川流域西部に多く分布する。13~16世紀に製作されたものが多いと考えられている。

【瀬戸の岩戸の開削】せとのいわとのかいさく

『出石神社由来記』による伝承。かつて入江、あるいは潟のような状況であった豊岡平野を、瀬戸の岩戸(現在の豊岡市来日岳(くるひだけ)付近とされる)を開削することによって排水し、耕地として開拓したという内容である。

【仙人】せんにん

中国の神仙思想や道教の理想とする人間像。人間界を離れて山の中に住み、不老不死の法を修め、神通力を得てさまざまな術を有する人。また仏教では、世俗を離れて山林に住み、神通力をもつ修行者のことを指す。仏を最高の仙人という意味で、「大仙」、「金仙」ということがある。

【相応峰寺】そうおうぶじ

新温泉町に所在する天台宗の寺院。観世音山と号する。浜坂湾に突き出た岬にある、観音山山頂に本堂、そのふもとに里坊がある。行基が737年に開いたとされる。本堂には平安時代前期の十一面観音立像があり、国重要文化財に指定されている。

【装飾付須恵器】そうしょくつきすえき

古墳時代後期に見られる須恵器の一種。大型の壺(つぼ)、高坏(たかつき)、器台などに、ミニチュアの壺や人物・鳥・動物などの小像をつけたもの。ミニチュアの壺を多数つけたものは、「子持須恵器」と呼ばれることもある。

【袖壁】そでかべ

建物から外部へ突出させる幅の狭い壁。目隠し・防火・防音などのために用いられる。

た行

【醍醐天皇】だいごてんのう

 第60代の天皇(885~930)。在位は897~930年。藤原時平を左大臣に、菅原道真を右大臣に任じ、天皇親政による積極的政治の運営をして、律令政治が最後の光彩を放つ「延喜の治」を創出した。道真の失脚後は藤原氏の勢力が拡大した。

【太政官】だいじょうかん

 律令政府における行政の最高機関。八省を統括して政務全般をつかさどった。太政大臣、左大臣、右大臣、大納言で構成される公卿官(くぎょうかん)による審議を、少納言局、左右の弁官局が事務処理して、八省が実務をおこなうという体制がとられていた。

【大物】だいもつ

 大物浦は古くからの物流の結節点で、海の輸送と川・陸の輸送との変換点であった。海上を運ばれた物資はここで川船に積み替えられて都へ運ばれ、また西国を目指す人々にとっては海の玄関口でもあった。謡曲『舟弁慶』ゆかりの地としても知られている。『平家物語』にも記述がみられ、源頼朝に疑われ都落ちを決意した義経が、西国を目指して船出したのが大物浦であるという。大物浦にある大物主神社(おおものぬしじんじゃ)には、義経主従が一時身を潜めたという言い伝えが残り、境内には「義経・弁慶隠れ家跡」の碑がある。海上交通の要衝として栄えた大物の地にあるこの神社に、自分たちの航海の安全を祈願したのであろうか。大物浦を出発した義経たちは、祈りもむなしく大風に吹き戻されやがて吉野の地に落ちていく。

 今は埋め立てられ、海岸線は当時と比べると、はるか沖合いにある。埋め立てられた場所には、細長く伸びる公園があり、かつての大物浦の姿をしのぶことができる。

【平敦盛】たいらのあつもり

 平安時代の武将(1169~1184)。平経盛(つねもり)の子。一ノ谷の戦いで、源氏の熊谷直実に討たれた。横笛の名手といわれる。若くして悲劇的な死をとげたため、謡曲や歌舞伎などの題材となり著名である。敦盛にまつわる伝承は多く、「首塚」とされるものは須磨寺境内のものが代表的。

【平清盛】たいらのきよもり

 平安時代の武将(1118~1181)。保元の乱(1156)で後白河天皇の信頼を得、平治の乱(1159)では源義朝を討って平氏の権力を確立した。1167年には武士として初めて太政大臣に任ぜられ、娘徳子を高倉天皇の中宮とした。

 やがて後白河法皇と対立すると、1179年には法皇を鳥羽に幽閉して、院政を停止させるに至る。清盛はさらに高倉天皇を退位させて、自らの孫である3歳の安徳天皇(1178~1185)を即位させた。これにより、清盛の完全独裁化による平氏政権が成立。平氏の知行国は全国の半分を超え、一門の公卿(くぎょう)16人、殿上人30人余。「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる全盛時代となった。

 しかし平氏への権力集中は、旧勢力との対立や地方武士の離反を招く要因となり、1180年には、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)を奉じた源頼政の反乱が発生した。この反乱は鎮圧され、以仁王と頼政は敗死したが、以仁王の令旨(りょうじ、皇子による命令文)は全国へ飛び火し、同年夏には、源頼朝が北条氏と結んで挙兵した。平氏軍が頼朝軍の鎮圧に失敗(富士川の戦)すると、近畿でも寺社勢力を中心に反平氏の動きが強まった。このため清盛は、興福寺などを中心とした南都を焼き討ちしたほか、近江、美濃などに派兵して源氏勢力を鎮圧した。しかし反平氏勢力の蜂起はおさまらず、1181年には平氏の基盤である西国でも諸豪族が挙兵。また平氏方であった東国の豪族が頼朝によって討たれるなど、反乱が深刻化することになった。清盛はこうした危機のさ中、熱病(マラリアともいわれる)にかかり、京都で没した。

 清盛の墓は、京都、神戸など数か所にその伝承があるが、確定されていない。

【平経盛】たいらのつねもり

 平安時代末期の武将(1124~1185)。平忠盛の子、清盛の異母弟である。保元の乱の後、安芸、常陸、伊加などの国守を経て若狭守となる。以後、追捕使や朝廷の守護の任にもあたる。源氏との戦いがおこると、一門とともに西国へ落ち、1184年の一ノ谷の戦いで、息子の経正、経俊、敦盛らを失った。壇ノ浦の戦いで入水(じゅすい)。

