1200年以上も昔、まだ、奈良に都があったころのお話です。行基上人(ぎょうきしょうにん)というえらいお坊さんが、日本全国を旅していました。行基上人は、行く先々でため池を造ったり、水路を開いたりして、人々を助けながら仏様の教えを広めていたのです。
ある時、さみしい猪名野(いなの)を歩いていた上人は、道ばたにたおれていた老人に気がついて立ち止まりました。
「もし、どうなさいましたか。」
上人がたずねると、老人は苦しそうに答えました。
「病気を治すのに有馬へ行こおもて、ここまで来たんやけど、体がしんどうなった。もう三日も飯食うとらへん。何ぞ食うもん持ってしめへんか。」
老人をよく見てみると、体中に瘡(かさ)ができて、そこから膿(うみ)が出ているというひどいありさまでした。そこで上人は、旅のお弁当の干し飯(ほしいい)を取り出してやりましたが、老人は、「あかん、あかん。わしゃ生の魚でも食わんと、元気が出えへんわ」と言います。そこで上人は、わざわざ長洲(ながす)の浜まで行って、漁師に魚をわけてもらいました。そして、魚の片身を料理して食べさせてやりました。
上人が残った片身を昆陽池(こやいけ)に投げこむと、不思議なことに魚はそのまま泳ぎ始めて、池の中へ消えてゆきました。昆陽池には、このときの魚の子孫の「片目の鮒(ふな、片目の金魚という伝説もあります)」が、今でも住んでいるということです。
さて、上人は老人を背負って有馬温泉に向かいましたが、そのとちゅう、老人は苦しそうに言いました。
「体中のできものが膿(う)んで、ウジがわいて、痛うて、かゆうてたまらんわ。お坊さん、膿をなめて、ウジを吸い取ってくれへんかいな。ほたら少しは治るとおもうんやけど。」
ふつうならとてもできることではありません。けれどもこれを聞いた行基上人は、老人をおろすと、ひどく膿みただれた老人のはだをなめ、ウジを吸い取り始めました。するとどうでしょう。上人がなめたところが、どんどんと黄金色にかがやき始めたではありませんか。気がついてみると、老人の姿は、いつの間にか光りかがやく仏様に変わっていたのです。
上人は「あっ」とひれふして、おがみました。
「私は薬師如来(やくしにょらい)です。上人をためすため病人に姿を変えていましたが、上人の慈悲(じひ)の心はよくわかりました。これから有馬へ行って、病気の人たちを救ってやりなさい。」
こうして行基上人は有馬へ行き、さびれ果てていた温泉をたてなおして、多くの病気の人を助けることになったのです。
行基上人は、このときの薬師如来の姿を像に刻み、お堂を建てて祭りましたが、それが現在の温泉寺のはじまりだということです。また別の伝説では、薬師如来を祭る寺を建てようと考えた行基上人が、東に向かって木の葉を投げ、それが落ちたところに建てたのが昆陽寺(こんようじ)だとも伝えています。