今から2000年近く昔の話です。そのころ、出雲国(いずものくに=現在の島根県東部)に、野見宿禰(のみのすくね)という人がいました。野見宿禰は、たいへん力の強い人でしたが、学問にすぐれた、かしこい人でもありました。

そのころ、大和国(やまとのくに=現在の奈良県)には、当麻蹴速(たいまのけはや)というこれもたいへん強い人がいました。相撲(すもう)をとると、蹴速にかなう人はいません。
「日本でおれにかなうやつはいないだろう。」
蹴速はそう言ってじまんしていました。
「だれか蹴速と相撲がとれる者はいないか。」
そのころ国をおさめていた垂仁天皇(すいにんてんのう)がたずねますと、家来のひとりが答えました。
「出雲国に、野見宿禰という強い人がいるそうです。」
そこで天皇は、野見宿禰を大和国に招いて、当麻蹴速と相撲をとらせることにしました。二人とも力いっぱい戦い、宿禰は、みごとに蹴速をたおしました。垂仁天皇はたいへん喜び、野見宿禰は領地をもらって、天皇につかえることになりました。

そのころまでは、天皇のようなえらい人が死ぬと古墳という大きな墓を造り、まわりに家来たちを生きたままでうめていたといわれています。
宿禰は、「いくらえらい人のためでも、人を生きうめにして殺すのはよくありません」と言って、そのかわりに粘土で作った埴輪(はにわ)をおくように、天皇にすすめました。そこで、それからは古墳を造るときに、人や家や馬の形をした埴輪をならべるようになったと言われています。古墳のまわりの埴輪を、知っている人も多いでしょう。

さて、こうしてかつやくした宿禰ですが、やがてふるさとの出雲へ帰ることになりました。ところがそのとちゅう、播磨国(はりまのくに)まで来たところで、重い病気にかかってしまいました。土地の人たちは、手厚く看病しましたがそのかいもなく、宿禰は亡くなってしまったのです。

宿禰が立派な人であることをよく知っていた人々は、とても悲しみました。揖保川(いぼがわ)の河原から山の上まで、村人たちが一列にならんで、手から手へ、石をわたして運び、宿禰のために立派な墓を造りました。野原にたくさんの人が立ちならんで働いたので、その場所は「立野(たちの)」と呼ばれ、それが現在の「たつの(龍野)」のはじまりだということです。

その後野見宿禰の子孫は、はにわや土器をつくる「土師氏(はじし)」としてかつやくしました。