【平頼盛】たいらのよりもり

 平安時代の武将(1131~1186)。平忠盛の五男。清盛の弟。通称は池殿、池大納言。平治の乱の時、生母の池禅尼が少年だった源頼朝の助命を清盛に嘆願した事により、平家滅亡後も本領を安堵(あんど)された。また、後白河法皇の信頼が厚く、法皇の処遇を巡って頼朝挙兵以前から兄・清盛とは不仲だったという。

 高倉上皇(安徳天皇の父)の『厳島御幸記』に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらたの誤りと思われる)という頼盛の家にて、笠懸流鏑馬(かさがけやぶさめ=馬上で駆けながら矢で笠を的にしたものを射ること)など仕つらせ御覧ぜられる。」と記しているので、荒田町にあった頼盛の山荘は、相当広い邸内であったろう。

【大宰府】だざいふ

 中世以降太宰府とも表記するが、歴史用語としては「大」の字を用いる。

 7世紀後半に、九州の筑前国(ちくぜんのくに)に設置された地方行政機関。外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、種子島の行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

【龍野城】たつのじょう

 たつの市龍野町にある城跡。別名朝霧城。16世紀初頭、赤松村秀によって、鶏籠山山頂に築かれた山城に始まる。天正5(1577)年に、城主赤松広英が羽柴秀吉に降伏して赤松氏の支配は終わった。

 江戸時代初め、本多政朝が龍野藩主となり、鶏籠山山麓に城を移した。その後、藩主は小笠原氏、岡部氏、京極氏と変わり、1672年に脇坂氏が入って幕末まで藩主をつとめた。

【竜山石】たつやまいし

 兵庫県の播磨地方南部に産出する、流紋岩質溶結凝灰岩(りゅうもんがんしつようけつぎょうかいがん)。高砂市竜山(たかさごしたつやま、標高92.4m)付近を中心に採掘されていたため、「竜山石」と呼ばれる。古墳時代から、石棺(せっかん)用の石材として用いられている。加西市長(おさ)、高室(たかむろ)などでも近似の石材を産し、同様に利用された。

【玉丘古墳】たまおかこふん

 加西市玉丘町に所在する、古墳時代中期の前方後円墳。古墳時代中~後期の、38基以上の古墳からなる玉丘古墳群の中核的古墳で、全長107mをはかり、周囲に馬蹄形の濠(ほり)を巡らせている。

 埋葬施設は古くに破壊されているが、後円部に長持形石棺の破片が散乱していることから、石室などを設けない石棺直葬と考えられる。刀剣、玉類などの出土が伝えられるが、今は所在不明である。周濠(しゅうごう)からは円筒埴輪のほかに、家形、鳥形、壺形(つぼがた)などの形象埴輪が出土している。

 加古川中流域最大の古墳で、畿内政権と密接な関係をもつ王墓と考えられる。

【丹波焼】たんばやき

 丹波篠山市今田町周辺で生産された陶器。丹波立杭焼、または立杭焼とも称し、瀬戸、常滑(とこなめ)、信楽(しがらき)、備前、越前とともに日本六古窯の一つに数えられ、その起源は平安時代末にさかのぼる。

 丹波焼は、古墳時代から続く須恵器生産の上に、常滑焼など東海系陶器の影響を強く受けて成立したが、室町時代にはその影響から脱して独自性を確立した。近世に入ると施釉陶器(せゆうとうき)の生産が始まり、釉薬や化粧土に独特の技法が用いられたほか、鮮やかな色絵陶器も生産されるようになった。太平洋戦争後は、近代的な工場による陶磁器生産に圧迫されたが、その苦境を乗り越えて現在に至っている。

 中世には壺(つぼ)、甕(かめ)、すり鉢などの日用器を主に生産し、この伝統は近世にも引き継がれて徳利など庶民生活に関わる焼物を生産したほか、高級品としての茶器の生産もおこなわれるようになった。1978年「丹波立杭焼」の名称で国の伝統的工芸品指定。

【千種川】ちくさがわ

 西播磨を流れる河川。兵庫、鳥取県境の三室山に源流をもち、西播磨西部を南流して瀬戸内海に注ぐ。全長67.6km、流域面積は752平方キロメートル。上流部の宍粟市千種町付近では、古代から製鉄がおこなわれ、河口の赤穂市では近世以降製塩業が発達した。環境省が定めた名水百選に選ばれた清流である。

【中宮】ちゅうぐう

 広義には、皇后、皇太后(先代の天皇の后)、太皇太后(先々代の天皇の后)の三者の総称。内裏の中央の宮に住むことからつけられた呼び名である。狭義には、平安時代以降一人の天皇に対し複数の后が立てられたとき、最初に立てられた后(正規の皇后)以外のものを指す。歴史用語では、狭義の意味に用いられることが多い。

【長幡寺(長坂寺)・遍照寺】ちょうはんじ・へんしょうじ

 伝承にある長幡寺は聖徳太子の創建で、二十八院をもつ大寺院とされ、現在明石市魚住町にある遍照寺は、その塔頭のひとつと伝えられる。長幡寺の正確な位置と規模は不明であるが、魚住町の長坂寺遺跡からは、奈良時代の瓦などが多数出土していることから、長幡寺にあたるとする説がある。長坂寺遺跡は古代山陽道に面しており、仮称邑美(おうみ)駅家もこの付近にあったと推定されている。

【長楽寺】ちょうらくじ

 明石市大久保町江井ヶ島にある寺院。行基の開基とされる。行基の位牌(いはい)、座像や、魚住泊(うおずみのとまり)を築造中に行基が彫ったという地蔵像などを伝えている。なお江井ヶ島周辺には、行基が開基と伝える寺院が多く、長楽寺から西の二見港までの間に、定善寺(じょうぜんじ)、薬師院(ボタン寺)、観音寺(行基作という観世音菩薩像)、威徳院などがある。

