昔、難波(なにわ=現在の大阪)から瀬戸内(せとうち)の海を通る航路は、とても大切な海の道でした。ふだんはおだやかに見える瀬戸内海(せとないかい)ですが、たくさんの島や浅瀬がありますし、明石海峡(あかしかいきょう)のように潮の流れが速いところもあるので、風や波がはげしいときにはたいへんあぶなくなるのでした。
そこで行基上人は、安全に航海できるようにするために、摂津国(せっつのくに)から播磨国(はりまのくに)にかけて、五つの港を築いたと言われています。明石の魚住の泊(うおずみのとまり)の工事は、大変な難工事でした。特に冬の間は、西風が強くふき、播磨灘(はりまなだ)の荒波が打ち寄せます。行基上人が工事を始めると、上人の徳をしたってあたりの村から次々に人が集まってきました。工事は何年もかかり、なかなかはかどりませんでしたが、何百人、何千人もの人々が、海の底をさらって深くし、ていぼうを築き、長い間かかってようやく港が完成しました。
港の完成を祝って、上人が仏様においのりをしていると、大きなエイが泳いできて、海の中からいっしょにいのったということです。そこで村人たちは、このエイに酒をふるまって帰ってもらいました。それ以来、この地を「エイが向かう島」、江井ヶ島(えいがしま)と呼ぶようになったということです。
その後、魚住の泊は風や波のためにたびたびこわれましたが、多くの人の手によって修理されて、今の江井ヶ島港に受けつがれています。港のそばには、行基上人が開いた長楽寺(ちょうらくじ)があって、上人が刻んだという石のお地蔵様が残されているそうです。