1184年、播磨(はりま)は、源氏(げんじ)と平氏(へいし)の戦乱のまっただ中にありました。政治をにぎり、栄華をほしいままにしていた平氏に対して、源氏の一族が兵をあげ、その戦いが激しさを増していたのです。
京の都を捨てた平氏の軍勢は、播磨で態勢を立て直そうとしていました。源氏は、平氏をたおそうと、播磨へ攻めこみます。源義経(みなもとのよしつね)は、その源氏の一軍をひきいていました。
義経の軍勢は、丹波国(たんばのくに)から播磨を経て、山間の道を鵯越(ひよどりごえ)に向かっていました。めざすは一ノ谷にある平氏の陣地です。草深い道をぬって、小野の樫山(かしやま)まで来たとき、山のふもとに一軒の農家がありました。道をたずねようと、義経はその前に馬をとめました。
家から出てきた老女は、山ごえの道をていねいに教えてくれました。そのやさしそうなようすに、義経は思わず馬から降りました。何とはなしに、幼いころ別れたきりの、母のおもかげを見たような気がしたのです。全軍に休息を命じて、義経は、そばにあった大きな石に腰(こし)をおろしました。
「せっかくお休みになりますのに、おん大将に差し上げるようなものもございません。このような粉飯(こめし)でよろしければ、どうぞおめし上がりください。」
老女は、さきほどできたばかりの粉飯を、おわんに入れて差し出しました。
一口食べた義経は、「焼き加減といい塩加減といい何とも言えぬ。これから戦に向かう身には、本当にありがたい、思いもかけない幸せだ」と、たいそう喜びました。
その時です。休んでいた兵士たちの間から、「わあっ」という声があがりました。強弓(ごうきゅう)の使い手で有名な亀井八郎(かめいはちろう)が、「行軍につかれた兵士たちのために、もっと水をあたえたまえ。」と神仏に念じながら山に向かって矢を射たところ、その矢がつきささった場所から、きれいな水がふき出して、みるみるうちに泉となったのです。
「これこそ、神仏のご加護があるしるしだ。このたびの戦は、必ず勝つ。」
兵士たちはみな、大いに勇気を得ました。弁慶(べんけい)も、力試しとばかりに大岩を積み上げてみせたそうです。
義経は立ち上がりました。もてなしのお礼にと、老女へ六畝(せ)の田をあたえ、村の役人には、この田から決して税を取らぬように命じました。そして、ひらりと馬にまたがると、軍勢をひきいて勇ましく樫山の坂を登ってゆきました。
しばらくして、義経の軍勢が、一ノ谷で大勝利をおさめたという知らせが、この村にも届きました。そしていつのころからか、義経が登っていった坂道のことを、「粉食い坂」と呼ぶようになったということです。