【通宝山弥勒寺】つうほうざんみろくじ

 姫路市夢前町にある、天台宗の寺院。書写山円教寺の奥の院とも呼ばれ、密接な関係がある。長保2(1000)年に、性空が隠棲(いんせい)して草庵(そうあん)を結んだのが始まりとされる。その後、花山法皇(かざんほうおう)が行幸し、播磨国司に命じて諸堂を建立させたという。

 14世紀後半に、赤松義則が建立した本堂と、本尊の弥勒菩薩および両脇侍像(わきじぞう、平安時代)は、国指定重要文化財。

【天神】てんじん

 天神は、本来「天の神」を指し、雷や雨の神として信仰されていた。しかし菅原道真が大宰府で没した後、京都では落雷の災害が頻発し、また醍醐天皇の皇子が次々と亡くなったため、これを道真のたたりと考えた朝廷は、京、大宰府に天満宮を置いて怨霊(おんりょう)を鎮めようとした。これ以降、道真を天神とする信仰が広がり、道真が優れた学者であったことから、学問の神としても信仰されるようになった。

【独鈷】どっこ

 とっこ、独鈷杵(とっこしょ)ともいう。

 密教で用いられる法具、金剛杵(こんごうしょ)の一種。鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状のもの。煩悩をうち砕き、人間本来の仏性をひきだす道具とされている。

な行

【長持形石棺・家形石棺】ながもちがたせっかん・いえがたせっかん

 長持形石棺は、古墳時代中期に盛行した石棺。底石の上に側石と小口石をはめ込み、かまぼこ形の蓋(ふた)をのせる。蓋石の各辺や側石の両端に1~2個の突起(縄かけ突起)を作り出す。加古川下流の竜山(たつやま)に産する石材で作られた例が多く、近畿地方中央部の大型古墳の埋葬施設に使用されているため、「王者の石棺」とされる。

 家形石棺は古墳時代中期に始まり、後期に普及する石棺の一種。蓋の頂上部が平坦で、そこから側面に向かって屋根状の広い斜面となる。棺身とあわせて家の形を連想させることから命名された。蓋の長辺に2個、短辺に1個の突起(縄かけ突起)を持つものが典型的である。棺身には、くり抜き式と組み合わせ式とが見られる。

 播磨地域で見られる長持形石棺・家形石棺は、いずれも竜山石(あるいは類同の高室・長などの石材)を用いたものである。

【名寸隅】なぎすみ

 万葉集で笠金村(かさのかなむら)が詠んだ浜。明石市大久保町江井ヶ島から、明石市魚住町の住吉神社付近とされている。

【西求女塚古墳】にしもとめづかこふん

 神戸市灘区都通にある、古墳時代前期の前方後方墳。海岸線に近い平地にある。全長98m、後方部幅50m、前方部端幅48mとされている(発掘調査による復元案による)。

 1986年から2001年にかけて、13次にわたって実施された発掘調査によって、その内容が明らかにされた。

 西求女塚古墳では、後方部中央に竪穴式(たてあなしき)石室が設けられており、三角縁神獣鏡7面、浮彫式獣帯鏡2面、画文帯神獣鏡2面、画像鏡1点と、剣、槍(やり)、鏃(やじり)、斧(おの)、ヤスなどの鉄製品などが出土した。また出土した土器の大部分は、山陰系の大型壺(つぼ)、鼓形器台(つつみがたきだい)などによって占められており、西求女塚古墳が山陰地方と深い関連を持つことが明らかになった。

 これらの成果から、西求女塚古墳の築造年代は、定型化された大型古墳の出現によって画される古墳時代の初頭、3世紀の中ごろに相当し、古墳としては最古の一群に属すると考えられている。古墳の成立過程や、成立期の近畿・中国地方の政治的関係などを知る上で、極めて重要な位置にある古墳である。

【若王子神社】にゃくおうじじんじゃ

 神戸市北区山田町福地にある神社。福地村の鎮守。勧請(かんじょう)は13世紀末ごろと考えられる。現在の建物は15世紀初めに再建されたもので、国の重要文化財。

 かつては神社に隣接して、大日如来を本尊とする若王山福寺があったが、寺が衰微した後は若王子神社に大日堂が付随する形となった。さらに明治の神仏分離令によって、大日堂にあった本尊が、村の菩提寺であった無動寺に引き継がれて現在に至っている。

【仁賢天皇】にんけんてんのう

 第24代の天皇。『日本書紀』によれば、在位は488~498年。名は億計(をけ)。父の市辺押磐皇子(いちべのおしはおうじ)皇子が、雄略天皇に殺されたために、弟の弘計(おけ)とともに播磨に逃れ、雄略天皇の死後に名乗り出て弟に次いで即位したという。

【根日女】ねひめ

 根日女命(ねひめのみこと)ともいう。『播磨国風土記』などによれば、根日女は国造許麻(くにのみやつこ こま)の娘で、億計皇子(をけおうじ)、弘計皇子(おけおうじ)の二人から求婚され、承諾したものの、皇子たちが譲り合って結局めとらなかったため、やがて年老いて死んだ。それを哀れんだ皇子たちは、山部小楯(やまべのおだて)を遣わして墓を造り、玉で墓を飾ったのでその墓を玉丘と呼び、墓がある場所を玉野と呼ぶようになったと伝えている。現在加西市にある玉丘古墳が、この玉丘の墓にあたるものとされている。

【農村歌舞伎】のうそんかぶき

 農村部で演じられる歌舞伎。土地の人々によって演じられる、素人芝居である。

 江戸時代になると農村部に歌舞伎が浸透し、職業的な劇団による歌舞伎の上演もおこなわれるようになったが、幕府は農民の遊興やこれにともなう金の消費を止めるため、遊芸、歌舞伎、浄瑠璃(じょうるり)、踊りなどを厳しく禁じ、歌舞伎関係者が村に入ることも禁止した(地芝居禁止令:1799年)。

