平氏(へいし)が、たいへん栄えていたころの話です。平清盛(たいらのきよもり)は、兵庫に都を移して、中国の宋(そう)と貿易をしようと考えていました。そのためには、大きな港が必要でした。

そのころの兵庫の港――大輪田の泊(おおわだのとまり)と呼ばれていました――は、北風は六甲(ろっこう)の山並みにさえぎられ、南西の風は和田岬(わだみさき)にさえぎられていましたが、南東からの風は防ぐものがなく、この向きから大風がふくと、船が出入りすることもできませんでした。清盛は、ここをもっと安全な港にしようと考えたのです。
南東からの風や波を防ぐためには、港のおきに島を築いて防波堤にするしかありません。そのため、会下山(えげやま)の南にあった塩槌山(しおづちやま)を切りくずして、その土砂を海へ運ぶことになりました。

しかし、機械の力もない時代です。仕事はなかなかはかどりません。深い海に土砂をうめて、あと少しというところまでくるのですが、そのたびに潮に流されてしまいます。どうすれば工事がうまくゆくのか。清盛は陰陽博士(おんみょうはかせ)に占わせてみました。
「島を築くには、海中の竜神の怒りをしずめなくてはならない。そのためには、三十人の人柱を、海にしずめて竜神に供えるとよいだろう。」
これが占いの答えでした。

清盛はさっそく、生田(いくた)に関所を設けて、人柱にするために旅人をつかまえ始めました。つかまえられた人たちや家族の泣き声が、和田の松原にひびきわたったといいます。

清盛には、そば仕えの少年が何人かいました。その中のひとり、讃岐国(さぬきのくに)の武将の子、松王丸(まつおうまる)という十七歳の少年は、つかまえられた人たちの悲しみを見かねて、清盛に言いました。
「人柱などというむごいことは、おやめください。私が三十人の身代わりになりましょう。」

はじめ、清盛は聞き入れませんでした。けれども松王丸はあきらめず、何度も何度もくり返し、清盛にうったえました。

ついに、清盛も松王丸の申し出を聞き入れました。松王丸は、石の櫃(ひつ)に入れられ、白馬の背に乗せられて港へと運ばれました。そして、千人の僧侶の、読経(どきょう)する声がひびく中で、海の中へとしずんでいったのです。

人々は涙を流しながら、お経を書き写した大小さまざまの石を海へ投げ入れました。

こうして、波を防ぐための島は完成し、「築島(つきしま)」と呼ばれました。たくさんのお経をしずめたので、「経ヶ島(きょうがしま)」とも呼ばれます。

その後清盛が築島の完成を祝ったとき、西にそびえる高取山の山頂からわき上がった紫色の雲が、築島の上をおおい、美しい楽の音とともにたくさんの仏が現れました。その中に松王丸の姿もありました。やがて松王丸の姿は、如意輪観音(にょいりんかんのん)へと変わり、金色の光を放ったといいます。
清盛は、松王丸をとむらうために、この地に寺を建てました。それが、経島山来迎寺(きょうとうざんらいこうじ)のはじまりだそうです。その境内には、今でも松王丸の供養塔(くようとう)が残っています。