性空上人(しょうくうしょうにん)は、橘家(たちばなけ)という名門貴族の子として京の都で生まれました。そして生まれたときから、仏様に守られた一生を約束するような伝説に包まれていました。

性空の母には、すでに何人かの子がありましたが、どの子もひどい難産でした。そこで性空を身ごもったとき、流産させてしまおうと毒を飲んだのですが、流産しなかったばかりか、不思議に安産であったといいます。
生まれた赤子は、左手をしっかりとにぎりしめていました。不審に思った両親が開いてみると、にぎられていたのはなんと一本の針だったのです。針が糸を導くように、この子は人々を導くようになるにちがいない。この話を伝え聞いた人は、赤ん坊は普賢菩薩(ふげんぼさつ)の生まれ変わりにちがいないと、うわさしあうのでした。

赤子は仲太小太郎(ちゅうたこたろう)と名付けられましたが、成長するにつれ、その才は目をみはるものになってゆきました。十歳になった時には、早くも藤原大納言(ふじわらのだいなごん)の若君の勉強相手として仕えるようになっていました。

ある日仲太小太郎は、大納言家の家宝のすずりを手にとってながめていて、割ってしまいます。若君は友をかばおうと、父の大納言に「割ったのは私です」と申し出ました。それを聞いて怒った大納言は、息子の首を打ってしまったのです。

仲太小太郎は、自分のせいで友の命が失われたことに、ひどく打ちのめされました。若君をとむらうために出家しようと考えましたが、息子が貴族として高い位に進むことを望んでいた小太郎の母は、なかなか許してくれません。しかしある夜、母の夢に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)があらわれます。
「早く、そなたの子を出家させよ。」
文殊菩薩のお告げに、母もようやくそれを認め、小太郎は性空と名乗って仏に仕える身となったのでした。

九州へわたった性空は、霧島山(きりしまやま)にこもって修行を続けました。性空が庵(いおり)にこもって読経(どきょう)の日々を送っていると、いつのまにか窓の下に、三枚の餅(もち)が置かれています。それを食べるとたいそうおいしかったのですが、不思議なことに何日たっても腹が減りません。こうして性空は、法華経(ほけきょう)を極めたといいます。

さらに背振山(せふりやま)に移って修行を続けるころになると、性空には二人の童子がつき従うようになりました。童子は乙丸(おとまる)、若丸(わかまる)といい、乙丸は不動明王(ふどうみょうおう)の、若丸は毘沙門天(びしゃもんてん)の化身(けしん)だったと言います。童子たちは、性空が何も言わずともその心を察し、性空とともに経を読みました。
こうして30年近い修行を終えた性空は、京へ上る道を選びます。

京への道をたどる性空の上には、紫色に光る雲が道を示すように流れていました。ところが、播磨路(はりまじ)に入ると、その雲が一つの山の上にとどまって動きません。そこで性空がその山へと分け入ってみると、一人の老僧に出会いました。
「この山は書写山(しょしゃざん)という山で、釈迦(しゃか)が教えを説いた天竺(てんじく)の、霊鷲山(りょうじゅせん)の土が納められている。この山に住めば、人の六根は仏と同じようにすみわたるだろう。」
そう告げると、老僧はたちまち文殊菩薩の姿となって消えたのでした。

性空は京へ上るのをやめ、書写山に住みました。六根が清浄(しょうじょう)となった性空は、世間の欲を捨てて、そまつな庵でただひたすら法華経を唱えて過ごしました。書写山にある桜の木には、毎年花のころになると、天女さえまい降りたといいます。やがて性空は、この桜に如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)をほり、その像を納めるお堂を建てました。これが、現在の円教寺摩尼殿(えんぎょうじまにでん)となったのです。

性空には、さらにさまざまな伝説が生まれます。それを一つ一つ取り上げることはとてもできませんが、いくつかを紹介(しょうかい)しましょう。

ひとつ目のお話。鍋(なべ)の中でふつふつ煮られている豆と、ぱちぱちと燃やされる豆殻(まめがら)の音が、こんなふうに聞こえたそうです。
「他人でもないお前が、私を煮るなんてひどいじゃないか。」
「私だって好きでやっているわけじゃないよ。焼かれる身だってつらいのだ。」

ふたつ目のお話。性空と親しかった僧たちは、何も言わないのにほしかった品をおくられておどろくことがしばしばだったと言います。ある僧はよい紙をおくられ、またある僧は沐浴(もくよく)をする湯釜(ゆがま)をおくられて、おどろくと同時に性空が心を読む力に感じ入ったそうです。

年を経るとともに性空の名は高まり、位の高い貴族や、中宮(ちゅうぐう=天皇の夫人)彰子(しょうし)といった人々が、書写山を訪れるようになりました。しかし性空は、人が訪れるほどに身を引くようになり、ついに書写山の北に庵を造ってこもってしまいます。
花山法皇(かざんほうおう)が説法を聞くために性空を訪れたのは、そんな時でした。この時、花山法皇は一人の絵師を連れていました。絵師はとなりの部屋で、さきほど会った性空の顔を思い出しながら描いていたのですが、そのさなか、とつぜん地震がおこります。はげしいゆれに思わず落としそうになった筆先から、性空の絵姿にひとしずくの墨(すみ)が落ちました。しかし後になってよくよく見ると、その墨のあとは、絵師が見忘れていた性空のほくろと同じ場所についていたということです。
数多くの伝説に包まれて、性空は九十八歳で、その長い一生を終えました。