 しかし村人自身が演じて、「神社に奉納する」という形式をとった農村歌舞伎は、容認せざるを得なかったようで、天保の改革などで厳しく取り締まられた時期はあったものの、江戸時代を通じて継続し、明治時代にも盛んであった。しかし昭和に入って戦時体制が強まると、地芝居そのものの継続ができず消滅していった。

 戦後は高度経済成長にともなって、農村そのものが変質してゆき、農村歌舞伎は失われていった。しかし近年、郷土の文化が見直されはじめて、兵庫県下でも葛畑(かずらはた)の農村歌舞伎、播州歌舞伎や、都市から郊外に移り住んだ住民なども参加する形態も見られるようになり、十指に余る農村歌舞伎、子供歌舞伎などが復活、上演されている。

 下谷上農村歌舞伎舞台は、江戸時代末に建てられたもので、代表的な農村歌舞伎舞台として国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。また、山田地区周辺には、各村に農村歌舞伎舞台が残されている。

【野島】のじま

 淡路市北西部の海岸に沿った地域。かつてこの付近には、現在よりも沖へ突出した「高く平らかなる野」があったと、江戸時代に編集された『淡路常磐草』に伝えられることから、『万葉集』などで詠まれた「野島の崎」は、この部分に相当するという考えがある。現在は浸食によって海岸線が後退してこのような地形は見られないが、伝説にいう鹿が上陸した野島海岸も、こうした場所が想定されていたかもしれない。

【野見宿禰】のみのすくね

 『日本書紀』に登場する人物。相撲の神。出雲国(いずものくに)出身で、天穂日命(あめのほひのみこと)の14世の子孫と伝えられる。垂仁(すいにん)天皇の命により、当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり、互いに蹴り合い腰を踏み折って勝った。その後、大和国当麻の地を与えられ、朝廷に仕えたという。

 『日本書紀』によると垂仁天皇の皇后の葬儀の時、殉死に替えて埴輪を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたとされるが、考古学的にはこうした埴輪起源伝説は誤りである。土師氏は代々天皇の葬儀を司り、後に姓を大江や菅原などに改めた(菅原道真は野見宿禰の子孫ということになる)。

 『播磨国風土記』では、播磨国の立野(兵庫県たつの市)で病により死去し、その地に埋葬されたとする。

は行

【廃仏毀釈】はいぶつきしゃく

 排仏毀釈とも書く。明治の初年、政府による神仏分離、神道国教化政策によっておこった、仏教に対する弾圧・排斥運動。1868年の神仏分離令によって、全国各地で神官や国学者などが中心となり、寺院、仏像、仏具などを破壊し、多数の寺院が廃寺となった。1875年に信教の自由が通達されて鎮静化。

【箱木千年家】はこぎせんねんや

 神戸市北区山田町衝原にある中世民家。「箱木家住宅」が正式名称である。箱木家は、山田庄の地侍で、14~15世紀にはこの地域の中心的な一族であったとされる。住宅は、かつては山田川に臨む台地上にあり、江戸時代にはすでに千年家と呼ばれていた。

 しかし1970年代におこなわれた呑吐(どんと)ダムの建設によって、住宅が水没することとなったため、解体、移築されたものである。

 移築の際におこなわれた調査により、姫路市安富町の皆河千年家(みなごせんねんや)とともに、現存する日本最古の民家であることが確認された。また解体前の箱木家住宅が、中世に建てられた母屋と、江戸時代中期に改築されたはなれを、江戸時代末期に一棟につないだ建物であったことも明らかとなっている。移築後は母屋とはなれを分離して、建築当初の状況が再現されている。国指定重要文化財。

【土師氏】はじし

 古代の豪族。姓(かばね)は臣(おみ)であったが、後に連(むらじ)、次いで宿禰(すくね)となった。アメノヒボコの14世孫である野見宿禰(のみのすくね)を始祖とし、土師部を率いて土器(土師器)、埴輪の製作や、天皇の葬儀に従事した。奈良時代以降、土師氏から菅原氏、秋篠氏、大枝(大江)氏などが分かれた。

【埴輪】はにわ

 古墳に立て並べた、日本固有の焼物。岩手県から鹿児島県にかけて分布する。古語で土あるいは粘土を意味する「ハニ」に通ずる。筒状の円筒埴輪と、人をはじめさまざまな器物や動物をかたどった形象埴輪とがある。

 起源は円筒埴輪の方が古く、弥生時代末に埋葬儀礼に用いられていた器台と壺(つぼ)が祖形である。形象埴輪は古墳時代前期後半頃から登場することから、野見宿禰を埴輪の始祖とする『日本書紀』の伝承は事実と相違する。

【播磨灘】はりまなだ

 兵庫県の播磨地域に面する、瀬戸内海東部の海域。東を淡路島、西を小豆島(しょうどしま)、南を四国によって画されている。面積は約2500平方キロメートル。近畿、中国、四国、九州を結ぶ重要な航路がある。

【播磨国風土記】はりまのくにふどき

 奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

【日岡古墳群】ひおかこふんぐん

 日岡山山頂からふもとにかけて分布する古墳群。主として古墳時代前期~中期にかけて築造されたと推定されている。日岡山頂には、陵墓として管理されている褶墓古墳(日岡陵)がある。全長80mの前方後円墳で、公開されている測量図からは整った古式前方後円墳とされているが、明治時代初頭に修築した際、円墳であったものに前方部を付け加えたという説もある。古墳時代前期の加古川下流地域を考える上で、重要な古墳群である。

【日岡山】ひおかやま

 加古川市日岡に所在する独立丘陵。加古川に面し、標高は51m前後である。山頂からふもとにかけて、日岡古墳群が広がっている。『播磨国風土記』によると日岡の語源は、景行天皇(応神天皇とする説もある)がこの丘に登ったとき、鹿が「比々(ヒヒ)」と鳴いたためだという。現在一帯は、公園としてさまざまな施設が整備されている。

【東求女塚古墳】ひがしもとめづかこふん

 神戸市東灘区住吉宮町に所在する、古墳時代前期の前方後円墳。住吉川右岸の海岸線に近い平地にある。墳丘の破壊が著しいが、全長約80m、後円部直径47m、前方部幅42mと推定されている。

 明治初年までは墳丘が残されていたが、壁土採取のために掘削され、その際に三角縁神獣鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡などの銅鏡6面、車輪石、鉄刀、勾玉(まがたま)、人骨などが出土した。また1900年ごろにも、2面の鏡片が出土している。こうした破壊の際に、後円部より石材が出土していることから、埋葬施設は竪穴(たてあな)式石室であったと推定されている。

 さらにその後、阪神電車による前方部の土取りがおこなわれ、後円部もしだいに削平を受けて、ほとんど痕跡をとどめないまでになった。1982年に前方部の一部が発掘調査され、かつて周濠(しゅうごう)が存在したこと、墳丘に葺石があったことなどが明らかになった。

 東求女塚古墳が築造されたのは、出土遺物や前方部の形態などから、4世紀後半でもやや新しい時期とされている。

【光り藻】ひかりも

 淡水産の微細藻類で、不等毛植物門、黄金色藻綱に属する。水面に浮かんだ部分が光を反射して黄金色に輝く。生活史の1段階で、水をはじく性質をもつ脚をのばすため、この時期に体が水面に浮かぶ。国内で初めて発見された千葉県竹岡では、国の天然記念物に指定されている。

【兵庫県レッドデータブック】ひょうごけんれっどでーたぶっく

 兵庫県の健康生活部環境局自然環境保全課が編集した、県下において保全・保護の重要度が高い環境、生物を選定・収録した報告書。2003年に改訂版が刊行されている。選定されているのは、動植物種、植物群落、地形、地質、自然景観で、それぞれ基準を設定して重要度別に区分されている。

【兵庫の貴重な景観】ひょうごのきちょうなけいかん

 兵庫県の健康生活部環境局自然環境保全課が選定した、『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』で選定された景観。ここでは景観を、「視覚的な美しさと緑や自然の質(生態系)を包合した概念」としてとらえており、景観資源的価値と自然的価値の両面から評価されるものを貴重な自然景観とし、A~Cランクで合計207か所が選定されている。

【屏風ヶ浦】びょうぶがうら

 明石市八木から江井ヶ島に至る約1.4kmの海岸線。海に面して、高さ10mほどのがけ面が続くため、この名がある。

【平野祇園遺跡】ひらのぎおんいせき

 神戸市兵庫区の平野交差点付近に広がる遺跡。1993年に発掘調査がおこなわれ、貴族の庭園と考えられる石組みの池跡がみつかった。周辺からは大量の土器をはじめ、瓦、中国産陶磁器類も出土したが、建物跡はまだ確認されていない。福原京の一部を形成していた、平氏一門の邸宅などと関連が深いと思われる。

【褶】ひれ

 比礼・領巾とも書く。

 古代、女性が着用したスカーフの一種。薄い細長い布で作られ、女性が首から肩にかけてめぐらせ、長く垂らした。装飾的な効果だけではなく、これを振ることで破邪の呪力があるとされていた。中世以降はしだいに使用されなくなった。

【尋】ひろ

 日本古来の長さの単位。1尋は約1.82m。

【福原京】ふくはらきょう

 平安時代末のわずかな期間、現在の神戸市兵庫区に置かれていた都。平清盛は、1180年6月にこの地へ遷都したが、実質的な都の造営はおこなわれず、同年11月に再び京都へ戻った。1183年に平氏が都落ちした際、福原は焼き払われた。

【藤無山】ふじなしやま

 宍粟市と養父市の境界をなす山地にある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山である。尾根筋付近は植林地となっている。

【藤原豊成】ふじわらのとよなり

 奈良時代の貴族(704~766)。難波大臣。737年におきた天然痘の流行で父と兄弟が急死したために、藤原氏の中心人物として浮上した。

 749年に右大臣となったが、弟藤原仲麻呂と対立して政権の外に押し出され気味となり翌年の橘奈良麻呂の乱に連座して大宰府に流されることになった。しかしこれに抗議し、「病気」と称して難波にあった自分の別荘に籠ったため、大宰府行きは無期延期状態となり、そこで8年間の隠遁(いんとん)生活を送った。764年、仲麻呂が道鏡排斥に失敗して殺害された後(藤原仲麻呂の乱)、従一位右大臣として政権の中枢に復帰した。

【古法華石仏】ふるぼっけせきぶつ

 加西市西長町古法華に所在する、白鳳期(7世紀後半)の石仏。浮彫如来像および両脇侍(わきじ)が、この地域に産する流紋岩質溶結凝灰岩に刻まれており、日本の石仏中、最も古いものの一つとされる。過去に火災に遭っており、一部が剥落している。

 縦102cm、横72cm、厚さ20cmの板石の表面に、高さ46cmの中尊と、蓮華座上に立つ脇侍を半肉彫りとし、中尊の上に天蓋、脇侍の上に三重の塔を刻んでいる。

 この三尊石仏上が、錣(しころ)葺きの屋根をかたどった石造の屋蓋に覆われていることから、これらは三尊石仏を奥壁とする石造厨子(ずし)として作られたと考えられており、その形式は法隆寺の玉虫厨子を想起させるという。1951年国指定重要文化財。

【分水界・分水嶺】ぶんすいかい・ぶんすいれい

 雨が、二つ以上の水系へ分かれて流れる境界。通常は山の稜線(りょうせん)が分水界となる。

【平荘湖古墳群】へいそうここふんぐん

 加古川市平荘町の人造湖である平荘湖とその周辺に分布する古墳群。平荘湖のために約50基が水没した。最も古い古墳は、5世紀後半にさかのぼるが、大部分の古墳は6~7世紀に築造されたものである。平荘湖古墳群の中には、百済系といわれる初期の須恵器を出土した池尻2号墳、金銅製(こんどうせい)の馬具、金糸などを出土した池尻15号墳、金製垂飾付(たれかざりつき)耳飾を出土したカンス塚古墳など、注目される古墳も多い。

【弁慶】べんけい

 鎌倉時代前期の僧(?~1189)。源義経の従臣で、武蔵坊と号した。『平家物語』、『義経記』などで豪傑として描かれて伝説化した。それによれば、義経に従って数々の軍功を立て、衣川の戦いで戦死したとされる。その生涯、事跡などについては伝説的な部分が多い。

【法皇】ほうおう

 正式には太上法皇という。太上天皇(天皇の位を譲った人。略して上皇という。)が出家した場合の称。

【宝篋印塔】ほうきょういんとう

 本来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めるための塔。日本では平安時代末ごろから作られるようになり、鎌倉時代中ごろからはその役割が、墓碑や供養塔に変化していった。多くの場合石塔である。

【法道仙人】ほうどうせんにん

 法華山一乗寺を開いたとされる、伝説上の仙人。他にも数多くの、近畿地方の山岳寺院を開いたとされる。法道仙人についての最も古い記録は、兵庫県加東市にある御嶽山清水寺に伝わる1181年のものである。

 伝説によれば、法道仙人は天竺(てんじく=インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)に住む五百侍明仙の一人で、孝徳天皇のころ、紫雲に乗って日本に渡り、法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)を開いたという。千手大悲銅像(千手観音)と仏舎利(ぶっしゃり)、宝鉢を持って常に法華経を誦し、また、その鉢を里へ飛ばしては供物を受けたので、空鉢仙人とも呼ばれたとされる。室町時代初期に著された『峰相記(みねあいき)』には、播磨において法道仙人が開いた寺として、20か寺があげられている。

【法華経】ほけきょう

 妙法蓮華経の略称。釈迦の耆闍崛山(ぎしゃくつせん)における8年間の説法を集めたものとされる。この経典の霊験功徳は、どのような障害も克服できると信じられている。日本では606年に聖徳太子が講経して以来重視され、諸国に法華滅罪の寺(国分尼寺)が建立された。天台宗、日蓮宗などが、この経典を根本として成立。

【法華山一乗寺】ほっけさんいちじょうじ

 兵庫県加西市にある天台宗の寺院。西国三十三箇所第26番、および播磨西国三十三箇所第33番札所である。山号は法華山、本尊は銅造聖観音立像。

 開基は法道仙人とされる。寺伝によれば法道仙人は、大化5(649)年に孝徳天皇に召されてその病気平癒を祈ったが、その霊験があったため、翌年天皇の勅願により堂宇が建立されたという。

 この説話が史実であるとは考えにくいが、本尊の銅造聖観音立像は白鳳期の作とされるため、寺の開基もこの時期だと言われている。北方2.5kmの笠松山山麓には、「古法華(ふるぼっけ)」の地名が残り、白鳳期の石仏も現存するため、一乗寺は本来この付近にあったと言われている。現在の位置に移った年代は、現存最古の建造物である三重塔(1171年建立)以前であろう。

 1523年には、兵火によって堂宇を焼失したが、1562年に赤松義祐により再興。さらに火災を受けるが、1628年に姫路城主本多忠政の援助で本堂などが復興した。

 国宝に指定されている三重塔は、この形式のものとしては日本国内屈指の古塔である。

 下記のような国宝、重要文化財のほか、県指定文化財多数。

<国宝>
三重塔・聖徳太子及天台高僧画像

<重要文化財>
金堂(本堂)・護法堂・弁天堂・阿弥陀如来五尊画像・五大力吼画像・聖観世音菩薩立像・ 木造法道仙人像・僧形座像・石造五輪塔

ま行

【万勝院】まんしょういん

 上郡町の富満高原(とどまこうげん)にある真言宗の寺院。正式には大通宝山富満寺(おおつぼさんとどまじ)万勝院という。富満寺万勝院は、奈良時代行基によって創建されたと伝えられるが、嘉吉の乱で荒廃し、その後赤松氏によって復興された。江戸時代には池田輝政によって6院33坊が造られて、富満寺と称したが、明治時代に5院が廃され、万勝院のみが残ったという。空海にもゆかりの寺とされる。境内裏手の山の斜面にボタン園が設けられ、牡丹寺と呼ばれる。

【万葉集の処女塚伝説】まんようしゅうのおとめづかでんせつ

 『万葉集』で、処女塚伝説に関連した歌を詠んでいる歌人、および歌は下記のとおり。

高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の歌

  葦屋の 菟原処女の 八年児の 片生ひの時ゆ 振分髪に 髪たくまでに 並びゐる 家にも見えず 虚ゆふの 隠りてをれば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の誂ふ時 千沼壮士 菟原壮士の 伏せ屋焼く 進し競ひ 相結婚ひ しける時は 焼太刀の柄おし撚り 白檀弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく 倭文たまき 賤しき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも あふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 千沼壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地に伏し 牙喫みたけびて もころ男に 負けてはあらじと かき佩の 小劒取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 こなたかなたに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも(巻9-1809)

反歌

葦屋の 菟原処女の 奥津城を 往き来と見れば 哭のみし泣かゆ(巻9-1810)

墓の上の 木の枝なびけり 聞きしごと 血沼壮士にし 依りにけらしも(巻9-1811)

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌

  葦屋の処女の墓を過ぎしる時作れる歌一首併びに短歌 古の ますら壮士の 相競ひ 妻問しけむ 葦屋の 菟原処女の 奥津城を わが立ち見れば 永き世の 語にしつつ 後人の 偲びにせむと 玉ほこの 道の辺近く 磐構へ 作れる塚を 天雲の 退部の限 この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ 或人は 哭にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎ来し 処女らが 奥津城どころ 吾さへに 見れば悲しも 古思へば (巻9-1801)

反歌

古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥津城ぞこれ (巻9-1802)

語りつぐ からにもここだ 恋しきを 直目に見けむ 古壮士 (巻9-1803)

大伴家持(おおとものやかもち)の歌

処女墓の歌に追ひて同ふる一首併に短歌

古に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 血沼壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 相争ひに 妻問しける をとめらし 聞けば悲しき 春花の にほえさかえて 秋の葉の にほひに照れる 惜しき 身の壮すら 丈夫の 語いたはしみ 父母に 啓し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝暮に 満ち来る潮の八重波に なびく玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥墓を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に しのひにせよと 黄楊小櫛 しか刺しけらし 生ひてなびけり (巻19-4211)

処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛 更り生ひて なびきけらしも (巻19-4212)

【御出石神社】みいずしじんじゃ

 豊岡市出石町桐野にある式内社(しきないしゃ)。アメノヒボコと出石乙女が祭られている。出石乙女は『古事記』において、八種神宝(やくさのかんだから、アメノヒボコが新羅からもたらした宝物)を神とした「伊豆志之八前大神」の娘とされる。多くの神に求婚されたがこれを退けて、春山之霞壮士(はるやまのかすみおとこ)と結ばれるという伝説が語られている。

【三木城】みきじょう

 三木市上の丸町に所在する、室町時代~江戸時代初期の平山城跡。

 中世の東播磨を支配した別所氏が、守護の赤松氏からこの地を与えられて築城した。戦国期には浦上氏、尼子氏、三好氏などの攻撃を受け、落城と回復を経験した。その後別所氏は勢力を拡大して自立していったが、毛利氏と結んで織田信長に背いたため、天正6(1578)年から2年に渡って織田方の羽柴秀吉による攻撃を受け、天正8(1580)年に落城。

 秀吉との戦いは「三木合戦」と呼ばれ、別所長治との間で激しい攻防戦があったが、特に補給路を断つ兵糧攻めは、俗に「三木の干殺し」と言われるほど悲惨なものだったという。この結果、長治は城兵の命と引き替えに切腹し、別所氏は滅びた。

 本来の城郭は現在の三木市街地部分も含むものであったが、本丸周辺だけが上の丸公園として残っており、別所長治の辞世「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」の歌碑が建てられている。

【御食国】みけつくに

 日本古代から平安時代まで、天皇や皇族の食物のうち、海水産物を中心とした副食物を献上した国の総称。

【皆河の千年家】みなごのせんねんや

 姫路市安富町皆河に所在する。正式な名称は古井家住宅。1967年重要文化財指定。千年家の名称は、安志藩の丸山政煕(まるやままさひろ)による『播州皆河邨千年家之記』(1836)が初出。それによると、秀吉が姫路城築城の際に、この家が無災の千年家と聞き、この家の垂木の一部を築城の材に用いたという伝承が残っている。

 入母屋造り、草葺(ぶ)き屋根の家屋で、正面7間(13.9m)、側面4間(8.1m)の規模をもつ。現在の建物は、1970年の修理工事を経て、建築当初の状況に復元(一部推定復元)されている。

 建築上は、畳敷きを全く念頭に置かない間取り寸法であること、正面の間取りが1室、背面の間取りが2室の3室構造となっていること(あるいは正面背面ともに1室の可能性もあるという)、土間と部屋の構造が同じであり、大黒柱をもつような上部構造ではないこと、柱間の寸法が不ぞろいであることなどから、室町時代後期ごろの建築と推定されている。

 神戸市北区の箱木家住宅(箱木千年家)と並び、日本でわずか二棟残された最古の中世民家であり、民家建築の歴史を知る上で極めて重要な建築である。

【源義経】みなもとのよしつね

 平安時代後期の武士(1159~1189)。清和源氏、源義朝(みなもとのよしとも)の九男で、源頼朝、範頼の異母弟にあたる。『平治物語』、『平家物語』、『義経記』などにその生涯が語られるが、記録による裏付けができないものが多い。

 頼朝の挙兵とともに参戦し、源義仲追討、平氏追討などに顕著な活躍をしたが、しだいに頼朝と不和となり、平氏滅亡後、頼朝に無断で官位を得たことを契機として対立した。頼朝による追討を受けて、近畿から東北の平泉(岩手県南部)へ逃れ、一時は奥州藤原氏(藤原秀衡、ふじわらのひでひら)の庇護(ひご)を得たが、秀衡の死後、後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は頼朝の圧力に抗しきれず、義経を襲撃して自刃させた(衣川の戦い)。

 英雄的な活躍と、その後の悲劇的終末から、物語を通じて多くの人の同情を呼び、「判官びいき」といった言葉を生んでいる。

【峰相記】みねあいき

 1348年ごろに著された中世前期の播磨地方の地誌。著者は不明である。播磨国峯相山鶏足寺(ぶしょうざんけいそくじ)に参詣した僧侶と、そこに住む老僧の問答形式で著されている。日本の仏教の教義にはじまり、播磨の霊場の縁起、各地の世情や地誌などが記されている。安倍晴明(あべのせいめい)と芦屋道満(あしやどうまん)の逸話、福泊築港、悪党蜂起の記述など、鎌倉時代末の播磨地域を知る上で重要な記録となっている。最古の写本は、太子町斑鳩寺(はんきゅうじ)に伝わる1511年の年記をもつもの。

【無動寺】むどうじ

 神戸市北区山田町福地にある真言宗の寺院。若王山(にゃくおうさん)と号する。現在の無動寺の位置には、かつて若王山福寺があったが、衰微して明治時代に廃寺となった。その福寺跡に、村の菩提寺であった無動寺が移転して現在に至っているという。寺伝によれば福寺は、聖徳太子が物部守屋(もののべのもりや)との戦いの勝利を念じて作らせた仏像を、本尊として創建されたという。その正確な創建年代は不明だが、現在無動寺に所蔵される仏像の製作年代から、平安時代後期には成立していたものと思われる。

 所蔵される、大日如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像の三尊仏、不動明王坐像、十一面観音立像は、いずれも平安時代後期の仏像として、国の重要文化財に指定されている。

や行

【山田庄】やまだのしょう

 現在の神戸市北区山田を中心とした地域にあった荘園。平安時代には東大寺領であったが、後に平清盛が領有し、平氏滅亡後は源頼朝が接収されて、京都市内にあった若宮八幡宮に寄進された。

 播磨国淡河庄(おうごしょう)と境界を接し、室町時代に至るまで境界争いが絶えなかった。

 南北朝期には、南朝方の拠点となったため、北朝方の赤松氏との間で戦闘が繰り返された。また織田信長の中国地方攻略に伴い、三木城の合戦が起きると、別所長治は花熊城・丹生寺城・淡河城から三木城までの食糧運搬ルートを確保しようとしたため、羽柴秀吉は、この切断のために丹生寺城を攻略した。

【山田道】やまだみち

 現在の神戸市北区山田町の、中央を流れる山田川に沿って、東西にはしる街道。古代から山陽道の裏道として利用されていた。西宮市の生瀬から、有馬温泉、三木市までを結ぶ道を湯山街道(ゆのやまかいどう)というが、この湯山街道の西半にあたる、三木~有馬間の北回りの淡河道(おうごみち)であり、南回りが山田道であった。

 山田道は古代から、都に通じる山間の動脈として利用されたため、さまざまな文化が流入し、周辺には数多くの文化財が残されている。

【大和物語】やまとものがたり

 平安時代前期に成立した歌物語。作者は不明。2巻からなり、前半は和歌を中心とした物語、後半は伝説・説話的性質をもつ。

【弓削の大連】ゆげのおおむらじ

 物部守屋(?~587)のこと。仏教を排斥して蘇我氏(そがし)と対立し、滅ぼされた。

【夢野】ゆめの

 神戸市兵庫区夢野町付近を中心とした地域。六甲山系の菊水山(458.8m)からのびる尾根のふもとにあたり、標高は50m前後である。

【由良川】ゆらがわ

 兵庫県・京都府北部を流れる河川。丹波高地の三国岳(標高959m)に発し、北流して、舞鶴市と宮津市の境界をなしつつ若狭湾に注ぐ。兵庫県丹波市からの支流である黒井川は、同市氷上町石生に発するが、加古川水系の高谷川もここから流下する。両川の分水嶺(ぶんすいれい)は標高94.5mで、太平洋側と日本海側を分かつ本州中央分水界では最も標高が低く、古来水分れ(みわかれ)と呼ばれる。宮津市由良は、かつては由良川水運の港として栄えた。

ら行

【来迎寺(築島寺)】らいこうじ(つきしまでら)

 神戸市兵庫区島上町にある浄土宗の寺院。経島山(きょうとうざん)と号する。大輪田泊築港との関連から、築島寺と呼ばれている。大輪田泊修築に際し、人柱となった松王丸の菩提を弔うため、平清盛が建立したと伝えられる。創建時の所在地は、兵庫区三川口町付近という説がある。創建時には七堂伽藍(がらん)を誇ったとされるが、1335年の湊川の戦で兵火に遭ったのをはじめ、幾度かの火災を受けて現在地に移転したという。さらには1945年の神戸空襲で、堂宇一切を焼失し、戦後再建されて現在に至った。

 境内に松王丸の供養塔、平清盛の愛妾(あいしょう)であったという妓王、妓女の墓が祭られている。

【陵墓・陵墓参考地】りょうぼ・りょうぼさんこうち

 一般に、天皇・皇族の墓を総称して陵墓といい、皇族の墓所である可能性がある場所を陵墓参考地と呼ぶ。陵墓および陵墓参考地は宮内庁によって管理されており、研究者などが自由に立ち入って調査することができない。一部の古墳では、比定される天皇と古墳の年代に明らかな相違が見られ、当該天皇陵であることに疑義が出されている。考古学的には、古墳の名称はその古墳が所在する地名(字名など)を用いることが原則であり、○○天皇陵という呼称は用いない(例:仁徳天皇陵=大仙(だいせん)古墳、応神天皇陵=誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳など)が、「仁徳天皇陵古墳」といった用い方をする例もある。

【六條八幡神社】ろくじょうはちまんじんじゃ

 神戸市北区山田町中にある神社。祭神は応神天皇。山田庄十三村(藍那、西下、東下、中、福地、原野、上谷上、下谷上、小河、坂本、衝原、東小部、西小部)の総鎮守。境内には三重塔、薬師堂などがあり、かつての神仏習合の姿をとどめている。

 伝承によれば、神宮皇后の行宮(あんぐう)であったとされ、10世紀に宝殿が造営されたという。12世紀前半に、源為義(みなもとのためよし)が山田庄の領主となり、京都の六条にあった若宮八幡宮を勧請(かんじょう)し、現在の六條八幡神社のもととなった。

 三重塔は、15世紀中ごろに建てられたもので、檜皮葺(ひわだぶき)、高さ13.2mをはかる。室町時代の整美な建築として、国の重要文化財に指定されている。

【六根】ろっこん

 仏教で用いられる言葉。人の感覚や意識を生みだして、さまざまな欲望や迷いを起こさせるもとになる六つの器官のこと。眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)をいう。眼・耳・鼻・舌・身が外部からの刺激を感じ、それによって意が生じる。六根から生じる迷いを断てば、清らかな身になることができるとされ、これを「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」という。

わ行

【和田寺】わでんじ

 丹波篠山市今田町にある天台宗の寺院。二老山(にろうさん)と号する。今田町のほぼ中央に位置しており、646年に法道仙人が和田寺山頂に建立した堂に始まるとされる。1184年に堂宇をすべて焼失、再建されたが山頂での寺院維持が困難となったため、ふもとに移転して本堂が再建された。1392年より寺号を現在の二老山和田寺とした。